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蟲の王女  作者: 長谷川
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止まずの雨


 目が覚めると、まだ雨が降っていた。

 白い格子に区切られた窓の外で、曇天が(うな)っている。

 どこか遠く、遥か彼方で鳴る霹靂(へきれき)だった。

 それが今の王女には、もう三月(みつき)も姿を見ていない若き獅子の咆吼に聞こえる。


「お目覚めかしら、殿下」


 抜け殻のように身を横たえ、ぼうっと雨の降るさまを眺めていると、寝台の傍らから声がした。もはや指一本動かすことすら叶わなくなった体で、唯一動く()だけを虚ろに動かせば、そこには優しげに王女を見つめる皇太后の姿がある。


「……皇太后陛下」


 色を失い、乾き切った唇から、吐息のような声が()れた。

 日ごと生気を失い、痩せ衰えていく王女の喉は今や、美しい竪琴(たてごと)()に似たあの声を(かな)でることもできない。皇帝不在の間、どんな手を使ってでも王女を生かせと厳命された宮医(ぐうい)ですら、生きているのが不思議だと首を傾げるほどだった。


「またお会いできてよかった。其方(そなた)が最後に目を覚ましてから、もう八日も経ったのですよ」


 されど皇太后は、王女が(とこ)()す以前と何ら変わらぬ素振りで言う。

 毎日病体を清め、髪を(ゆす)ぎに来る侍女たちすら恐れるほど変わり果てた王女を前にしても、彼女だけは高貴な(しわ)の内に浮かべた微笑を崩さなかった。


「せっかく目覚めたのだから、少しでも何か食べなければ。すぐに侍女を呼びましょう。それまで眠らずに待っていられますね」


 幼子を(さと)すような口調で、骨と皮だけになった王女の手を()(さす)りながら彼女は言った。頷くことすらできない王女は、ゆっくりと瞬きをして了承する。

 ほどなく数人の侍女が(ねや)に出入りし、八日も寝たきりだった王女の体を起こして、恐る恐る手足を拭いていった。玉虫色の(つや)を失った黒髪は久しぶりに香油に浸けた(くし)()かれ、寝衣も蘭の香を焚きしめたものに替えられる。


 そうこうするうち、今度は病体によいとされる野菜や薬草をふんだんに取り入れた薬粥(くすりがゆ)が運ばれてきて、ひと口ずつ王女の口に流し込まれた。

 皇太后はそんな王女の様子を、片時も離れず見守っている。

 食事を終えると入れ替わりに宮医がやってきたが、既にできることはやり尽くしたのか、軽い診察だけをしてすごすごと退散していった。


「今日は其方に、どうしても話しておきたいことがあります」


 ひと通りの世話が済むと、侍女たちもまた各々の持ち場へと帰ってゆく。そうしてふたりきりになった部屋で、皇太后はどこまでも穏やかな口振りで言った。


「其方は陛下が、なぜあれほど強く其方を皇后に望まれるか知っていますか?」


 花の香りに包まれた寝台の上で、王女はじっと皇太后の瞳を見つめる。

 瞬きをしないということは、答えは「否」であると彼女もすぐに理解した。


「そうでしょうね。陛下は聡明すぎるあまり、結論だけを告げて過程の説明を省かれる癖があるものだから……まったく、おかげで戸惑うばかりの臣下の身にもなっていただきたいものです」


 と、口では苦言めいたことを言いながら、やはり皇太后は笑っている。そうしながら握られた手の温かさに、母とは本来こういうものなのだろうか、と王女は思った。自らが与えた毒に怯え、実母は娘の手を握ることすらも生涯拒み続けたから。


「実は、其方も薄々勘づいているかもしれないけれど……陛下は幼い頃からとても利発で、その賢さゆえに先帝から疎まれてお育ちになりました。七つの頃に金獅子の託宣を受けたとは言え、それは母であるわたくし以外誰も知る由のないことでしたから、皆が先帝の機嫌を損なうことを恐れ、陛下を皇太子として支持することはなかったのです。むしろ勇んで他の異母兄弟(きょうだい)ばかりを()(はや)し、陛下との対立を煽る始末……ゆえに陛下は、血のつながった父や兄弟すらも信用できない孤独な幼少期を過ごされたの。あのお方が手放しに信じられたのは、夢の中で〝(なんじ)こそ真の皇帝たれ〟と獅子吼した神なる獅子だけだったのね」


 ゆえに皇帝は金獅子信仰に傾倒し、夢に現れた神の言葉を実現に導こうとした。

 そのために道を阻む者は誰であろうとも()(たお)し、先帝におもねろうとしたすべての者を恐怖の下に従えて、今の地位を築き上げた。

 つまるところ彼は、証明したくてたまらなかったのだろうと皇太后は言う。

 己が生を受けたのは金獅子の預言を世に知らしめるためだったのだと、誰に何と言われようとも、揺るぎない確信を得るために。


「けれど、そうして気丈に振る舞われる一方で……あのお方はずっと、利害や打算のためではなく、本心から共にいて安らげる相手を探しておられた。それがわたくしには分かっていました。神なる獅子と己以外、何者も信じられぬ世界に疲弊(ひへい)し、心は常に助けを求めておられるとね。そしてそこに其方が現れた。帝国での地位や権力などには目もくれず、陛下のご気性を恐れもしない其方が」


 雨は未だ沛然(はいぜん)と窓辺を濡らしている。王女は寝台に身を横たえたまま、我が子の過去を語る皇太后の唇から目を離せなかった。


「無論其方は、すべては陛下を亡き者にするためのことだったと言うでしょう。けれど最後には己の正体を明かし、殺してほしいとまで懇願した。陛下はそうした其方の廉直(れんちょく)さを早くから見抜き、愛されたのですよ。〝いつか私が父のように道を過つときが来ても、愚直なだけが取り柄のあの者ならば正面から恐れず私を(いさ)め、正しき道へ連れ戻してくれるでしょう〟と──」


 ゆえに皇太后もまた、皇帝が王女を皇后にと望むのを止めなかった。それが長年孤独と戦ってきた我が子のために、母としてできる唯一のことだったと彼女は言った。王女の手を握る皇太后の指が、熱を帯びている。

 まるであの日の獅子と同じ、王女の凍土を溶かす熱を。


「第六妃殿下……いいえ、皇后陛下。貴女様はどんなにおつらくとも、今日の今日まで、生きることだけは諦めなかった。その強さこそが貴女様の未来を拓いたのです。ですからどうか生きて下さい。これからも、あの子と共に」


 雨は止まない。しとしとと、今度は王女の枕をも濡らしてゆく。

 もう声も出ない喉を反らして、王女は懸命に頷いた。

 腹の中の(むし)は動かない。いつからか暴れることをやめてしまった。

 否、あるいは兄が飲ませた薬酒(くすり)のために、もう死んでしまったのかもしれない。

 あれは世界で唯一蟲を殺せる(どく)だった。そして腹の中で腐った蟲の(むくろ)は、今度は王女(やどぬし)を殺す毒となり、刻々と命を蝕んでいる。


 これは報いだ。皇帝の愛を拒み、そのくせ最後は蟲を裏切った己への。


「ごめんなさい」


 と、やがて皇太后すらも去った暗い閨で、王女は腹の蟲に(ささや)く。


「私には、おまえさえいてくれればよかったのに。おまえが与えてくれた生に報いたいと、ずっと願ってきたはずなのに。なのに私はいつからかおまえを憎み、世界を呪った。おまえに呪い返されるのも当然ね。なんと身勝手で(けが)らわしい……きっと今の私の姿は、おまえよりもずっとずっと醜いのでしょう」


 また遠雷が鳴っている。王女はその音に耳を澄ます。

 季節は巡る。このまま皇帝が帰らずとも、永遠に。


「だけど、許して」


 浅い呼吸を繰り返し、誰にも届かぬ掠れた声で、王女は言った。


「私は生きたい。せめて最後にひと目、あの人に会いたい。だから許して。おまえを失った世界で、もう少しだけ生きながらえることを──」


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