黄金に沈む
南国で育った王女は、帝国の北辺でのみ降るという〝雪〟を見たことがない。
ただ、遠い昔に一度、父が招いた旅の吟遊詩人がその美しさについて歌うのを聞いた。真冬の季節、大地を覆う白銀はあまりに冷たく、されどまぶしく、踏み締めるたびに氷の層とは思えぬやわらかな感触が靴の底を擽るという。では雪を踏む感触とはまさにこのようなものかしら、と思いながら、王女は野花の園を歩く。
色とりどりの可憐な花に埋め尽くされた大地はやわらかく、そして暖かかった。
世界が白一色になるという雪原とはまるで真逆の景色でありながら、そんな夢想に胸が膨らんだのは、生まれて初めて見る極彩色の野原に心が躍ったためであろうか。これほどのときめきを覚えたのは、それこそあの吟遊詩人の自慢の歌を、日がな一日せがんだ幼き日以来かもしれなかった。
足もとで風に笑う野花は王女の知らぬ花ばかり。
いずれも王城や皇宮の庭園を飾るには小振りすぎ、ゆえに庭師には見向きもされぬのだろうが、王女はそうした野花の素朴さがかえって愛らしいと思った。
「陛下。この花の名は何というのですか?」
と中でもいっとう目を引いた野花の前でしゃがみ込み、思わずそう尋ねてみる。
王女が割れ物にでも触れるようにそっと指先を添えたのは、淡い紫に色づいた、いたく小さな花だった。されどその花の、身を寄せ合って群れるように咲くさまが、王女の褄紫の瞳には何ともいじらしく映ったのである。
「知らん。俺に花の名など訊くな」
ところがそんな王女を傍らで見下ろす皇帝の答えは、あまりに不粋で情緒のかけらもなかった。取りつく島もない態度に王女はまあ、と瞠目し、長い睫毛を反らせて皇帝を振り仰ぐ。
「ですが、ここに連れてきて下さったのは陛下ではございませんか」
「連れてきただけでなぜ俺が花の名を知っていると思うのだ?」
「陛下は以前からこの場所をご存知だったのでは?」
「そうだが、だからと言って花の名をいちいち調べようなどと思ったことはない」
と、抑揚もなく返されたところで、王女は尋ねる相手を誤った事実を悟った。
相手は酒と戦と女以外にはさしたる興味を示さぬ暴れ獅子なのである。
だが王女は今、己の視界を彩る美しい草花の名をぜひとも知りたかった。
あまりにも世界を知らずに育ったからこそ、初めて触れた未知なるものをひとつひとつ脳裏に刻んで、記憶に留めたいと願ったのである。
「あっ」
ところが王女が花に詫びながら、か細い茎を根もとから手折ったところで、にわかにびょうと風が吹いた。遮るもののない花園の上を吹く風は思いのほか強く、立ち上がりかけていた王女の手から摘んだばかりの野花を攫ってしまう。
思わず掴もうとして、手を伸ばした。
すると野辺を歩くには不向きなドレスが帆のごとく風に煽られ、体勢を崩す。
ぐらりと世界が傾ぎ、驚きに息を飲んだところで皇帝の腕に抱き留められた。
が、馬も嘶くほどの強風にふたりはもつれ、共に草花の上へ倒れ込む。
「へ、陛下」
七色の海に沈んだ直後、王女は慌てて跳ね起き、己の下敷きとなった皇帝を見下ろした。が、仰向けに倒れた皇帝の頭上に色とりどりの花が舞い落ちて、金色の鬣を、良家の子女のお髪のごとく飾っている。
そのさまがどうにも奇妙で、王女は目を丸くしたのち、堪えきれずに小さく笑った。されど若き獅子の機嫌を損ねるわけにもいかず、込み上げる可笑しさをどうにかやり過ごしながら、鬣に乗った花々をそっと摘まみ上げる。
「申し訳ございません、陛下。お怪我はございませんか?」
「怪我はないかと訊きながら、にやついていて少しも心配そうに見えんのはどういう了見だ?」
「いえ、滅相もございません。私のせいで陛下の御身に大事があってはと……」
「おまえが普段、愚直な物言いばかりするのは、嘘が下手だという自覚があるためか。しかし、なんだ。笑えるではないか」
「え?」
「おまえが年相応に笑うところを見たのは初めてだ、と言っている」
「そ……そのようなことは──あっ……!?」
皇帝の傍らにまろんだままでいた王女の天地が、再び逆しまとなった。にわかに身を起こした皇帝が王女の腰を抱き、上下の位置を入れ替えたためである。
太陽を背にした金の鬣が、いつも以上にまぶしかった。
それが天から降る光の雨のごとく白い王女の鎖骨を撫でる。
「んっ……へ、陛下、人が来ます」
「嘘をつくな。騎士どもが追いついてくればすぐに分かる」
「で、ですが、陛下を探して間もなく追いついてこられるはずです」
「だとしても、この大陸に俺の邪魔をできる者などいるものか」
「へ……陛下はなぜいつも、左様に根拠のない自信をお持ちなのですか?」
「無礼な女だな。根拠ならばある。俺が金獅子に選ばれし王だからだ」
王女は野花の寝台に己を組み敷く男を見上げながら、先刻と同じく、やはり尋ねる相手を誤ったと思った。帝国の皇族に生まれたというだけで何者にも害されず、邪魔立ても受けないと言うのなら、遥か西の白鯨山脈を越えた先で未だ不服従を貫く異教徒たちの存在はどう説明するのであろう。すると王女の疑念を読み取ったのか、皇帝はいつものように鼻を鳴らして口角を上げた。獅子の獰猛さを秘めたる赤眼の奥には、王女の言うところの根拠のない自信が今も煌々と燃えている。
「信じていないようだから話してやるが、俺は齢七歳を数えた頃に夢を見た。我が国の祖たる黄金の獅子が光の中より現れ、俺に語りかける夢だ」
「黄金の獅子の夢……でございますか?」
「ああ。帝国の礎を築いた初代皇帝の夢にも現れ、唯一無二の王として天下に覇を唱えよと託宣を授けた伝説の獅子だ。当時神なる獅子は確かに存在し、約束の地で初代皇帝となるべき男が訪ねて来るのを待っていた。そして共に乱世を拓き、我が国に力と繁栄をもたらしたのだ」
「では……その獅子が陛下の代で再び世に現れたと?」
「いいや。神なる獅子は初代皇帝の死と共に眠りに就き、今も偉大な英雄の傍らを守っている。だが俺の夢に現れこう告げた。次の世の皇帝になるのはおまえだと」
「……だから陛下は皇位を継がれたのですか?」
「そうだ。獅子は言った。何者も俺を止めること能わず、弑することも能わず、やがて大陸一円はすべて黄金の輝きの内に治まるだろうと。ゆえに俺は獅子の言葉に従った。玉座への道を塞ぐ者はひとり残らず首を刎ね、神なる獅子の予言を現実のものとしたのだ」
王女は太陽を背負う獅子の化身を見上げ、もはや言葉も忘れていた。
確かにこれまで多くの者がこの若獅子を止めようと手を尽くしたが、ひとりとして達成した者はいない。矛を向けた者は例外なく噛み殺され、同じ獅子の血を引く兄弟すらも喉笛を喰い破られ、無惨な死に様を晒す他なかった。
だが彼がそれを成し得たのは、果たして本当に神なる獅子の予言のためであったのか。黄金の獅子など所詮は伝説で、目の前の男がかつて見たのはただの夢。
しかし己に都合のよい夢を一途に信じた男はその念力によって覇者となり、ついには玉座まで辿り着いた。そうでなければおかしな話だ。現に皇帝の肉体は今も蟲の毒に蝕まれ、滅びの兆候がはっきりと見え始めているのだから。
「……では陛下が獅子の予言を授かったことを、帝国の臣民は初めから知っていたのですか?」
「いいや。知っていたのは母上だけだ。俺は他にも言い触らすつもりだったが、母上に止められてな。臆病者の父は俺が獅子に選ばれたと知れば、余生のあるうちに帝位を奪われることを恐れ、必ず我が子に害を為すと。ゆえにあの老いぼれが死ぬのを待った。虎視眈々と、力を蓄えながらな」
「ですが陛下は、己の見たものはただの夢だと……そうお思いになったことはないのですか? 神なる獅子など本当は存在せず、御身もいつかは他者に滅ぼされるのではないかとお恐れになったことは?」
「ないな。なぜなら他人は簡単に裏切るが、夢は人を裏切らん。自分で自分を裏切る者などこの世に居はしないだろう?」
「……」
「仮にもし夢に裏切られたと感じることがあるとすれば、それは己が夢を裏切ったときだ。俺が帝国に背を向けて、獅子の言葉に従うことをやめたなら、獅子も俺を裏切るだろう。だが獅子の加護のあるうちは誰も俺を止められず、殺せもしない。幾多の戦場を駆け抜けながら、今もこうして生きていることが何よりの証だ」
大した自惚れだ、と王女は思った。
男を帝国の頂点へ押し上げたのは神なる獅子でも何でもない。今日まで重なり合った偶然という名の奇跡が結果として男を生かし、その頭頂を幸運の王冠で飾ったのだ。少なくとも王女にはそうとしか思えない。されど、なぜか、
「……陛下は、お強いのですね」
降り注ぐ天の火を受けて、黄金に燃ゆる鬣のせいだろうか。
あまりに思い上がった男の驕慢が、王女の瞳にはまばゆすぎた。
「私は、陛下が……お羨ましいです。いかなる運命も、ご自身の爪牙で力強く切り拓いてゆかれるお姿が……」
淡く色づいた唇から、知らずそんな言葉が零れる。すべてを知る者が聞けば今まさに、その尊大な自尊心に殺されようとしている男への皮肉と響いたことだろう。
されど何も知らぬ皇帝の眼差しは、じっと王女に注がれている。ふたつの眼窩に嵌められた赤い鏡に、虚無という名の透徹を宿した王女の瞳を映しながら。
「……まったく本当に変わった女だ。俺を恐れて媚び諂う輩は巨万といるが、羨ましいなどと評されたのは初めてだな」
「人が陛下を恐れるのはきっと、あまりにも眩しすぎるためですわ。近づきすぎれば陛下のまとう輝きに身を灼かれてしまいそうで……ゆえに本能が恐ろしいと、そう囁くのでございましょう」
「ではおまえは、灼かれるのが恐ろしくはないのか」
「恐ろしいです。とても。ですが同時に、美しい、とも思うのです。いっそ焦がされてしまいたいと願うほど……」
再び風が吹き、万彩がさざめいた。花々の奏でる旋律が、舞い散る花弁の千切れ飛ぶさまが、不思議と王女の心と重なる。刹那、皇帝の指先が王女に触れた。
細い顎を掴み、軽く持ち上げるようにして、互いの視線を交わらせる。
「では望みを叶えてやろう。おまえの魂が燃え尽きるほどにな」
熱い口づけが降ってきた。
身じろぎした王女を押さえつけ、獅子は思いのまま喰らう。
那由多の色彩に溺れながら、ふたり、蒼穹の下で睦み合った。
されど喘ぐ王女の肚の底には、今なおにぶく蠢くものがある。