未来へ歩み出す為の、応援歌
未来が怖かった。
何が起こるか分からず、自分が生活している社会が何なのかが分からなかった。
自分の一挙手一投足がどの様な結果をもたらすかが安心できなかった。
死ぬ事が怖かった。
だから、それらについて考える事で、自分を安心させようとした。
汎用性の高い答えが見つかれば、今後悩む期間も減ると思っていた。
しかし、社会だとか、死だとか、形にないものについて考える事を大人は反対する。
「それまでどんなに考えようが考えまいが、どうせ順応するんだ。結果が同じならばそれは無駄な時間だろう。」
成る程、その通りだ。
しかし、私は納得しかかったものの、自分が論破された事が悔しかったのか、つい屁理屈を言ってしまった。
「それならどうせ死ぬのだから、何をやっても無駄ですよね?」
自分の口から反射的に出た極論であったが、言った自分がこの言葉に悩まされることになった。
自衛の為の理屈が、自分に牙を剥いたのだ。
人は死ぬ。
結局のところこれは覆しようのない事実だ。
人は主観で生きている。
そして、死ねば主観も消えて、何も認識できなくなる。
言い方を変えるならば、死ねば何も残らないのだ。
生きる為にそれまで積み立ててきたものは全て、そこで無に還る。
つまりは、生きる為の努力をしてもしなくても、結果は何も変わらないのだ。
残される人の為になるという意見もあったが、それも元はと言えば家族が、大切な人が、自分の死後も変わらずに暮らせるだろうと自分が思う為のものであり、効力が発揮されるのは死ぬ直前までであるので、主観を軸としたこの話では反例になり得ない。
結果が全てであるならば、この世のものは全てが無価値で無意味なものなのだ。
だから、良い事をしようが犯罪を犯そうが、長生きしようが早死にしようが、子を残そうが残すまいが何も変わらない。
自分の足場が崩れ去った気がした。
ここまできて、矛盾に気づいた。
何故、主観が消える死後の事を主観に立って考えているのか。
主観で生きている以上、考える事ができるのは生前の事だけだ。
死が結果ならば、生きている今は過程となる。
過程が全てとまでは言わないものの、そこを重視するならば全ての行いに意味はあるのだ。
良い事を行えば自分の信用が上がり、相互的に助け合う社会の一員となれる。(情けは人の為ならず)
犯罪を犯せば、社会不適合者として排除され、今後の生活が苦しくなる。(因果応報、人を呪わば穴二つ)
長生きはそれだけ人生経験を積む事が出来て、充実した人生を送りやすい。
早死にはその分人生経験が得られず、豊かな人生と成り辛いが、辛い事も少なく済む。
子を残す事は種の存続に必要な事であり、人間という種に死をもたらさないという役に立っている。
子を残さないことは種としては意味のないものであるけれど、その分自分の時間を得る事ができる。
そして、死ぬ事によって全ての価値が等しいものとなるのならば、全ての選択は自由であり、自分は何をしても良いのだ。
過去を参照し、未来を見据え、今を生きる。
自己中心的な快楽主義でいいじゃないか。
我儘を繰り返せばのちに生きづらくなるという事が見えているならば、平方完成して上に凸のグラフの最大値を求めるように、自分が幸せでいられる条件は解るはずだ。
と、ここまで建てた理屈を燃料にして、一歩を踏み出した。
結局のところ人を動かすものは感情であり、その根本は本能だ。
悲観的な人は過去や未来に執着して、今が疎かになる。
ものや自分に価値を見出したとき、その価値が落ちる事を恐れて、動く事が出来ない。
過去の記憶というものはあくまで客観的に今後の参考にするべきものであり、恨みや苦痛と言った感情を残すべきではない。
未来というのは今後の今であるので、今が疎かになる事は未来を疎かにする事に他ならない。
未来について見据えておくのは、その時の今を疎かにしない為だ。
価値など元からないと思えば、一挙手一投足が自分を貶めるとも思わない。
理屈というものは本能に騙ることで感情を都合よく動かす道具であり、人間という同じ規格の本能にならば他者にも効力がある。
この道具を用いて、思考の悪循環を取り除く事が出来れば、前よりも充実した人生を送る足がかりになるだろう。
私達は今生きていて何をしたとしても変わらない結果が保証されている。
だからこそ過度に未来を恐れる必要はないのではないか。
失敗を恐れずに、自分の責任で行動する。
そうすれば停滞も、後悔も、前よりもいくらか減った充実した人生が待っているだろう。
おう…えーんか?こんな応援歌で…。
すみません。これが言いたくてこのタイトルになりました………。他に思いつかなくて…(歌ですらない)
人間は二分するならば、動ける人と動けない人の二種類です。
どちらが良いかと言われれば無論、誰もが前者を良いと言うでしょう。
なら何故自分はそうなれないのか、何が邪魔をしているのか……と考えてみましょう。
この文は私が自分を説得した暴論ではありますが、もし同じ様に踏み出せないかたを説得する事が出来ましたら、これ以上の喜びはありません。
誤読りょい、ありがとう御座いました。