5.芋虫が教えてくれたもの
しばらくの間、無言のにらめっこが続き、やがて芋虫が切り出した。
「あんた、誰?」
ひどく眠そうな、とろみのある声だ。話の出だしがこれでは、会話が弾むとも思えない。それに私には、その問いに対する答えがない。「私、分からないんです、自分が何者か。ここに来るまでは私は私だったはずなんですけど、今は私、何も分からなくて……」
「どういう意味だ?」芋虫は厳しい口調で言う。「自分の言いたい事を、整理してから話しな」
「その自分が分からないんです。自分が何だったのか、何も思い出せなくて」そう伝えても、芋虫は「分からんな」と返すだけだ。
「ごめんなさい、これ以上は分かりやすく話せないわ」皮肉を込めつつ、丁寧に謝っておいた。「でも、あなただってその内に分かると思うわよ。今は芋虫でも、いずれはサナギになって、蝶に変わるんだから。その時にはきっと、今までの自分は、今の自分は何なのかって戸惑うはずだもの」
「それはないな」あっさりと、芋虫は答える。もはや話を聞いているのかも怪しく思えてきた。
「じゃあ、あなたはそうなんでしょうね。私とあなたでは、きっと感じ方が違うんだわ。だって私なら、とっても不安に思うもの」それを聞いた芋虫は「私には――ね」と馬鹿にしたように呟き、「誰だい、その私って」
これで話は逆戻り、またふりだしに戻ってしまった。この芋虫はぶっきらぼうな言葉しか返してくれないから、段々とイライラしてきた。嫌味には嫌味で返そうと、私は背筋をピンと張る。「私の名前を尋ねる前に、まずあなたが名乗るべきだと思いますけど?」
「なぜ?」短く、そう返される。これは困った。なぜかと言われれば、それがなぜなのか分からない。上手い理由が見つからないし、芋虫もかなり不機嫌な様子に見えたので、私は立ち去ることにした。
「戻ってこい!!」後ろから、芋虫の大声が聞こえてくる。「大事な話がある!!」
そう言われると期待してしまう。私は踵を返し、再び芋虫の前までやってくる。
「あまり怒るな」と芋虫。「それだけですか?」怒りを抑えて確認する。「いや――」芋虫はそこで言葉を区切り、水タバコをくわえる。
これは何かあるのかと思いきや、そのまま数分間が経過した。どうせ急いでやる事があるわけでもないからと待っていたのだが、そろそろ嫌になってきた。という頃合いで、ようやく芋虫は水タバコを離し、口を開いた。「つまり、あんたは自分が誰だか分からないんだな?」
「はい、そうです」あれだけ待たせて今更そこかよ、とは思ったが、口には出さなかった。「でもここへ来る以前があった、という事だけはなんとなく分かるので、きっかけさえあれば思い出せると思うんです」
「きっかけ、ねぇ」芋虫は再び水タバコをくわえ、ふかした。「ゾウ、キリン、バッタ、クマノミ、トンボ、カモメ……」ぶつぶつと、動物の名前を口にしている。さすがにこれは違うと思い、口を挟む。「お言葉ですけど、芋虫さん。私の名前はそういうのじゃないんです。もっと、こう――」さて、何と言えば伝わるのだろう。
その間も芋虫は、ぶつぶつと呟き続けている。「ラクダ、カマドウマ、アリ、リス、アナゴ――」「――芋虫さん。最後の言葉、もう一度言ってくださる?」何かが引っ掛かった。「アナゴ」と芋虫。「アナゴの、少し前からお願いします」
芋虫は腕を組み、一度水タバコをふかしてから、「カマドウマ、アリ、リス――」「それだわ!!」私はやっと、自分の名前を思い出すことができた。「そうだわ、私の名前は有栖――」「アリスか、変わった名前だ」アリス、アリス、アリス――そうだ、私は確かにアリスと呼ばれていた気がする。
「ありがとうございます、芋虫さん」私は深く、感謝する。まさかあんな方法で見つかるとは思っていなかったけれど、間違いなく彼の功績だ。
「突然なんですけど、ここから帰る方法も教えてくれませんか?」嬉しさついでに聞いてみたのだが、「知らん」という無愛想な一言のせいで一気にテンションが下がってしまった。「そもそもあんた、どこに帰るつもりなんだね?」続けて、そう尋ねてくる。
「それは、あのう……よく分からないんです。帰らなくっちゃとは思うんですけど、何も思い出せなくて……」「分からない、だって!!」芋虫は再び、馬鹿にしたように口にする。「それなら、帰るもなにもないじゃないか」
その通りと言えばその通りなのだが、だからこそ腹が立つ。もう少し親身になってくれてもいいんじゃないだろうか。私は芋虫から帰る手段を聞くのは諦め、話題を変えることにした。「それじゃあ、大きくなる方法は知らないかしら? こんな、七、八センチの背丈じゃ小さすぎて」
「十分じゃないか!!」芋虫は不機嫌そうに怒鳴り、体を伸ばしてみせる(それはまさに七、八センチの身の丈だった)。「私にとってはとても小さいんです!!」情けなくも、私はそう言い返すしかなかった。こんな風に何から何まで否定されるだなんて、今まであったかしら。そう思わずにはいられない。
芋虫は再び水タバコをふかし始める。また何か話しだすかも待っていると、一、二分後、芋虫は水タバコを口から離し、一、二度あくびをして、体を震わせる。そしてそのままキノコから降り、草をかき分けてどこかへ行ってしまった。去り際に一言呟いた。「かたっぽを食べると、大きくなる」
「かたっぽって、何の話?」私が問うと、「キノコの」と短く返される。「大きくなるって、もしかして私の背丈の話かしら!!」若干はしゃぎながら確認すると、芋虫は不機嫌そうに答えた。「そう言ってるだろう」
「――でも、片側を食べて大きくなるのなら、もう片側はどうなるの? やっぱり、小さくなれるのかしら」一分くらいの沈黙の後で、芋虫は呟いた。「死ぬ」
「リスクが大きいのね!?」そう言い終えたときには、芋虫は姿を消していた。
私は両腕を大きく広げ、キノコの両端を少しずつむしり取った。その二つの欠片を見比べながら、しばらく悩む。もし芋虫の言葉が本当なら私は五十パーセントの確率で死ぬのだし、キノコの片側と反対側のが上と下で分かれているのなら、今両手にあるどちらを食べても死んでしまう可能性だってある。
悩んだ挙げ句、決心した。「大丈夫よね。半分だけ毒のキノコだなんて聞いたことがないもの、冗談に決まっているわ」あの芋虫が冗談を言うようには見えなかったが、そういう茶目っ気があってもいいと思える。むしろ思いたい。私は覚悟を決め、左手に持ったキノコを口に放った。味は別段面白くもなんともない。さっきのケーキもそうだったし、もしかすると、広間のタルトケーキで味覚がおかしくなっているのかもしれなかった。
ぐんぐんと、体が成長していく。少し元より伸びすぎてしまった気もするが、さっきまでの虫サイズと比べれば、よっぽど良い。ある意味では、理想よりも理想的な体になれたと言える。
「もう片側は――やめときましょう。これで死んだら馬鹿みたいだわ」右手のキノコを捨てて、私は歩きだした。
しばらくすると、急に開けた場所に出た。そこには小さなお家が一つ、ぽつんと建っている。私は少しうきうきした心持ちで、その家に近づいていった。