表紙裏のドラマ
小さい頃に読んだ本をどうしても再び読んでみたくなった。
子供向けの、半分絵本のような本だった。特段に変わった内容だったわけではない。少年と少女が引っ越してしまった先生の家を訪ねるだけの、ありがちで単調な話だった。しかしながら、先生の住む海辺の町の描写と心が安らぐような水彩画タッチの挿絵を、僕は忘れることができなかったのだ。
近所で最も大きな書店に足をはこんでみたが見つからない。朝からしらみつぶしに書店をまわって、昼過ぎにもうこれで最後だと飛び込んだ書店は、個人で経営しているらしいこぢんまりとした店だった。古い本なら、古い書店のほうが案外在庫として売れ残っているのでは、と期待したのだ。
とりあえず棚の整理をしていた女性の店員に声をかけてみた。目的の本について尋ねてみると、とうに絶版になっているはずだという何度も聞かされた反応が返ってきた。十二年前に初版が発行されたきり増刷されることはなく、当然、再版の類も期待できない。残念だがよほど読み手がなかったのだろう。彼女はそう続けた。
それにしても、彼女は本に関して相当な知識をもつ優秀な店員のようだった。それまでの店員とは違い、彼女は僕の探していた本についての詳細な情報を教えてくれた。現在その本を手に入れるのがどれだけ困難かということを僕が納得してみせたところで、彼女は物珍しそうに尋ねた。
「失礼ですが、どうして今になってお探しなんですか?」
彼女は眉もほとんど整えていなさそうな、素朴でいかにも読書家らしい地味な身なりをしていた。だからこそ、地味な容姿に似合わない大きな瞳が、くりくりとよく動いて異様に目立った。
「小学校のとき、教室のうしろに本棚に学級文庫として置かれていたのを読んだことがあったんです。多分、表紙の題名が目に入って、なんとなく手にとったんだと思うけど。どうしてだか、眠れない夜にふと思い出してしまって。気になりだすと止まらない性格なものだから」
すると、彼女は目を輝かせて、
「実はその本、わたしも読みました。小さな頃、誕生日に祖母からプレゼントで貰って、すごくいい本だと思ったのを憶えています。でも知らぬ間に捨ててしまったのか、残念なことに手元からなくなってしまいました」
両腕に抱えていた、おそらく今から棚に並べるだろう本をひとまず置いて、彼女はおおまかなあらすじを語り始めた。仕事中に雑談をしていると、店長に見つかって後から叱られてしまうのではないかと心配になった。しかし考えてみれば、もとより平日の昼間だからか客もまばらなのだし、客に求められて本の説明をすることだって書店員の仕事なのだ。それに彼女の処遇について、なにも客の僕が心配することではない。
彼女の口から紡がれる懐かしいストーリーに耳を傾けた。だが、どちらかといえば、僕は彼女の表情にばかり気をとられていた。少年と少女が駅の混雑によってはぐれてしまう場面では目頭を熱くし、電車で偶然に乗り合わせたピエロがおかしな芸を披露するくだりでは、ひとりでくすくすと笑う。実際の本を読むより、ずっと彼女を眺めているほうが面白い。急展開をみせる中盤あたりにさしかかると、口調はいよいよ熱っぽくなり、もはや彼女は客への説明という枠を飛びこえ、自分の世界でストーリーに没頭しているといったふうだった。
エンディングまで一気に語り切った彼女は満足げだったが、なかばあっけにとられている僕に気づくと、とたんに顔色を変え、慌てて謝りの言葉を述べて頭を下げた。
「好きな本のことになると、つい我を忘れてしまうところがあるんです。直そうと努力しているんですけどなかなか……本当にごめんなさい」
僕は何度も頭を下げてみせる彼女を、あなたのような人が書店にいればここに来る人は本を読みたくなるでしょうね、と言ってたしなめた。こちらも動揺していたから、自分でも何が言いたいのかわからなくて、口にしたそばから後悔していた。周りに人がいなくてよかった。僕は咄嗟に気の利いたことを思いつくような、器用な人間ではないのだ。
どうやら僕は、すごく変わった……というか熱意のある店員に話しかけてしまったようだった。ただなにより、それだけ好きだという本に囲まれて仕事ができる彼女を羨ましく思った。物事を妥協せずに選ぶことは、何につけても難しいものだから。
「じゃあ手に入れることは不可能だとしても、どこかの図書館に所蔵されてあるなんてことはないだろうか」
ひとりごとのつもりで漏らした言葉だったが、親切にも彼女は店のパソコンで調べてくれると言いだした。それくらい自分でするからと遠慮する僕をおしとどめ、従業員専用の扉から店の奥に消えていった。
しばらくして小走りに戻ってくると、彼女はプリントアウトした一枚の紙を僕に手渡した。インターネットで調べてみると、ある図書館に所蔵されているかもしれないという。ただ古くて貸し出し数の少ない書籍は廃棄されたり、どこかに寄付されてしまうらしい。そうなれば、探している本に出会うことすらほぼ不可能になる。
印刷された地図からすると、運のいいことにそれほど離れた場所ではないようだった。車をとばせば一時間もかからないだろう。これといって用事もないからすぐに行ってみることに決めた。彼女にもそう伝えた。
「うまく見つかるといいですね。本とめぐり合うのもある種の運命ですから」
なぜだろう。僕よりも彼女のほうがずっと張り切っているように思えた。まるで一緒についてくるとでも言い出しそうな勢いだ。しかしそうはいっても、彼女に声をかけていなければ図書館の情報は手に入らなかったのだから、彼女に感謝しなければならない。
「あと、これはお守りです。探している本とうまく出会えるように」
書店をあとにする間際、そう言って彼女は小物をくれた。それは小さな細長い紙袋に包まれていた。重みは感じないので、きっと安っぽいストラップかなにかだろう。今のところ携帯には黒い皮のストラップをつけているし、気に入ってもいるので使い道がないのは明白だったが、僕はきちんと礼を言って、そいつを上着のポケットにしまっておいた。
さっそく車に乗り込み、イグニッションに鍵をさし込んでエンジンをかける。探し物というのは、結局すべて運まかせだ。いつもなら占いなんて目もくれないのだが、どうしてだろう、そのときばかりはひどく気になった。
昨晩車に乗せた友人が残していった雑誌が、助手席にタイミングよく置かれていた。僕はおもむろに手に取って、目次から星座占いのページを探した。
いて座の人。願ってもない素敵な出会いがあります。この機会を逃さずに。ラッキーカラーはイエロー。
僕は身につけている物を確かめてみたが、何ひとつとしてイエローなんて見当たらない。車の色は黒。時計はメタリックのシルバーだし、服もジーンズと白い綿のシャツだ。携帯は赤。そもそもイエローはそんなに好きな色ではない。家にあるものを思い返してみたが、いらないものはすぐに捨てる主義なのでたいして期待はできない。
諦めて雑誌を放りだし、アクセルを踏む。家でじっとしているのはもったいないくらいの晴天だ。まるで僕のために準備されたかのようなあきれるほど空いた道路を、気分よく快調に駆け抜けた。
*
地図を頼りにたどり着いた図書館は、ひどくこぢんまりとしていた。建物の規模自体、近くの公民館とたいして変わらないのだが、なにより古ぼけた事務所のようで図書館の知的な雰囲気が感じられない。駐車場の車止めは誰がやったのか不親切にも砕け散っていた。それも砂のように細かく、粉々に。
需要の少ない本を取り揃えているのだから、威厳に満ちた立派な建物を頭に描いていたのだが、想像とはあまりにかけ離れていた。外壁には得体の知れない蔦がうねうねとからみつき、ひどく不衛生な印象を受ける。鼠の巣窟みたいだ。壁はところどころひび割れており、そこから墨を流したかのような黒い跡がついている。少し大きめのハンマーでどこか一箇所をガツンとやれば、建物自体が達磨落としの要領で崩すことができそうな気がした。
道を間違えたのかと思って、念のためもう一度だけ地図を確認してみた。書店からの道筋を 指でなぞっていく……大丈夫、間違いない。
わざとらしいほど重い扉を開けてなかに入ると、いきなり古い本に特有のすえた匂いが鼻をついた。
奥のカウンター、というより学校の美術室で使われるような頑丈さだけがウリの質素な机に、痩せた青年がひっそりと座っていた。辞書のような分厚い書物に目を落としていて、よほど熱心に読みこんでいるのか、僕が入ってきたことにまったく気づく素振りをみせない。彼の背後の窓から陽光が差し込み、レースのカーテンに遮られて柔らかい陽だまりをつくっている。平日からひなたで本を読むなんて、もったいないくらい贅沢な時間の過ごし方だ。
さっそく僕は棚を眺めていった。小説、実用書、雑誌、絵本。分野ごとに分けられていたので、僕が探している子供向けの本のスペースはすぐにわかった。
本は作家の名前で順序づけされているのだが、あいにく僕は探している本のタイトルだけしか知らない。カウンターにもどこにもパソコンらしきものだないから、おそらくコンピューター管理などはされていないようだ。仕方なく、しらみつぶしに背表紙を睨んでいった。あまりにも原始的で単調な作業に、首や背中の使い慣れない筋肉が悲鳴をあげた。なんとか書架を上から下までふた回り確認したけれど、そこに目的の本は置かれていないようだった。
だが、書店の女性に手間をかけて調べてもらったうえに、せっかく一時間かけてまでここまで来たのだから、このまま諦めて帰ってしまうには惜しい。
僕はカウンターのほうを振り返って、様子をうかがってみた。青年はまだ僕の存在を把握していないようだった。そこで、彼が新しいページを開くタイミングを待ってから、意を決してカウンターに歩み寄った。
「あの、ちょっといいかな。探している本があるんだけど」
僕の呼びかけに、彼はようやく書物から顔をあげた。そして、難解な絵画を鑑賞するような按配で、僕の顔をじっくりと凝視した。目を細めているところをみると、あまり視力がよくないようだ。彼はかたわらのケースから黒縁のやけに年季の入った眼鏡を取り出してつけた。レンズが厚いので、彼の瞳が豆粒のように小さく見えるのがひどく奇妙だった。目じりには洗い残しの目やにがついていた。
「初めての方ですね。それで、どんな本をお探しなんですか」
僕はタイトルと、書店の女の子が語ってくれたあらすじを思い返して、おおまかに説明した。たったそれだけの情報で、きちんと彼に伝わるかどうか不安だったが、彼は空中を探るようにひとさし指をふらふらとさまよわせた後、きっぱりと、
「それだったら、きっと地下の書庫にあると思いますよ。じゃあ、行ってみましょうか」
引き出しからいくつかある鍵のうちひとつを手に収め、書庫の間を縫って階段へ歩いた。僕もあとをついていく。青年の背中はほっそりとしていて、モデルのようだった。背も体格も大人の平均くらいだが、着ぐるみを身につけているかのように、どこか無理をしてその体に収まっているような心地悪さが漂っていた。服がとてもタイトだったから、そのせいかもしれない。
部屋の奥にある木製のドアの先に、地下へと続く階段があった。しんとして、冷たい。公然とドアがあったわけだから、別に隠し部屋というわけでもないのだろうが、入ってはいけないところへ足を踏み入れたような感覚だった。途中でみみずが一匹死んでいた。薄っぺらくコンクリートに貼りついていて、幾度か靴の底で踏み潰されたと思われる。青年はためらいなく踏んだが、僕は気味が悪くなって避けた。そのまま階段を降りていくと、真っ暗な地下室があった。ぞっとするような静けさだった。
パチン。
青年は手探りでスイッチを触って、蛍光灯の明かりを灯した。逃げ遅れた暗闇がいまだに部屋を漂っているような薄暗さだった。蛍光灯のいくつかは切れかけているようで、虫の羽音を思わせるノイズをばら撒きながら、しきりに点滅していた。頭の中身が少しずつ削り取られていくような、ひどく耳障りな音だった。居心地は決して良いとはいえなかったが、普段は人の目に触れることのない秘密の基地に踏み入ったようで、童心にかえって少しだけ心が躍った。
地下室はさっきまでいた場所の広さとさしてかわらなかった。ただし書架がみっしりと詰められているので通路の幅が狭い。青年は体を横にし、蟹歩きでしかるべき場所へと向かっていった。きっとどの本がどこにあるのか頭に入っているのだろう。
僕は邪魔になりそうだったので手近な書架に歩み寄って、ぎっしりと詰まった本を眺めていく。それらの本が陽の差さない地下室に閉じ込めてある理由は明らかだった。手に取る人が限られている、もしくは皆無なのだ。
僕は国木田独歩の全集のうち一冊を手に取った。裏づけをたしかめると、驚いたことに昭和初期に発行された初版のものだった。紙には茶色いシミが点々と滲んでいる。あまりやけていないところからすると、大切に保管されていたことがわかる。日本全国をみわたしてみても、これだけ状態の良い国木田独歩全集の初版本は存在しないのではないか。
ページをめくった指を鼻に近づけると、親の卒業アルバムをめくったときの匂いを思い出した。決して良い香りではないのに、どこかなつかしくてずっと嗅いでいたいような、あの匂い。蓄積された時間の匂いだ。
青年は大きなダンボール箱を抱えてきた。頭の上に掲げるように持って通路をすりぬけ、入り口のスペースでガムテープの封をといた。沢山の本をかき分けて、ようやく一冊の本に行き当たった。彼は鼻の付け根までずりおちた眼鏡を中指で器用に支えながら、本を差し出してくる。
見覚えのあるポップな表紙。砂浜に体を寄せ合って座り込み、無邪気に棒切れで落書きをしている少年と少女。水彩画のような淡いタッチで描いてあるのが大好きだった。
「運がいいですね。このダンボールに入っている本は、来週あたり、離島の小学校に寄贈しようとしていたところだったんです。他にもいくつかの学校へ無差別に送るので、もしそうなっていたら、あなたはこの本とは出会えなかったかもしれません。絶版で、それほど数は出回っていないですし」
青年は本をダンボールに手早く片付け、その場に置きっぱなしにして地下室を出た。階段を登る途中、彼はまばゆい地上の光を背にして不意に立ち止まった。僕は思わず身構えた。しかし、彼の口から出たのはまったく予期しない提案だった。
「その本、もしよかったらさしあげますよ」
もしずっと手元に置いておけるのなら、僕にとってそれに越したことはない。だが希少価値の高い本を無償で貰うことに抵抗を感じ、僕は丁重に断わろうと思った。しかし青年はあくまで僕に貰ってほしいと言い張る。そして、こう続けた。
「思い入れが強い人から大切に読んでもらうのが、本にとって最も幸せなことですから。読まれない本は、生き物でいうところの「仮死」状態と同じようなものなんです。生きながらにして、死んでいる。そういう本に生き返る機会が与えられるというのなら、それを断るなんて権利は、いち図書館員にはない。これから他に読みたい人がでてこなかったら、この本は死んでしまうことになるんですよ。いってみればこの地下室は、本の墓場のようなものなんです」
僕の遠慮を鋭く見抜いたのか、青年はいくらか語気を強めて説得する。そこまで言われては、僕も断る余地はなかった。
「すごく貴重な本なのに、悪いね」
地上の部屋に出ると、陽の光が目に痛かった。青年も目を細めていたが、笑みを作ってみせたのか、ただまぶしかっただけなのか、傍で見ていた僕にはわからなかった。
「気にしないでください。売るために集めていたわけではないですから。もともとこの図書館は、僕の父が集めた本を閉じ込めておくのがもったいないから、一般に貸し出しているだけなんです。父は本の虫でした。幼少の記憶を振り返ってみれば、本のなかに埋もれている父の姿しか記憶にないですから。もともとはそれなりに財産のある家だったと祖母から聞かされているんですけど、今、僕の手元に残っているのは行き場を失った本と、砂糖でできた建物だけです」
「砂糖?」
と、僕は尋ねてみた。
「下手な喩えですよ。つまり、それくらい危うい建物だってことです」
さっき観察した建物の外観を思い返し、僕はなるほどと頷いた。たしかに、角砂糖を水で固めてうまく繋ぎ合わせ、周囲を防水してしばらくの間だけ風雨にさらせば、こんな建物になりそうでもある。だとすれば水の流れたような黒い跡は、あるいは蟻の群れだったのかもしれない。
「いや、悪くない表現だと思う。君は詩人か小説家になったほうがいいかもしれない」
「ありがとうございます」
青年は照れていた。でも、僕の言葉を素直に受け取ったとは、とうてい見受けられなかった。彼の表情は出会った時からずっと硬いままだった。まるでこめかみに透明な銃口でも突きつけられてでもいるように、気の毒なほど強張っていた。そのうえ血の気が引いた青い顔をしている。どこか体の具合でも悪いのだろうか、と僕は疑った。
そんなことを考えていた僕にかまわず、彼は淡々と話を続けた。
「だから、ここは厳密な意味で図書館とはいえないかもしれません。ただ単に本がたくさん置かれているだけの穴倉といったほうがしっくりくる。でも、よくこの場所をつきとめましたね。初めてここに来る人の大抵が、公民館と間違えて入ってきた人か、寝場所を探しているホームレスの人なんですよ」
そこで、僕は書店にいた女性店員の話をした。とても本に詳しく、本に囲まれて仕事をするのが本当に幸せそうな、そんな女の子だったと。そして彼女が、インターネットからこの図書館に僕の探していた本が所蔵されていることを調べ上げ、僕に教えてくれた……そんなことを、簡単に説明した。
「なるほど。もしかするとその方は、僕の父と気が会うかもしれませんね。二人が会って話を始めたら、一生涯をかけても足りないかもしれない。きっと何かに執りつかれたように。ほんの少し、あと五十年くらい父が遅く生まれるか、彼女が早く生まれていれば。でも、そう上手くいくほど甘くないですね」
「君のお父さんが五十年遅く生まれて、彼女が五十年早く生まれたなら、やっぱりすれ違うんだからね。それに、僕たちがいくら望んでも、本人たちのためには会わないほうがよかったのかもしれないし。少なくとも真っ当に生きるだめには」
そこまで話すと、窓から射し込む陽の光がやや赤みがかってきたのに気づいた。僕はふと時計に目をやる。思ったより時間が経っていた。本を探すのに夢中だったから、昼食をとっていない。朝食もバナナ一本とコーヒーを二杯飲んだだけだった。あとは運転中に眠気覚ましのブラックガムを三枚。そろそろ胃袋がカタカタと震えだす頃合だ。たっぷりとタバスコをかけたアンチョビのピザでも食べたい気分だった。
「じゃあ、この本は貰っていくよ。本当にありがとう。大切にする」
僕は重たい扉に体重を預けてなんとか押し開けると、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。久しぶりに空気らしい空気を吸ったような気がした。車に乗り込む前に、思いとどまって扉の前まで引き返し、その扉にはめ込まれた正方形のガラスから中を覗いた。
青年は何事もなかったかのように元の位置に戻って、机に置かれた本に目を落としていた。僕がここにいた時間を切り取って、残りをつなぎ合わせたとしてもたいして不自然ではないだろう。むしろそのほうがしっくりいくような気がする。その光景は、瓶の中に閉じ込められた船を連想させた。彼はこの建物の中で作られ、時間の経過とともに扉から外に出られなくなってしまった。彼自身が、所蔵されている本たちの思いに絡めとられ、重く、大きく、作り上げられてしまったのだ。今ではもう、彼がこの重たいドアから外に出るには手遅れになっている。
やがて青年は扉の外に立つ僕の気配に気づき、顔を上げた。僕は軽く頭を下げ、さりげなく微笑んでからその場を立ち去った。
*
ひとつだけ確実に言えることは、ラッキーカラーなんてものはやっぱりあてにならないということだ。僕はイエローのものなんてなにひとつ身につけていなかったのに、探し物にめぐり合うことができた。占いは誰かを納得させるための嘘でしかないのだ。
僕は信号が赤になって、前を走っていた白のミニクーパーが停車したので、僕もブレーキを踏む。信号はなかなか変わらない。僕は大きなあくびをひとつして、橙色に染まった街並みをぼんやりと眺めていた。あくびのせいで涙の膜が視界に薄く張っていて、風景はまるで水で薄めたように見えた。そして、ふと書店員からもらった小さな紙袋のことを思い出した。ポケットからそれを取り出すと、紙袋を開いて手に取り出してみた。
それは、あらかじめ予想していた通りストラップだった。しかしストラップとはいっても、黄色のストラップだ。ビニールのような材質で、クリスタルのネコのマスコットがついている。招き猫のようでもあったし、ただ目のあたりが痒くて前足でこすっているだけのようにも見える。ネコの首には豆粒みたいな鈴がついていた。左右に振ってみると、その安っぽさからは想像できないほど堂々とした鈴の音がなった。
僕はあの女性店員のことを思い返してみた。いくら本が好きだとはいっても、あれだけ詳細にストーリーをそらで語れるだろうか。それに、この本のことを説明している彼女はなにより楽しそうだった。それだけ彼女もこの本が好きだということだ。
僕は助手席に置いてあるその本を手に取り、パラパラとめくった。そこには覚えのある文章と、淡い水彩調の挿絵が印刷されている。とても懐かしかった。そして、それでもう満足だった。僕の目的は、その本を探し出して手に取ることだったのだ。僕の望みはとりあえず果たされた。となれば、やはりこの本は彼女に渡すべきだろう。もとをたどれば、あの店員が探し当てたようなものなのだ。ならば、その本にめぐり合えたという結果を伝えるのが筋だろう。そのうえで僕は彼女に対してきちんとお礼をしたい。
後ろから長いクラクションが鳴った。前を見るといつのまにか信号は赤に変わっている。僕は慌ててハンドルを握ってアクセルを踏む。
目当ての書店は、昼間に来たときは僕以外の客は見当たらなかったが、さすがに夕方となれば学校帰りの学生や買い物ついでの主婦でそれなりに賑わっていた。
探し当てた本を携えて表に立ち、あまり広いとはいえない店内をぐるりと見渡した。それから棚の間の通路も見てまわったが、あの女性店員の姿はみえない。僕はレジカウンターに立っている中年の男性に尋ねてみた。返ってきたのはまったく想定外の言葉だった。
そんな店員は元からいないはずだ。昼間はアルバイトに店番をさせているが、現在のところ女性は雇っていない。つい先月まで大学生をひとり雇っていたが、すでに辞めてしまった。それも男子学生だという。そいつが一日に一冊ずつ売り物の本をくすねるとにかくひどいやつで、真面目そうだからと見た目で信頼して雇ったわたしが馬鹿だったんだよ、と彼は愚痴をこぼした。
僕にとってみれば、アルバイトの青年がどれだけ泥棒しようとも、知ったことではなかった。僕の知りたいのは、昼間に会ったあの女性はどこへいってしまったのか。その一点だ。彼が冗談でも言っているのではないかとはじめは疑ってみたが、彼は真剣に怒っているようだから、真実を述べていると判断して間違いなさそうだった。彼の外見は、銀行で働いていそうな、冗談から遠いタイプに見えた。アルバイトの泥棒青年とちがって、その男性は見た目も中身も一致している側の人間なのだ。
しかし僕は念のため、最後にもう一度だけ確認した。昼間に来たとき、店員らしき女性がいたが、それは本当に店員ではないのか。
それに対して、彼はあっさりと言った。
「どこかからまぎれ込んだ風変わりな客が、店員のふりでもしていたんじゃないのかな」
それから僕は彼女を探しに行こうかと思ったが、どこに行けば会えるのかまったくあてがない。それに、朝から本を探し回っていたのですっかり疲れてしまい、頭も体も思うように動いてくれなかった。
しかたなくそのまま家へ帰り、トイレを済ませて熱いシャワーを浴びた。タオルで簡単に拭いて、下着とパンツだけをはき、ソファーに座って冷たいビールを飲んだ。舌と喉で冷たく弾ける。疲れているせいか、はたまたこの一週間ほど睡眠不足だったせいか、二本ほどのんだところで早くも酔いがまわってきた。ほどよい眠気がやってきて、横になれば自然と眠りに入っていけそうだった。
携帯電話の電源を入れると、十二通のメールが届いていた。それらはすべて仕事に関する内容のもので、当然ながら彼女の情報などひとつもない。メールアドレスを教えていないのでわかりきっていることなのだが、なぜだか期待している自分がいた。僕はメールをひとつも開けることなく、再び携帯電話の電源を切って放り出した。
テーブルから本を取り上げ、あらためてじっくりと眺めてみた。表紙はラップのような薄いビニールがところどころ剥がれ、その部分は紙がむき出しになって痛みが激しかった。先生の引越し先である海沿いの町が、高台から見下ろすように描かれている。港には漁船がいくつか繋留されており、閑散としていて人影はない。海は深い青に染まり波は穏やかだ。水平線には巨大な入道雲が立ちのぼっている。僕は本の内容について、特に季節までは記憶していなかったが、少年少女が遠くまで旅に出るのだから、夏休みという設定だったに違いない。
高まる気持ちを抑えながら、僕は物語を読み始めた。
まず初めの第一文に、こうある。
「これは、ぼくとナツミと先生についての物語。最初で最後の大きな冒険だ」
「ぼく」というのが主人公の少年で、「ナツミ」が少女だ。ふたりは小学校の同じクラスの仲良しで、もうそれが小学校最後の夏休みだった。冒頭ではふたりと「先生」の思い出が描かれる。この「先生」というのがふたりのクラスの担任という設定であり、とても魅力的な人物だ。優しくて間違ったことの嫌いな男性教師。ある日、学校にぶち猫が入り込んできたのを「ぼく」とナツミが発見する。首輪もついていないし、警察に届け出ても飼い主がわからない。そして誰かが猫を預からなければならないということになり、結局は先生が自分のアパートで飼うことになる。それから猫を通じた、先生との交流が描かれていく。
初夏、事件は起こる。突如として先生は故郷の町の学校へ赴任することになったのだ。ぼくとナツミは、充分に別れの言葉を交し合うことなく、想いを整理できぬまま先生と離れることになる。夏休みに入って一通の封筒が届く。そこには手紙と猫の写真が入っていた。ぼくとナツミは、その封筒に書かれた住所だけを頼りに、自分たちだけで先生のもとを訪ねることを決意する。
二人は電車やバスを乗り継いで先生の住む町へ行く。その道中に、思春期の芽生えというか、異性への意識がほんのりと織り込まれていた。たとえばふと視線があったとき。それまでは隣同士でいたって違和感もなかったのに、そのときは少しだけ距離をおく。会話がわずかにちぐはぐする。些細なけんかをする。そして丸一日がかりでようやく先生の家に着くのだが、辺りは夕闇に覆われて住所だけではなかなか先生の家までたどりつくのは難しい。そこで二人は、浜辺で一泊することになる。人気の引いた海の家に忍び込み、夜を過ごす。そこではじめて二人に寂しさや不安が襲ってくる。孤独を知り、そして一緒にいる人間の温かさを知る。
僕はこの辺りの描写が好きだった。子供から大人になるということを、端的に表現してある。今だからこそこうして客観的に読めるが、僕が子供の頃に読んだときは、まさしく物語の中に入り込むような心地だったおぼえがある。それだけ子供の気持ちをよく知って書かれた文章なのだ。
そこから先は、収まるところに収まるといったところだ。先生の家をやっとの思いで探し出し、再会する。猫とも会って元気なところを確認する。そして、二人の小学校最後の冒険は終わりを告げる。
僕はひと通り最後まで読んでしまうと、肌寒さを感じて上着を着た。それから何気なく表紙の裏側を開いてみた。普通なら図書館のシールが貼ってあるような場所だ。そこには手書きのボールペンで書いた達筆な文字で、こうあった。
「いずれ持つべき者のもとへたどりつく」
その下に日付が書いてある。もう十年ほど前だ。おそらく図書館の青年の父親が、本にうもれるようにして過ごしていた日々の中で記した文章だろう。いったい誰に向けて、なんのために書いたのかはわからない。
僕は思い返してみた。本のことについて詳しすぎる行方不明の女性店員。いまにも崩れそうな図書館。あれだけ大量の本のなかからすぐに見つけだした青年。この本を入手する難しさに比べれば、僕はあまりにも簡単にたどり着いてしまった。考えれば考えるほど、僕にはすべてを偶然という一言で片付けることはできない。なんらかの不思議な力がはたらいたように思えてくる。すでに、あの図書館が実在したのかどうかですら、僕には信じられなくなっていた。
僕は再び襲ってくる眠気に対抗するため、ビールの残りひと口を喉へ流し込んだ。すでにぬるくなっていて苦かった。
本を繰る手触りで、本の最後のほうのページが二枚重なっているのに気づいた。ゆっくりと破れないようにはがしてみると、そこには砂浜に少年と少女が隣合って座っている絵があった。僕は子供のときにその絵を見た記憶はなかった。なにやら小声で話をしているのか、彼ら表情にはわずかに笑みが浮かんでいるように見える。二人は海を眺めながら、風が強いせいなのか顔を寄せ合っているが、やがて背後に誰かの視線を察知する。そして少年と少女は、おもむろに僕のほうを振り返るのだ。