8.女王様のクローケー場
庭園の入り口近くに大きなバラの木のアーチがあり、そこには綺麗な白いバラが咲いている。しかし三人の庭師が――三人? 三枚の、手足の生えた巨大トランプがそこにいた。「服を着て喋る動物だとか、顔だけカエルの召し使いだとか、色んなへんてこな人たちと出会ってきたけれど、ここまでなのは初めてよ。どう見ても、ただのモンスターじゃない」
とにかく、彼らはそれぞれ鉄のバケツとハケを持ち、せっせと白いバラを赤く染めている。彼らの内の一枚が叫んだ。「気をつけろよ、五!! そんなにペンキをはね散らかすんじゃねぇ!!」
「しょうがねぇだろ」スペードの五が言った。というか、それが名前でいいんだ。「七が俺の肘を押したんだ」
すると、一人黙々と塗っていた七が顔を上げる。「んだよ、五!! そうやっていつも他人のせいにしやがって!!」
「お前は何も言うんじゃねぇよ」と五。「つい昨日、女王様が言ってたぜ。お前なんて首を飛ばすべきだってな」仲悪すぎないか、このトランプたち。
「なんでだ?」二――最初に叫んだトランプが聞いた。「お前には関係ねぇだろ、二!!」七が金切り声を上げる。
「いや、ないことはないだろう」五が言う。「こいつはな、コックに、タマネギの代わりにチューリップの球根を持っていきやがったんだよ!!」
「こいつめ、よくも――」七の抗議はそこで止まる。七の視線は、私を捉えていた。どうしよう、逃げるべきか。黙ったまま見つめ合っていると、残りの二枚も私に気付いたようだ。十秒ほどの無言の後に、彼らは深々とお辞儀をしてきたので、どうやら警戒する必要はないらしい。お辞儀を返し、思い切って私から話しかけてみた。「あなた方は、どうしてそのバラを塗っているんですか?」
彼らはぼそぼそと小声で何か言い合い、最終的に、二が一歩前に出てきて答えた。「実はね、お嬢さん。ここには本当は赤いバラを植える予定だったんだけど、間違って白いバラが植えられちまって――」「――なに自分のミスじゃないみたいな言い方してんだ!!」五が口を挟む。
「実際に植えたのは七だろうが!!」「俺に苗木を渡したのは五だよ!!」二が応じ、七も叫ぶ。私は完全にかやの外となってしまった。
「でも、どうして赤く塗る必要があるのかしら? 別にこのままでも――」「ダメに決まってるだろう!!」と三枚。「こんな事が女王様に知れたら、俺たちの首が飛んじまうよ!!」ひどく怯えたように、三枚は震えている。「それだけでクビだなんて、女王様はずいぶんと仕事に厳しいのね。白いバラだって十分にステキなのに」
「だから俺たちは、さっさとこのバラを赤く塗って、その上で女王様がお帰りになるのを待たなきゃああああああ女王様だあああ!!」途端に三枚は地面に体を伏せる。全身が薄っぺらいトランプだから、こうなるとまるで絨毯だ。私は女王の姿を見ようと、振り返る。
まず見えたのは、クラブを持ったトランプの兵士が十枚ほど、二枚ずつの列になって歩いている。ここで伏せているトランプと同じように頭があり、四隅から手足を生やしていた。お次は廷臣、そして王家の子供たち、大半はどこかの偉い人だろうお客様方(驚くことに、その中にはあの白ウサギもいた)、ハートのジャックと続き、そしてその長い行列の最後に、ハートの王様と女王様がやってきた。
私も地面に伏した方がいいのかしら? でも、行列のときにはそうしろって決まりを聞いたこともないし、「そもそも誰もが顔を下げて見なかったら、行列を組む意味がないわよね」と思い、このまま立って待つことにした。
行列は私の目の前で止まり、女王が「こいつは何者だ?」と尋ねる。尋ねられたジャックは何も言わずに、にこっと微笑む。そりゃそうだ、初対面だもん。「馬鹿者が!!」女王は怒鳴り、私を見つめだす。
「――お前は、いくつだ?」うーんと長いことうなった後で、ようやく出てきた問いはそれだった。あまりにも予想外の質問だったので、少しどもってしまう。「え、えっと、もうすぐ十一になるところ……だった、はずです……」すると女王は「奇妙な言い方はやめんか!! はっきり、自分は十であると言え!!」と怒鳴りだす。
「いいか、お前。今後、名前はしっかりと書いておくように!!」女王がそう言うと、すぐさまジャックが動きだす。伏せっているトランプの手からハケを奪い、私の服、エプロンのお腹の部分に大きく『10』と書いた。
「名前だなんてとんでもない!!」まさか私をトランプの仲間だと勘違いしているのか。私は声を出して驚いたが、女王の意識はもはや別のところにいっていて、それを咎められることはなかった。
「して、お前たちのこのペンキは何か」女王は三枚のトランプに向かって尋ねる。「面を上げい!!」トランプたちは顔を上げ、女王や王様、行列の面々にペコペコと繰り返し頭を下げる。「面を上げよと言ったであろう!!」女王は再び怒鳴る。
「言え。お前たちは何をしていたのだ」三枚は無言で見つめ合い、またもや二が話す役となった。「申し上げます、女王陛下。わたくしどもは――」
今の内だぞ、と思い、私は赤いペンキの入ったバケツに指を突っ込む。そしてその手でエプロンの『10』に線を書き足し、『ありす』に変えてしまった。『す』だけが不自然に大きくなってしまったけれど、気にしたって仕方がない。別にこの服、私のじゃないと思うし。
「この者たちの首をはねよ!! 今すぐに!!」悲鳴にも似た、女王の叫び声が響いた。びっくりして振り向くと、言われたのはやはりあの三枚だった。「バラを植え間違えただけで死刑?! そんなのあんまりだわ!!」私の言葉は女王自身の大声のせいで女王には届かず、行列は先へ先へと進んでいく。
女王に命じられた三枚の兵隊が、不運な三枚を追いかけた。こいつらは、迷惑にも私の下へ逃げてくる。「大丈夫、安心して」正直この三枚がどうなろうと知ったこっちゃなかったが、目の前で斬首の瞬間なんてものを見せられた日にはトラウマ必至だ。私は三枚を担ぎ上げ、大きな植木鉢の中へと隠してやった。人間サイズとはいっても、トランプ三枚持ち上げる程度、造作もない。三枚の兵士たちはしばらく辺りをうろうろとしていたが、やがて諦めたのか行列を追って走っていってしまった。私も唯一の帰る手掛かりである女王を見失うわけにはいかない、急いで追いかける。
「奴らの首はどうなった?」追いついた兵士たちに、女王が問う。「はい、彼らの首はどこにもありません」「よし、それでいい!!」いやいやいや、全然良くないんだけど。まぁでも、別にいいか。兵士たちは走っていく。本来の配置は最前列だから、まだまだ頑張らねばならないのだろう。
いつの間にか、女王と目が合っていた。目が合っているというか、近い。近すぎる。目の前、十センチほどの位置に、女王の目があった。
「お前――」そこで一旦言葉が途切れ、ちらと下を向く。「――アリス!! お前は一体、どうしてこんな所にいるのだ!!」さっきの感じからいくと、下手な事を言うとまたもや首をはねろと言われかねない。兵隊から逃げること自体は難しくなさそうだが、女王と険悪になってしまう事態は避けたい。
「ええと、私は――」「――だが丁度良い。ちょうど一人、足りなくなったところだったのだ。お前が代わりに来るがよい」何にかは分からないが、変に文句を言うのも良くなさそうな気がして、私は「はい、喜んで」とだけ答えることにした。
私は行列に混ざって歩くことになった。お客様方の並ぶ、真ん中くらいのあの位置だ。どこへ向かっているのか少し考えてみたけれど、クローケー場なのではないだろうか。公爵夫人が女王様とクローケーをする、と言っていたのが記憶にある。
「き、今日は良い天気ですねぇ」おどおどとした声が聞こえてくる。例の白ウサギが、私の隣を歩いていた。「そうね」私はウサギの手を取り、握手を求める。
「とても、良い天気だわ」ギュッと、強く握ってやる。私を使いぱしったり、私を泥棒呼ばわりしたり、私を焼こうとしたり、私に石を投げつけたり――そんなこいつを許せるほど、私は寛容ではなかった。「でも、あなたには何の自覚もないんでしょうね……」ウサギは手の痛みに眉をひそめつつ、「何のでしょう?」と首を傾げる。
なんでもないわ、と答えてから、尋ねてみた。「この行列はどこへ向かっているのかしら?」それも知らずに一緒にいるのか、と驚くべき質問ではあるのだが、白ウサギは何もおかしくないかのように答えてくれた。「女王様のクローケー場ですよ。女王様はクローケーが大好きなんでございます」やっぱり、と私は思った。
「公爵夫人はどこかしら? 彼女もいると聞いたのだけれ――」「しーっ!! しーっ!!」慌てて白ウサギが遮り、耳元に口を寄せ、小声で囁く。「彼女はお城の牢にいます。死刑の宣告を受けたのですよ」
「まぁ、それは驚きね!!」本当に驚きだ。公爵夫人が死刑宣告を受けたことではなく、あのすぐに首はねを命じる女王様が死刑を宣告してから、わざわざ牢屋に閉じ込めたということがだ。
「女王様をひっぱたいたんですよ、彼女は」聞いてもいないのに、詳しい事情を語りだす。「あの方は集合時間を守らず、遅れて到着してしまいまして、それで女王様が――」ふと、私は疑問に思った。どうして『公爵夫人』で伝わるのか、と。公爵夫人は名前でも何でもないのだし、そもそもの話、彼女が公爵夫人であるという事すら確証はない。一度だって、彼女は名乗っていなかったはずなのだ。帽子屋のときもそうだったが、私はなぜか、一目見た瞬間に分かっていた。ちょっと気持ち悪い。
「位置に着け!!」女王の声が響き渡り、ほとんど聞いていなかったウサギの言葉もそこで終わる。すでにグラウンドに着いていたらしい。全員が同時にそこら中に散らばろうとするせいで、肩がぶつかり腕がぶつかり脚がぶつかりと大変だ。位置なんて知らない私はその場に立ち止まったままだったが、他の皆がどこかへ行ってくれたおかげで、なんとなく自分のいるべき場所は分かった気がする。
こんなクローケーは初めてだった。そもそもクローケーと呼べるのかも怪しい。地面はでこぼこだらけだし、ボールは生きたハリネズミだし、それを打つためのクラブはこれまた生きたフラミンゴなのだ。おまけにボールをくぐらせるフープはトランプの兵士たち。手足をついて、体を弓なりにして耐えている。
最初は満足に振ることすら叶わなかった私だが、段々と慣れてきていた。何度かやっている内にフラミンゴは大人しくなったし、あとは動き回るボールの様子とフープの位置を確かめて、タイミングを見て打つだけでいい。
しかしそれでも、このゲームは難しいものだった。まず順番という概念がない。競技者は一斉に、好き勝手にボールを打っている。それなのに女王は時たま、「お前は順番を間違えた」として他の競技者に死刑を宣告している。私は失敗のないよう、常に女王の打った次に打つように心掛けていた。いつ女王の機嫌を損ねて「この者の首をはねよ!!」と言われるか、まったくもって堪ったもんじゃない。
どうせ試合をするなら、勝ちたいと思うのが当然だ。順調にハリネズミをフープにくぐらせ、ゴールまでもう少しというところまできていた。散歩していたトランプが腰を落ち着け、手足を地面につける。もう五秒もすれば、あの位置にフープが出来る。ハリネズミは草をはみながら、のそのそと歩いている。このペースなら、二秒後には私の足元に来るはずだ。この位置でボールを打てば、フープに届くまでは大体四秒くらい――いける!! ハリネズミを刺激しない程度にフラミンゴを振りかぶり……打つ!! まっすぐにボールは飛んでいく。今にも出来上がろうとしているフープに向かって、まっすぐに。「これで五つ目のフープも通過よ!!」
――その瞬間、ハリネズミは横から飛んできた別のハリネズミと衝突を起こした。こんなところだけはルールに従い、私のハリネズミは他の競技者によって無慈悲にも、フープから遠く離れたコースの端の方にまで飛ばされてしまう。
「なんで、私が打ってる途中に他のが飛んでくるのよ……」とぼとぼと歩きながら、愚痴をこぼす。ハリネズミは自分の足で歩きだしたせいで、飛ばされた位置より更に遠くへと行っていた。なんだか気分が萎えてしまった。なんとはなしに見上げてみると、青い空では一羽のトンビが飛んでいる。「ピーヒュルルル!!」と鳴く声が勇ましい。
「どうして普通にトンビがいるのよ。前に見た犬といい、世界観ぶち壊しじゃないの」
そこで目の前、少し先に行った所に、何やら変なものが浮かんでいることに気がついた。最初は何やらよく分からない何かでしかなかったそれが、しばらくするとニヤニヤ笑いであることに気がついた。「チェシャ猫だわ!!」変わった猫ではあるけれど、話し相手としては申し分ないわね。だって、一応まともな会話をしてくれるんですもの。
「調子はどうだい?」口が出きったところで、チェシャ猫が尋ねた。私は猫の目が現れるのを待ってから、無言で頷いた。「耳が出てくるまでは、喋ったって聞こえないものね」
それにしても、登場が遅い。出てくるタイミングが遅いのではなくて、出てくるという行為にかける時間が長い。それから一分ほど待って、ようやく猫は顔の全てを浮かばせた。そこで、止まる。「どうして胴体は出さないの?」「どうって、必要ないからだよ」これ以上聞いても仕方ないと思い、話題をクローケーに変えてみた。
「このクローケー、全然フェアじゃないのよ」半ば愚痴のように、私は語る。「ちゃんとしたルールはないみたいだし――あったとしても、あってないようなものだわ。だからみんなケンカしてばかりで、自分の声だって聞き取れないくらいよ。それに道具なんかどれも生き物でね」手に持ったままのクラブ、もといフラミンゴを見せる。「あっちへ行ったりこっちへ行ったり、ままならないのよ。たとえばくぐらせなきゃいけないフープ自体が好き勝手に動くから、自分が次にグラウンドのどこへ向かうかも考え続けなくちゃいけなかったり。さっきなんて、女王様のハリネズミ――ハリネズミっていうのはボールね――それに私のハリネズミをぶつけようとしたら、私のハリネズミを見て、走って逃げられちゃったりして――」
「女王様は気に入った?」私の言葉を遮って、小声で言った。
「全然」と私は答える。「だってあの人ったら――」そこで背後の気配に気付いた。このぞわぞわと背筋を這い回るような圧倒的プレッシャー、間違いなく女王のものだ!! 考えろ、考えろ、このまま自分勝手だの横暴だの首はね馬鹿だのと言ったら今度は私の首が飛んでしまう……!! 「――――あまりにもお強いんですもの。絶対に優勝するでしょうね、最後まで続けなくたって分かるわ」止まっていた空気が動きだした。どうやら女王は、私の言葉に満足して去ったらしい。
「誰と話しておるのじゃ?」今度は王様が近寄ってきた。こいつからは王族の威厳なんて感じられない。王冠とマントを取ればただの冴えないオヤジだ。「チェシャ猫です」とだけ答え、「私のお友達です」と付け加えた。
王様はその浮かんだ顔をじっと眺めてから、しばらくして口を開いた。「なんとも気に食わん顔だな」とても失礼だ!! 当の王様は何も悪いと思っていないようで、顔付きを侮辱された猫の方もニヤニヤと、さして気にしてなさそうだったので、私も何も言わなかった。王様は続ける。「だが……そうじゃな。望むのであれば、この手にキスすることを許可してやってもよいぞ」
「嫌だね」とチェシャ猫は即答する。「その手の甲の毛が、なんとも気に食わない」めっちゃ気にしてた!! 相変わらずのにんまり笑顔ではあるけれど、その下には般若の素顔が隠れているに違いない。
「なんて無礼な猫じゃ!!」王様はひどくお怒りの様子で、腕を振り回しながら地団太を踏んでいる。「挨拶前に話し始められちゃ、礼儀も身の置きようがないよね」一国の王相手にこんな返しをするだなんて、小気味良いとはいえ末恐ろしい。
「こいつをつまみ出してやらねば!!」そこで偶然通りかかった女王に声をかける。「おい、お前。この猫をどこかへやってくれんかの」女王は振り向きもせずに答える。考える時間もなかったが、考える気もなかったのだろう。彼女にとっての物事の解決法はただ一つ、「そいつの首をはねろ!!」こうなる事は分かっていた。
しかし分からない事もある。女王は誰に向かってそう命じたのか。ここにはチェシャ猫の顔と王様、それと女王自身くらいしか人がいな――まさか私か!? 「どうした、早くせんか、アリスよ!!」ああ、私だ……。どうしよう、どうすればいいだろう……。
「早くせんと、反逆罪としてお前の首もはねてやるぞ!!」そこまで言われて、今、自分がとてもまずい状況に陥っていることを認識した。首をはねろと言われても、私は道具の一つも持っていない。フラミンゴで首は切れない。たとえ道具があったとしても、誰かを殺すだなんてまっぴら御免だ。それにそもそも、この猫の首をはねるといっても……。「恐縮ですが女王様、この猫には胴がありません」そうだ、今のチェシャ猫には頭しかない。「胴体がない以上、首をはねる――頭部と胴部を切り離すことはできません」これぞ『窮地、猫をかばう』ってやつね。私の天才的なひらめきに、世界が震撼したはずだわ。
「そんな事は関係ない、はねろと言ったらはねるのだ!! 文句は首をはねてから言うがよい!!」首をはねられないという文句はいつ言えば?!
「まだうだうだ言うようであれば他の者に代えるぞ」ぜひぜひお願いしたいものだが、その時にはきっと、飛ばす首の数が一つほど増えている。
困ってチェシャ猫に目をやると――なんだこいつは、相も変わらず笑っていやがる。困った挙句、他人を頼ろうと思った。「この猫は公爵夫人の猫ですから、胴を出させるには公爵夫人をお呼びしなければ――」「――でかしたぞ、アリス!!」言葉の途中で、女王が歓喜の声を上げる。ふと見ると、チェシャ猫の頭は跡形もなく消えていた。そこにはいつも通りの地平線が広がっている。どうやら私が話している間に、気を利かせたのか姿を消してくれたらしい。
そして、クローケーが再開された。