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蟲の王女  作者: 長谷川
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聖鳥、堕つ


 金獅子帝国には、催涙祭(さいるいさい)、と呼ばれる祭儀がある。


 帝国の夏はとかく(ひでり)に悩まされるのが常だ。ゆえに乾季の入りの前に、皇宮では当代の皇帝が祈りを捧げ、豊穣のための雨を乞う。帝国に数ある祭儀の中でも特に重要なこの儀式は、建国の神である金獅子が、長年友として連れ添った初代皇帝の死した際、慟哭(どうこく)によって天の涙を誘ったという故事に基づくものだという。


 獅子の哭声は乾き切った帝国の大地に七日七晩の雨を()び、枯れかけていた川を(よみがえ)らせた。人民の渇きを潤し、田畑に実りをもたらした。

 よって代々の皇帝は神話の中で、初代皇帝を金獅子の待つ約束の地へ導いたとされる白き鳥──白禽(はっきん)を飛ばして当年の五穀豊穣を願う。

 白禽とは名前のとおり純白の翼を持つ猛禽だ。冠のような冠羽(とさか)と長い尾が目を引く美しい鳥で、野生では極めて獰猛(どうもう)だが、人に()れれば賢く芸をもこなす。


 神代(かみよ)から聖鳥と呼ばれるかの鳥を、今、皇帝が解き放った。


 若き金獅子の(かいな)から放られるように飛び立った白禽は力強く風を掻き、天へ、天へと昇ってゆく。神なる獅子と建国の英雄が、聖鳥の導きによって再会を果たせるように。そうして天が祝いの雨を注いでくれるように。飛び立った白禽の羽ばたきを合図に、庭園の一角を陣取る宮廷楽団が、天に捧げる聖譚曲(オラトリオ)を奏で始める。

 神なる獅子を讃え、眠れる御魂(みたま)の安らかなることを祈る壮麗な旋律だ。

 その音色に耳を傾けながら、やがて雲の白へ溶け込むように飛び去ってゆく鳥の背を、王女は茫洋と見守った。


 己もいっそあの聖鳥のように、蒼穹(そうきゅう)に溶けてしまいたい、と願いながら。


「さあ、さあ。本日は神聖なる宴の席です。皆で天の恵みに感謝し、死によって別たれたすべての魂の再会を祈って神の血を掲げましょう。どうか今年も神なる獅子が親愛なる友と巡り合い、大地に祝福をもたらして下さるように」


 神祇官(じんぎかん)による祈禱(きとう)の儀が滞りなく運び、皇帝の放鳥と天への奉楽も済む頃になると、太陽は中天に差し掛かりつつあった。

 すると今度は百官が(つど)った皇宮の庭で昼餐会(ちゅうさんかい)が始まる。

 昨年の秋の実りに感謝を捧げ、今年も同等の恵みが得られるようにと、皇宮に蓄えられたありったけの食材を使って皇太后が昼餐を振る舞うのである。


 もっともこれも本来は皇后の管轄(かんかつ)となる仕事だが、当代の若獅子は未だ(きさき)を迎えてはおらず、ゆえに皇太后が代わって務めを果たしていた。彼女の呼びかけに従い、豪盛に飾られた天幕の下、一堂に会した皇妃たちが銘々の銀杯(さかずき)を掲げる。

 七人の皇妃が揃って食事をするという、非常に稀有(けう)な機会だった。

 帝国へ嫁いできてから半年、王女も様々な祭事に列席したが、皇族が全員集って会食するというのは初めてのことだ。


 次々と運ばれてくる宮廷料理に舌鼓を打ちながら、王女は末席からひそやかに、皇太后と並んで上座に座る皇帝の様子を(うかが)った。久方ぶりに目にする帝国の若獅子は、王女が記憶する最後の姿に比べてずいぶん顔色がよくなったように思える。

 皇帝の紫蘭宮への渡りが絶えて、およそひと月が過ぎようとしていた。

 先月の茶会で皇太后に不調を知らせてからというもの、皇帝は公務を減らされ、しばし自宮で療養していたようだ。


 というのも今日のこの祭儀の席で、居並ぶ家臣に(やつ)れた姿を見せるわけにはいかなかったためであろう。王女の(はら)()(むし)に生気を吸われ、青白く(うつろ)な面持ちをしていたあの日の皇帝は既にない。やはりすべてが振り出しに戻ってしまった。王女は恐れていた事態を自らの眼によって確信し、人知れずそっと嘆息をついた。まだ前菜の二品を葡萄酒(かみのち)で流し込んだだけだというのに、早くも胃にもたれそうだ。


「ですが本日は陛下のお元気なお姿を拝見することができて安堵致しました。多忙を極めるあまりお体を悪くされたと聞いて、皇妃一同、長らく御身(おんみ)を案じておりましたから。万が一にも帝国の太陽に(かげ)りの差すことあらば、臣民が嘆き惑うことになると……しかし神なる獅子のもたらす加護という名の咆吼が、病魔を遠ざけて下さったのでしょう。我々の愁悶(しゅうもん)も杞憂で済んで何よりでございます」


 ほどなく主菜の肉料理が運ばれてくると、最も上座に近い席に座す女が穏やかに言った。豊かな金髪を上品に結い上げ、真珠の髪飾りで飾った彼女は皇太后と並んで皇后の代理を務める第一妃である。熟れた果実のごとくたっぷりとした唇に、濃厚な女の色香をまとわせた才女だった。日頃から手堅く公務をこなし、皇帝を傍らで支える姿は、既に皇后としての自覚を遺憾なく発揮しているようにも見える。

 実際、家柄的にも序列的にも、皇后の最有力候補と目されている女人だ。

 ところが第七妃たる王女が給仕から最後の皿を受け取った頃、皇帝は玉座と見紛うほどまぶしい椅子の上で、ふてぶてしく鼻を鳴らした。


「ふん、たかが数日(ねや)()もっただけで大袈裟な。この俺が過労ごときで(たお)れるわけがなかろう。ただあまりにも長く戦場から離れすぎて、(いささ)か体がなまっただけだ。だからさっさと西の異教徒どもを狩り尽くすべきだと……」

「ほほ、左様に勇ましいお言葉を並べられるほどご容体が恢復(かいふく)したのも、第七妃殿下の賢明な進言あってのことでしょう。陛下の玉体は大陸にふたつとない至宝なのですから、今後はもう少しご自愛いただきませんと。たかが過労などと侮っておられては、次こそ大事に至りかねませんよ」


 と皇太后が微笑みながら告げた言葉が、銀杯(ゴブレット)に触れかけていた王女の指を震わせた。なぜそこで己が名が出るのかと戸惑いながら振り向けば、皇帝の赤眼と王女の紫眼が期せずして互いを映し合う。あ、と思ったときには慌てて目を背けていた。

 なぜかは分からないが、今、獅子の眼を直視すれば心を覗かれるような気がしたのだ。彼を殺すこと(あた)わず、意気消沈している胸の内を。

 そんな醜い本性を見透かされたくはなかった。ただひとり、かの獅子にだけは。


「無論、第七妃には感謝していますよ、母上」


 瞬間、皇帝の口から(つむ)がれた自らの号に心臓が跳ねる。


「おかげで退屈で死にそうな数日間を過ごすことができたからな。あんな無聊(ぶりょう)を味わうのに比べたら、まだ大人しく執務席に座っている方がマシだ。まさかあれほどうんざりしていた公務が恋しくなるとは、夢にも思わなかったぞ」

「まあ、陛下ったらまたご冗談を。そうおっしゃりながらも日々お国のために粛々と政務をこなしていらっしゃるではございませんか。私の父も常々、為政者としての陛下の才腕を絶讃しておりますのよ」


 とすかさずおもねりの言葉を挟んだのは、全身をきらびやかな宝石で飾った第四妃だった。()()を作った声色は露骨な阿諛(あゆ)の響きを帯び、曲線美を描く腰が妖しくくねる。日の光を浴びるたび星のごとく瞬く耳飾りや首飾りをいちいち指先で弄ぶのは、家門の領地にいくつもの鉱脈を持つことを自負しての振る舞いなのだろう。


 はしたない、と思いながらも、しかし王女は彼女が話題を逸らしてくれたことに感謝し食叉(フォーク)を動かした。皇太后の意図は知れないが、七人の皇妃が揃う席で、自らを槍玉に挙げられてはたまらない。よって素知らぬ風を装ったまま、甘やかな(ソース)をまとった牛肉をひと切れ口へ運んだ。表面にのみ焼き色がついた半焼けの薄切り肉は、舌に乗せるとあっという間に垂に溶ける。肉そのものに刷り込まれた塩味と垂のほのかな甘味が絡み合うことで、極上の音色が広がった。


 ところが、王女がそうして宮廷料理人の技術の粋を味わっていた刹那、


「──きゃあああ!?」


 突如天幕の下に不躾(ぶしつけ)な羽音が乱入し、皇妃たちの悲鳴が弾けた。

 何事かと目を丸くすれば、ちょうど第四妃と第五妃の席の狭間に、純白の翼がけたたましく割り込んできたのが見える。かと思えば白き羽毛の下から覗く鉤爪が、第五妃の皿を飾っていた肉をしっかと掴んだ。誰も見紛うはずがない。

 皇族勢揃いの席をものともしない闖入者(ちんにゅうしゃ)は、先刻皇帝が放ったあの白禽である。


「いやっ」


 突然の出来事に取り乱した皇妃たちは、聖鳥の野生を秘めた鉤爪(つめ)に恐れをなして色めき立った。が、次々と席から飛び離れる彼女らを後目に、聖なる鳥は鋭くも美しい曲線を描く(くちばし)で足もとの肉を(くわ)()げ、器用に飲み込んでしまう。

 王女はその、あまりに威風堂々とした猛禽の姿に見惚れてしまった。

 他の皇妃らのごとく悲鳴を上げて逃げ惑うことも忘れ、蒼天を(すく)()ってきたかのような青い瞳に魅入られる──なんて神々しい。


 まさに神話の世界から現れた聖なる鳥だった。初めて間近で目にする白い羽毛は(けが)れを知らず、上等な絹を思わせる光沢を放っている。

 ところが聖鳥はよほど腹を空かせているのか、己をじっと覗き込む王女をしばし見つめるや、やがて白布のかかった食卓の縁を跳ねるように近寄ってきた。王女の皿にはまだ肉が数切れ残っているのを目に留めて、ねだりに来たようである。


「まあ」


 いかにも猛禽らしい獰猛(どうもう)さを秘めた顔つきとは裏腹に、小首を傾げて餌づけを催促する愛らしさに、王女は目もとを(ほころ)ばせた。

 もとより催涙祭(このひ)のために、人の手によって大切に飼育されてきた鳥である。当然ながら人間に手向かうような荒々しさは、野生と共に失われて久しいのだろう。


 ゆえに王女は白禽を恐れなかった。ただ餌を欲してクルル、クルル、と鳴くさまに愛着を覚え、食叉で刺した肉を差し出してみる。

 すると白禽は喜んで翼をばたつかせ、食叉の先から器用に肉を引き抜いた。

 まるで親鳥に甘える(ひな)のようだ。両翼を広げれば人間の幼子すら覆い隠してしまえるほどの、立派な体躯(たいく)を持っているというのに。


「だ、第七妃殿下、お早くお逃げなさいませ! 危険ですわよ!?」

「いいえ、ご心配には及びませんわ。だってご覧になって下さい。こんなに人に狎れて、愛嬌すら振り撒いているというのに」


 怯え離れた皇妃たちに微笑み返しながら、王女はなおも餌づけの手を止めなかった。白禽があまりに嬉しそうに肉を(ついば)むので、つい甘やかしたくなったのである。


「あらあら、なんてこと。今年の聖鳥は第七妃殿下をずいぶんお気に召したようですわよ、陛下」

「……いくら祭儀用に育てられたとは言え、狎れすぎだな。聖鳥としての威厳などあったものではない。おい、誰か神祇官を呼べ。さっさとあの腑抜けた鳥を……」


 愉快そうに扇を広げた皇太后の言に、眉を(ひそ)めた皇帝が声を荒らげた。

 が、王女がそんなふたりの様子に気を取られた直後、白禽が突如嘔吐(えず)くような声を上げ、ぐえ、ぐえ、と喘ぎ出す。

 苦しげな声に驚けば、次いで白禽は甲高い悲鳴と共にひっくり返った。

 中途半端に翼を広げたまま腹を見せ、全身を強張(こわば)らせながら痙攣(けいれん)している。


「どうした!?」


 再び天幕の下が騒然となった。王女は今、眼前で何が起きているのか理解が及ばず、ただ()を見張って苦しむ聖鳥を凝視するのみ。

 そうこうするうち、白禽が嘴の端から泡を噴き始めた。

 まさか自らの与えた肉で喉を詰まらせたのかと思い、慌てて席から立ち上がる。


「おい!」


 ところが藻掻(もが)く白禽を助け起こそうとした刹那、思いがけない力に肩を引かれてまろびかけた。見れば駆けつけた皇帝が鳥に触れようとしていた王女の手を抑え、未知なる現象からかばうように抱き竦めている。


「へ……陛下、お放し下さい! え、餌を、私が与えたものを吐き出させてやらないと……!」

「触れるな!」


 狼狽(ろうばい)した王女をそう叱りつけ、皇帝はさらに食卓から引き離そうとした。

 するとその瞬間、白禽がくぐもった声で鳴き、嘴から鮮血を溢れさせる。

 漂白された王女の意識が一切の思考を塗り潰した。

 何が起きたのか分からぬまま身を硬くしていると、血を吐いたのを最後に白禽の痙攣が止まり、ぴくりとも動かなくなる。


「……近衛騎士は今すぐすべての料理人と給仕と毒味役の身柄を拘束し、獄舎へぶち込め。──第七妃の食事に毒を盛り、聖鳥を殺めた者がいる」


 やがて耳もとで聞こえた金獅子の低いうなりが、王女には遠い世界のもののように感ぜられた。聖鳥の純白を穢す赤い(まだら)が、網膜に()きついて離れない。


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