11.誰がタルトを盗んだの?
扉をくぐると、傍聴席に座っていた。私自身も気付かない内に座っていたらしい。怖い。
丸い大きな部屋を囲むように、ぐるりと段状に備え付けられている傍聴席には、大勢の生き物たちがいる。その内側には小さな円を描くように陪審席があり、王様と女王様が玉座についている。そして中心では、鎖に繋がれたハートのジャックが、二枚の兵隊に挟まれて立っていた。王様の隣の机には例の白ウサギが立っていて、右手にラッパ、左手に羊皮紙の巻物を持っている。「王様が裁判官なのね。だって、カツラを被っているんですもの」
そこでふと、陪審員の中に見覚えのあるトカゲ頭がいることに気がついた。ビルだ。ビルは他の陪審員同様、石板に石筆で何やら書いている。裁判が始まってもいないのに、一体何を書いているのかしら?
私はこっそりと近づき、背後から石板を覗き見る。そこには酔ったミミズがのた打ち回ったような酷い字で、ビルの名前が書かれてあった。丁寧にも下に『絶対に忘れない!!』と注書きがなされている。「ばっかみたい!! 自分の名前を忘れるわけが――」そこまで口にしてから、思い出した。「ついさっきまで、私は自分の名前を忘れていたんだわ」
もう一度、目の前のトカゲを見る。最後には同情すらしたビルでも、こうして生きていて、しかも平然とされていると少し腹が立つ。私は隙を見て、ビルの石筆を取り上げてやった。あまりにも素早い私の手さばきに、ビルは取られたことに気付きもしない。落としたのかと散々辺りを探し回ってから、諦めて今日一日、指で石板に文字を書くことにしたらしい。もちろん、字が残るはずはない。
気分を良くして傍聴席に戻ると、「訴状を読み上げよ」と王様が言った。
「はい、ただいま」と白ウサギは返事して、すぐさま三度、ラッパを吹き鳴らした。それから巻物を広げ、次のように読み上げた。
ハートの女王、タルトを焼いた
夏の日、一日、たっぷりかけて
ハートのジャック、タルトを盗った
こっそり、ごっそり、たっぷり全て
「評決にかかれ!!」王様が陪審員に告げる。
「まだです!! まだ早いですよ、王様!!」と慌てて白ウサギが止める。「評決の前に、まだまだやることが、たくさんあります!!」
「では、最初の証人を呼べ」と王様。さっきのはかなりブラックなジョークか何かだったのだろうか。白ウサギは三度ラッパを吹き鳴らし、叫ぶ。「最初の証人!!」
やってきたのは、あの男――頭のいかれた帽子屋だった。片手にティーカップを、もう片手にバタートーストの切れ端を持っている。
「お許し下さい、陛下!!」開口一番、帽子屋は謝罪する。「こんな物を持ってきてしまいまして……。何分、お茶が済んでいなかったものですから……」
「済ませておくべきであった。そうでなくとも、済ませるべきであった」王様は答える。「いつ始めたのだ?」
帽子屋はちらと三月ウサギの方を見る。三月ウサギとヤマネも帽子屋と一緒に入ってきていて、彼らは傍聴席に座っていた。「三月十四日だったと思います」
「十五日じゃなかったかい?」と三月ウサギ。
「十六日だったかもしれない」とヤマネ。
「書き留めておけ」そう王様が言うと、陪審員たちは一斉に石板にその三つの日付を書き込み、足し算し、シリングとペンスに換算した。私には、ちょっと意味が分からなかった。
王様はしげしげと帽子屋を見つめ、言った。「カップやトーストなんぞより、お前のそれはなんじゃ。裁判所内では外さんか」なぜカップとトーストは許すのにそれは許さないのか、王様は帽子屋の頭の上の帽子を指差していた。
「お言葉ですが、王様」うろたえながら、帽子屋は答えた。「この帽子は私の物ではございません――」「――盗んだな!!」王様は怒鳴り、帽子屋は更にあたふたとしながら必死に答える。
「いえ!! いえ!! とんでもございません!! この帽子は売り物なんでございます!!」じゃあもっと被っちゃダメだろ、とは当然のツッコミのはずが、王様はなぜか納得してしまう。それにしても、私に対してはあれだけ無礼千万失礼そのものであった帽子屋が、王様の前ではめちゃくちゃ腰が低い。
「証言せよ」厳かに、王様が口にする。帽子屋はちらちらと女王の様子を気にしている風で、口にするのは手に持ったバタートーストばかりだ。「証言をせよ」王様は再び言う。「さもなくば、この場にてお前を刑に処す」
それを聞いた帽子屋は小さく飛び上がり、おずおずと口を開いた。「王様、私はしがない男でございます。つい先週頃まではお茶も始められませんで……。バタートーストだって段々と薄くなってしまいますし、お膳立ての時間だって全然足らず――」「――お膳立ての時間?」王様が口を挟む。
「はい。なので、お茶とお膳立ての始まりが一緒になるのでございます」と帽子屋が言うと、「当然じゃろう。お茶もお膳立ても『お』から始まっておる」と王様。「わしを馬鹿にしておるのか? さっさと続けよ!!」
「わ、私はしがない男でして……。お茶が始まりしばらくすればお膳立ても終わりまして、三月ウサギが言いますには――」「――言ってない!!」傍聴席から、三月ウサギが叫ぶ。
「言っただろ!!」と帽子屋。
「否認します!!」と三月ウサギ。
「あやつは否認しておる。その部分は削除せよ」と、陪審員へ向けて王様の命令。
帽子屋は気を取り直して、証言を再開させる。「と、ともかくして、ヤマネが言いますには――」そこでキョロキョロと見回す。ヤマネも否認するかどうかを確かめたのだろう。ヤマネはぐっすり夢の中、そんな心配は無用のようだった。
「それから、私はもう少しパンを切り分けまして――」「――待ってください」陪審員の一人が話を遮る。「結局、ヤマネは何と言ったんですか?」よく言ったわ、鳥頭(馬鹿にしているんじゃなくて、本当に頭だけが鳥だった)。このままじゃ話が流れそうだったんだもの。あなたの法服姿は似合っていないけれど、その発言は評価するわ。
「思い出せません」と帽子屋。じゃあ端っから言うなよ。
「思い出せ」と王様。「さもなくば、刑に処す」
帽子屋はガタガタと目に見えて震えだし、手に持ったバタートースト――ではなくティーカップをがぶりと噛み砕いてしまった。口直しにトーストを飲んでから、発言する。「わた、私はしがない男でして……」本日、三度目の台詞である。
「お前がしがないんではなく、話の趣旨がない」王様の言葉に一匹のモルモットが歓声を上げ、そのモルモットはすぐさま廷吏に鎮圧されてしまった(具体的にはズックの大袋にモルモットを詰めて、口を紐で縛ってから、その上に座り込んだ)。
「実際に見れて良かったわ」私は心からそう思う。「裁判を見るだけなら裁判所に行けばいいけれど、こんな場面はなかなか見られるものではないもの」
「お前が知っている事がそれで全てならば、下がっておれ」と王様。
「できません」と帽子屋。「私は床におりますので、これ以上は下がれません」
「では、伏しておれ」ここでもう一匹のモルモットが歓声を上げ、鎮圧された。この法廷内にいる、最後のモルモットだった。
「できることなら、私はお茶を済ませてしまいたいのですが……」帽子屋がそう言うと、王様は気前良く「ならば、帰るがよい」と言ってのけた。
「――待て」慌てて帰ろうと後ろを向いた帽子屋を、女王が引き留める。「さっきから思っていたのじゃが、お前の顔を見ていると、なんだか無性にイライラとする。……お前、もしやどこかで――」「――ひ、人違いでございます……っ」すたこらと、帽子屋は走り去った。
女王は納得のいかない顔をしていたが、王様はそれを気にせず、「次の証人を呼べ!!」と命じた。
次にやってきたのはくしゃみだった。裁判所に訪れるコショウの嵐と、くしゃみの雷、そしてその中でただ一人普通にしている、料理女が証人だ。ここは台所ではないというのに、一心不乱にコショウのビンを振っている。
「証言をせよ」と王様。
「断る」と料理女。この答えに王様はえらく困ってしまった様子だ。帽子屋のときは強気で刑に処すとか言っていたのに、なぜ。
白ウサギを見つめて助けを求めると、ウサギはこっそり耳打ちした。「陛下は、この証人に反対尋問をしなくてはなりません」言い終えると同時に白ウサギはくしゃみをし、耳元でされた王様は体をぶるっと震わせた。
「そうじゃな。しなくてはならんものは、しなくてはならん」王様は憂鬱そうにそう言うと、腕を組んで目を閉じた。眉根にしわを寄せながら、うーんとうなる。やがて目を開き、料理女に尋ねた。「タルトは何から作られる?」
「コショウだね、大体」と料理女。
「糖蜜だ」料理女の後ろから眠そうな声が聞こえてきた。
「そのヤマネを引っ捕らえよ!!」何が逆鱗に触れたのか、女王は怒り狂った様子で喚き立てる。「そのヤマネの首をはねよ!! そのヤマネを法廷から叩き出せ!! 鎮圧せよ!! つねれ!! ひげを引っこ抜け!!」
そんな調子で法廷は大騒ぎ。無事にヤマネが追い出されたときには、料理女の姿は消えていた。
「構わん」と、ほっとして呟く王様。どうやら、反対尋問が相当に嫌だったらしいわね。その証拠にほら、今、女王に「次の反対尋問はお前がやってくれんか? わしはもう、頭が痛くて……」だなんて耳打ちしている。耳打ちのはずなのに、どうして傍聴席の私にまで聞こえてきているのかしら。
王様は白ウサギに、次の証人の召喚を命じる。白ウサギはリストをごそごそ、調べだした。「次はどんな証人が来るんだろう?」なんだか楽しみだった。この瞬間だけは、帰りたいという気持ちも忘れるほどに。
「だって、まだ何一つとして大した証言がなされていないじゃない? それどころか、事件の経緯すらよく分からないままよ」
白ウサギはラッパを吹き鳴らす。プァー、プァー、プァー、と三度鳴る。そしてウサギが口を開き、呼んだ名前は――
「――アリス!!」