4.白ウサギの贈り物、トカゲのビル
未だにくらくらする頭を押さえながら、私は立ち上がった。
「うーん、なんだか悪い夢を見た……」ドードー鳥のせいで延々円を走らされた挙げ句、おやつの飴玉を強奪された気がする。その上ネズミの長いお話を聞かされて――ネズミの尾って長いわよね。
なんとなくポケットに手を突っ込んでみると、入れていたはずの飴玉が本当に消えていた。残っているのは一つの指貫だけだ。いらない。
すぐ横にあったはずのガラスのテーブルは消えている。そして、溢れんばかりに並んでいたはずの扉も。寝ながら移動なんてしているはずがないのに、部屋のなにもかもが変わってしまっていた。
「公爵夫人が!! 公爵夫人が!! ああどうしよう、本当に困った、これじゃ首をはねられちまう!! 一体全体、どこで落としちまったんだろう?」大きな声でぶつくさ言いながら、白ウサギが走ってきた。時間がないとか言う割には、結構うろうろしてるのね。
きょろきょろと何か探している様子のウサギは私を見つけると、「なんだ、メアリ・アン。こんな所で何をしているんだ? さっさと家に走って、手袋と扇子を持ってこい!! さあ、早く!!」と、叫びともとれる大声で怒鳴りつけてきた。
私は驚いてしまい、人違いだと文句を言うのも忘れて、ウサギの指差す方へと走りだしてしまった。
「自分のお手伝いさんと間違えられたんだわ」走りながら、そう思った。「でも、私が手袋と扇子を持っていってあげたら、きっと落ち着くわよね。そうしたら、私が帰る方法について話を聞いてくれるかも」
そう言う内に、小洒落た小さな家の前に出た。玄関の表札は、大きく『白ウサギ』と彫られている。ノックもせずにドアを開けると、二階へと一目散に進んでいった。なぜだか、ここにある気がしたのだ。
きちんと片付いた部屋の、窓際のテーブルの上には扇子が一つと、いく組かの白い手袋が乗っていた。私はそれを手に取ると、本物のメアリ・アンと出くわさないよう早々に家を立ち去ろうと――したところで、鏡の近くに置いてある小ビンが目に留まった。
「頼み事を聞いてあげたんだもの。報酬の前払いくらい、頂いてもいいわよね」『ワタシヲオノミ』とは書かれていないそれには、同じく『毒』とも書かれていない。なら飲める。そろそろ喉が渇いていた私は、何でもいいから何かを飲みたかった。
「うぐぐ、固いわね……」なかなかフタが開けられない。あの白ウサギが閉めたのだとすると、想像以上の馬鹿力だ。数分間格闘したことでちょっとした隙間ができ、そこにスプーンを差し込むと、無理矢理ながらこじ開けることに成功した。そして私は、一気にそれを飲み干した。――そんなに不味くはない。なんだかコメントのしようがないくらいに、つまらない味だった。
フタを開けるのに手間取ったせいで、結構な時間が経っていた。本物のメアリ・アンがやってこなかった偶然に感謝したい。
「さて、早く出ましょう」ドアノブに手をかけ、回す。回らない。何度回しても、回らない。どうしてだろう。「鍵がかかっているのかしら?」しかしどれだけ見ても、木製の扉の内側には鍵など付いていない。どうしたものかと思案していると、扉の向こう側からぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。
「泥棒がいたというのは本当か、パット?」
「ええ、本当でございやす」
どうやら白ウサギが、パットとかいう誰かさんと会話をしているらしい。それにしても、泥棒ってまさか私のことかしら。もう少し様子を伺ってみようと思い、静かに耳をそばだてた。
「あっしが庭でリンゴを掘っていたら――」「――リンゴが土の中にあるかよ、馬鹿野郎!!」
「とにかく、掘っていやしたら、見知らぬ不審者が――」「――見知った不審者があってたまるか!!」
どうやら白ウサギは大層お怒りらしい。言葉の端々に怒気が感じられた。
「いいから、話を続けろ!!」自分が口出ししたにも関わらず、白ウサギは怒鳴る。パットもパットで、「へぇ、へぇ」とへつらっているばかりだ。
「その不審者が入っていくのが見えたんで、そーっと後ろをつけて、すると予想通り部屋を物色しだしたんで、鍵をかけて閉じ込めることにしやした」
やっぱり、この扉には外から鍵をかけられているらしい。しかし元はといえば、私は白ウサギに頼まれてここへ来たのだ。堂々と声をかければ――「それはでかしたぞ、パット!! 泥棒は裁判にかけて、首をはねてもらわねばならん!!」やめておこう。私がメアリ・アンじゃないと気付いたら、白ウサギにとっては不審者そのものだ。
二人が扉の前にいる今の内に窓から抜け出せないかと考えたが、ダメだった。あまりにも高すぎる。私は窓からの脱出を諦め、冷静に部屋を見渡す。窓の下にテーブルがあり、その上に残った手袋がいくつか。他には戸棚や鏡、ベッドがあるくらいで、出口になりそうなのはこの扉か暖炉くらいしかない。暖炉の中に首を突っ込み、上を見ると、ススだらけでとても登れそうにない。やはり、なんとかして扉を抜けるしかないようだ。
「おら!! 開けろ!! あんたが命令したから取りに来てやったのに、そんな私を泥棒扱いするとは何事だ!!」白ウサギの理不尽な態度と、どうしようもないこの状況に腹が立ち、思い切り扉を蹴りつけた。「ひええ」と、二人の悲鳴が上がる。
「どうするんだ、泥棒を刺激しちまったじゃないか。お前、早く中に入って捕まえてこい!!」「嫌ですよ、旦那。ビルに行ってもらいやしょう」また新しい名前が出てきた。「ビルなら表にいるはずです。呼んできやしょう」「いや、ドアを開けた途端に泥棒が襲い掛かってくるかもしれん。ビルには煙突から行かせよう」それきり、部屋の前はしんと静かになった。
それじゃあビルも閉じ込められちゃうじゃないの、と思いながら、暖炉に目をやる。「じゃあ、あそこからビルが降りてくるわけ?」私は暖炉の真横に立ち、息を潜めて待ち構えた。
やがてすぐ上のあたりの煙突の中でがさごそやる音が聞こえ、ズシンと衝撃が落ちてきた。暖炉の中からゆっくりと、ススだらけで真っ黒なトカゲが姿を現す。「ビルだ」一言呟いて、全力で蹴飛ばした。不審者に対して送り込むのだからどれほど屈強な肉体の生き物が来るかと思っていたのに、ビルは信じられないくらいひ弱なトカゲだった。壁に後ろ頭を打ち、バタンと倒れる。「はしごでも使って降りてきてくれたなら、煙突から出られたのに」結局、部屋に閉じ込められた現状はそのままだ。
外から、ウサギの大声が聞こえてくる。「まずは、手押し車一台分でいいだろう」
「手押し車一台分の、何?」そう思っていると、カツカツと窓に何かが当たる音がした。音は段々と大きくなり、しまいにはガシャーン、と窓が割れてしまった。窓だった場所を通過して、部屋にはいくつもの――いくつもの、なんて言葉じゃ足りない、豪雨のように大量の小石が降り注いできた。硬い雨は容赦なく、ビルの体にも降り注ぐ。とっさに腕でかばったけれど、当たるととても痛い。本当に痛い。「これはやめさせなきゃ」と思い、窓から戸棚を放り投げた。「こんな事、二度としたら承知しないんだから!!」幸い、小石の雨はやんでくれた。そのまま一、二分ほど、静かな時が流れる。
「こうなったら、この家ごと焼き払ってしまえ!!」そう言ったのは、他の誰でもない白ウサギだ。自分の家を焼いてしまおうなどと、正気の沙汰とは思えない。それにそもそも、まだ中に入ったままのビルを殺すつもりなのかしら。面倒な仕事を押し付けられ、主人に小石をぶつけられ、更には殺されそうになっている哀れなトカゲに目を向けると、なんとマッチに火を点けているところだった。
慌てて二、三度蹴りを入れ、ビルを完全に気絶させたのだが――なんたる失態、先にマッチを取り上げておくべきだった。ビルの手元から落ちたマッチはカーペットに火を付け、それは瞬く間に部屋中へと燃え広がった。
「けほっ、けほっ、どうしましょう。このままじゃ私も肉料理の仲間入りだわ」少女の踊り焼き、ニンジンの香りの家包み――そんな想像を、ぶんと頭を振って取り払う。「こうなったら、最悪、窓から飛び降りるしかないわね」
そこでふと、先程の小石がケーキに変わっていることに気がついた。床一面に、美味しそうなケーキが落ちている。あり得ない出来事ではあったけれど、今日はそんな事ばかりだ、私はそれを受け容れられた。飛び降りる前の最後の活になればと、私はその中の一つを口にする。
緊張で味なんてまるで分からなかったけれど、分からなかったのはそれだけではなかった。たちまちの内に、私の体が縮んでいくのだ。その変化が止まる頃には、私の背丈はわずか七、八センチほどにまでなっていた。どうしよう、などと悩んでいる時間もない。急いでテーブルによじ登り、手袋の一つを腕に抱える。
「ビル……あんたの顔は忘れない……」体より大きな手袋をパラシュート代わりに、私は窓から飛び降りた。
無事に着地すると、白ウサギと恐らくパッド、そしていつの間にか集まっていた小さな獣や鳥たちが、うわっと押し寄せてきた。私は一度も振り返らずに、力の限り走り抜ける。やがて見えてきたこんもりとしげった森に逃げ込んだところで、ようやく足を止めた。
歩きながら、考える。「こうなってしまった以上、あのウサギから帰る方法を聞くのは諦めましょう。それにさっきのいざこざの中で、少なくともウサギ以外にもたくさんの動物がいることがはっきりしたわ」
泥棒と認定されてからは白ウサギに顔を見られていないものの、あの白ウサギにこだわる必要もない。今度はもっと焦っていない、話の通じそうな人を探しましょう。するとすぐ頭の上から、キャンと小さく吠える声が聞こえた。びっくりして顔を上げると、巨大な子犬がまんまるい大きな目で私を見て、前足を伸ばして触れようとしていた。
「可愛いわんちゃんね!!」努めて優しく、あやすように口にしたつもりだが、声が震えていたかもしれない。口笛を吹いてやろうと思ったけれど、いつものようには上手くできなかった。それも当然。もしこの犬がお腹を空かせていたならば、たとえどれだけ機嫌をとっても、私はペロリと食べられてしまうかもしれないのだから。
無我夢中で小枝を拾い、犬ころに向かって構える。こんな物でなんとかなるとも思えないけれど、黙って食われるほど私は聖人じゃない。
「もしその口が大きく開かれたなら、舌を突いてやるからね!!」私の徹底抗戦の姿勢に対した犬は、ワンと一声嬉しそうに吠え、小枝の先に飛びついた。前足で叩き、噛みつき、じゃれる。なんとか、私自身からは気を逸らさせられたようだ。とはいっても大きな犬、何かの拍子に踏み付けられたら大変と、小枝を持ったままに、すぐそこのアザミの裏へと身を隠した。
するとこの犬はぴょんと飛び越え、アザミのこちら側へとやってくる。私はもう一度小枝を犬に向け、もう一度アザミの反対側へと身を隠した。「私が犬嫌いになったら、あんたが悪いんだからね!!」言葉が通じないと分かりつつ嘆くと、犬ころはまたもアザミを飛び越えた。こんな事を何度も繰り返していると、やがて犬も疲れたのか、少し離れた所で座り込んでしまった。舌をだらんと垂らしながら、はあはあ息を吐いている。
逃げるなら今しかない、と思い、私は駆け出した。私自身も息を切らしてへとへとになり、犬の鳴き声が遠くに聞こえるくらいになってから、私は落ち着くことができた。
「でも、可愛いわんちゃんだったわ」そこにあったキンポウゲにもたれかかり、葉っぱの一枚を扇子代わりに使いながらぼやく。「色々と芸を仕込んであげたかったのに。せめて私が普通の大きさだったなら――そうよ、元の大きさに戻る方法も探さなくちゃ!! ケーキを食べて小さくなったんだから、また何か食べればいいのかしら。でも難しいのは、その『何か』が何なのかってことよね」
辺りには草や花、木ばかりが並んでいる。食べられそうなものなど……あった。私の背丈くらいのキノコが、どーんと一本生えている。
キノコに詳しくはないけれど、何もしないよりはましかと思って、食べられそうかどうかを調べてみる。キノコの下を見て、両側と後ろを見て、次にかさの上を確認してみると、一匹の芋虫と目が合った。どうやらずっと上に乗っていたのに、私が気がつかなかったらしい。芋虫は腕を組んで水タバコをふかしている。確かに目が合っているはずなのに、芋虫は私になんてまるで関心がないとでも言うかのように何の反応も示さなかった。