胡蜂の女王
月の女神の統べる大地の端くれに、黄金の城が築かれました。
築いたのは人間ではなく、胡蜂の精霊たちです。ひとりの女王を中心に暮らす彼らは、そのあたり一帯の精霊たちにも恐れられているような乱暴者ばかりでした。特に、蜜蜂の精霊たちは時折、胡蜂の襲撃を受け、その度にどうにか追い払っていました。
一度の襲撃で必ず一人以上が攫われてしまいます。蜜蜂たちが一人の胡蜂を殺したとしても、他の胡蜂が他の誰かを攫って行ってしまうのです。攫われた仲間を助ける力は蜜蜂たちにはありません。ただ、命からがら王国に逃げ帰った者の証言で、彼らは知ったのです。胡蜂は肉食の精霊。攫われた仲間たちは無残にも食い殺されてしまうのだと。
それ以来、蜜蜂たちは常に胡蜂の存在に震えていました。そして胡蜂たちも蜜蜂たちのことを食料としてしか認識せず、女王に捧げるために犠牲を覚悟で大規模な狩りを度々行いました。
蜜蜂だけではありません。あらゆる精霊が胡蜂によって連行され、女王陛下に貢がれました。その運命を決めるのは女王だた一人。彼女は常に惰性に取り憑かれたような眼差しで獲物の姿を見つめ、淡々とその運命を決定づけていました。
女王の裁きはいずれも死に他なりません。いつ、誰の食料となるのかの違いしかありません。ならばいっそ捕まった時点で楽になりたいと叫ぶものもいましたが、新鮮な食料を望む胡蜂たちはなるべく獲物を殺さずに連れ去ることを望んでいました。
食料として連行された獲物の中には、女王にこびへつらって慈悲を乞う者もいましたが、女王はやはり冷たい眼差しでそれを見つめるばかりで、何も変わりません。
彼女はこの王国の誰よりも冬を乗り越えてきた精霊です。人間たちには魔女や大妖精と呼ばれる彼女は、やがて同じような日々に退屈し、少しのことでは心を動かされることなく王国を守ってきたのです。
連行された他国の男性が貢がれた時も、その男性があっけなく事切れる時も、やがて新しい命が生まれ、王国がさらに反映する時も、彼女は大した感動もせずに見つめているばかりでした。
そんなある日のこと、黄金の城に新たな獲物が連行されてきました。
蜜蜂の娘です。しかし、いつも連れてこられる者たちとは様子が違いました。彼女を捕獲した胡蜂の女兵は得意げです。国民たちもそんな彼女を讃えていました。
様子の違うその蜜蜂は、女王候補の姫だったのです。蜜蜂の王国で同じ候補として育てられた姉妹との争いに敗れ、王国を追われて森をさまよっていた時に胡蜂に見つかり、囚われてしまったのです。
まだ若い彼女にとって一兵卒に過ぎない胡蜂でさえも脅威でした。母親の女王は魔女でしたが、その力も大して使えません。あっけなく彼女は拘束され、生きたまま黄金の城に連れられたのです。
そして女王陛下の前に、女王になれなかった蜜蜂の娘は晒されたのです。
「ご覧ください、女王陛下。珍しい蜜蜂を手に入れました。女王候補の娘です。継承争いに負けるほどの出来損ないですが、身体つきは違いますとも。そこいらの蜜蜂どもとは比べられないほどの味わいある獲物でしょう。どうぞ、お召し上がりください」
胡蜂の女兵に言われ、女王陛下はぼんやりと蜜蜂の娘を見つめました。
確かに珍しい獲物です。継承争いは珍しくありませんが、敗北した女王候補などなかなか捕らえられません。胡蜂から見れば理想的な獲物でした。もちろん、女王陛下から見ても同じです。
しかし、何故でしょう。
蜜蜂の娘が顔を上げ、女王陛下の目を見つめたその瞬間、女王陛下は胸を打たれたような気分になったのです。国を追われた哀れな娘。女王の資格を持つもの。それだけではない何かが、女王陛下の心を惹きつけたのです。容姿の輝きでしょうか。それとも見えざる心の輝きでしょうか。女王陛下は一目で蜜蜂の娘を気に入ってしまったのです。それまで灰色だった世界が、急に色鮮やかなものに変わったかのようでした。
「陛下?」
胡蜂の娘たちに窺われ、女王陛下は我に返りました。
「その者は確かにいただいた。我が寝室に通せ」
その指示に胡蜂の娘の数名が顔を見合わせました。
女王陛下の食料ならば専用の貯蔵庫に閉じ込められます。しかし、今回のように寝室に通されることも、たまにありました。他国の男であったり、いますぐに命を落とすことが決まった者たちです。
けれど、今回は様子が違いました。今すぐに獲物を食べるのならば送るはずの指示が送られなかったのです。女王陛下はただ蜜蜂の娘を寝室に通すようにとだけ告げたのです。
それからでした。女王陛下が王座の奥に蜜蜂の娘をとどまらせるようになったのは。
初めのうちは胡蜂の中にも疑問を浮かべるものがいました。しかし、女王の決定は絶対です。それに、蜜蜂の娘は寝室から一切出してもらえず、その存在感があまりにも消されてしまっていたので、数日も経てば違和感もなくなっていき、ついには誰も女王陛下に口出しすることなく時が過ぎていきました。
一方、女王陛下の寝室に通された蜜蜂の娘は怯えていました。気まぐれに生かされた状態で、外の空気も吸わせてもらえぬまま、死ぬのを待つばかりの日々に希望を感じられなかったのです。
蜜蜂の娘はたびたび訊ねました。どうして自分を生かすのか。その理由を知りたがりました。女王陛下はその度に沈黙し、蜜蜂の娘の身体を支配しました。恐怖と絶望に加え、蜜と共に何とも言い難い悦楽を与えられ、蜜蜂の娘の心は次第に歪なものに変化していきました。
黄金の城には女王陛下の愛妾が匿われている。
何処からともなくそんな噂は流れ出していきました。胡蜂の国民たちは文句も言わずに当然のように蜜蜂の娘のために花の精霊たちを潰して蜜の団子を作り、女王への忠誠を誓う印として捧げました。
おかげで蜜蜂の娘は飢えることなく、ただ生かされ続けたのです。捕食者である恐ろしい胡蜂の女王陛下の傍に寄り添い、いつ気まぐれで殺されるかもわからない日々を過ごす毎日。蜜蜂の娘は常に怯えていました。
しかし、どんなに噂が流れても、蜜蜂の娘を助け出そうとするものはいなかったのです。彼女の祖国では新しい女王が君臨し、敗北者である妹のことなど気に留めずにただ王国を守ることだけを考えていたためです。もしも胡蜂の女王の気が変わり、かつて妹として育ったことのある蜜蜂の娘が殺されるようなことがあったと想像しても、蜜蜂の女王は同情すらすることが出来なかったのです。
敗北者の居場所など何処にもない。蜜蜂の娘は自分の運命を呪い、せめて自らの死が安らかなものとなるように月の女神に祈っていました。
けれど、胡蜂の女王は飽きることなく蜜蜂の娘を横に置きました。ただ傍に仕え、寂しさを紛らわせてくれる娘の存在が、いつの間にかかけがえのないものになっていたのです。
それでも、その思いはなかなか蜜蜂の娘には伝わりません。いつも悲しそうな目をしている娘に、女王陛下はたびたび問いかけました。
「お前が欲しいものは出来る限り与えてやろう。だから、そのような目をしないでおくれ」
一年限りの伴侶は勿論、実の息子や娘たちさえも聞いたことのない甘い口調で女王陛下は蜜蜂の娘に問いかけました。しかし、どんなに甘い口調で問いかけても、蜜蜂の娘の心にはうまく伝わりません。彼女にとって胡蜂は捕食者でしかないのです。優しくされても、甘やかされても、いつかは飽きられ食い殺されてしまうと思えば、女王陛下の愛など信じることが出来なかったのです。
「わたくしのことはどうぞお構いなく。この目は生まれつきのものなのです」
ただそう言って煙に巻く蜜蜂の娘の頬に、女王陛下は触れました。まじまじと見れば、バランスのとれた肉付きがどこも魅力的です。しかしそれは性愛による価値などではなく、食物としての価値でした。大切にしたい、これからも生かしておきたいと願う女王陛下でも、蜜蜂の娘の身体は美味しそうなものに見えてしまうのです。
引っかかっているのはただ蜜蜂の娘への執着。彼女を失えば再び世界は灰色になってしまうのではないかという恐怖でした。
「姉妹との争いに敗れ、こうして敵国の妾の身分に落とされていることがどれだけお前の自尊心を傷つけているのか分かっているぞ。だが、信じておくれ。私はお前を蔑みたいわけではない。ただそばにいてほしいだけなのだ」
「……お戯れを」
そう言って、蜜蜂はため息を吐きました。いつもそうです。倦怠感は常に彼女の心にのしかかり、逃げ出すことも諦めて、ただ人形のように過ごしているばかりなのです。
そんな彼女にとって世界は鮮やかなものではないだろうと女王陛下も分かっていました。黄金の城の輝きも、彼女にとっては灰色でしかないのだと。
「嘘などではない」
女王陛下もため息交じりに彼女に言いました。
「お前を食べたりなどしない。ただ共に眠り、共に起床し、こうして会話をしてもらいたいだけだ。その為に何か欲しいものがあるならば、私が与えてやろうというだけ」
女王陛下の言葉に蜜蜂の娘は小さく呻きました。そして、顔を両手で覆い、震えながら言ったのです。
「わたくしが欲しいのは自由だけです。小規模でいい。国を作り、今度こそ女王として過ごしたいのです。争いのない国を築き、わが血を引く蜜蜂たちの安息の国を作りたいのです」
それは切なる夢でした。
女王候補として育てられ、姉妹との戦いの末に後継者から外され追い出され、ならば新しい国を築こうと新天地を探していたところだったのです。彼女にはそれだけの誇りがありました。しかし、自分よりも強い胡蜂を前に、怯えていることしかできなかったのです。
それでも、彼女は夢見ていました。いつか自分の世界を築くこと。それは、女王蜂として生まれた者ならば誰もが抱く思いだったのです。
女王陛下は静かに彼女を見つめました。
手放すという選択はどうしても出来ません。それでも、彼女の気持ちは痛いほどわかりました。女王蜂は姉妹との戦いに敗れると死を選ぶこともあるのです。女王陛下もそうやって母親からこの国を継ぎ、姉妹を死に追いやって来たからこそ知っていました。直接手を下したわけでもなく、勝敗が決まり見逃した者たちがことごとく自害を選んだためでした。
女王蜂は誇り高く育ち、誇り高く死ぬものなのだと女王陛下はつねづね考えていました。そして、蜜蜂や胡蜂の違いはないのだと知ったのです。
「この国を飛び出し、城を築きたいか」
力なく言う女王陛下の姿に、蜜蜂の娘は更に怯えました。
思い切ったことを言ってしまったと後悔していたのです。自分の立場が分からないわけではありません。ただ、抑えていた感情が漏れ出してしまっただけなのです。
だから、女王陛下が別に自分を責めないと気づくと、蜜蜂の娘はやっと彼女の素顔を見つめました。そこにいたのは恐ろしい捕食者の顔ではなく、常に仮面を被っているかのような冷たい印象を宿した美しい横顔でした。
――この人は寂しいのかしら。
蜜蜂の娘はその時やっと気づきました。
誰からも恐れられる黄金の城の女王は、この国の胡蜂たちの憧れの的であったでしょう。生まれながらに差があり、母親のようにはなれないと運命づけられた働き蜂たちにとって、希望でもあったはずです。その希望で居続けるためには、強くあらねばなりません。
女王陛下は心を殺し、ただ国を守り続けていました。姉妹を殺しこの座に就いたその時から、彼女は孤独だったのです。
そんな背景など蜜蜂の娘には知るよしもありませんが、それでも悲しげな感情が微かに伝わってきたのです。蜜蜂の娘は怯えを捨てました。
「申し訳ありません、陛下」
心からそう言いました。
「ただの戯言に御座います。此処で食べさせていただいている以上、わたくしは貴女の為に存在し続けましょう」
胡蜂の女王陛下は無表情のままでした。
そんなことがあった日から、蜜蜂の娘の生活は少し変わりました。
待遇は何一つ変わっていません。自由を奪われ、女王陛下の寝室から出してもらえることも一切ありません。しかし、蜜蜂の娘の心に変化が生じていました。
もう、女王陛下に触れられても、前のように震えてしまうことはなくなりました。それどころか自ら手を伸ばして、女王陛下の顔に触れることさえも出来るようになったのです。
怯える必要はないと蜜蜂の娘は感じ、女王陛下もまた娘の小さな変化に安息を覚えていました。
昼は氷のように冷たい表情をしている女王陛下も、夜は炎でも灯ったような温かな笑みを浮かべてくれる時もありました。
蜜蜂の娘はいつの間にか、そんな女王陛下の笑みが好きになっていました。自分が女王候補であったことも忘れ、狭い寝室の中だけが彼女の世界になっていたのです。
そんなある日のことでした。
季節は巡り、粉雪の輝き、胡蜂の大人の半数ほどが死んでしまう季節が訪れました。
もしも人間の住まうような家であれば、寒さをしのぐものもたくさんあったでしょう。けれど、精霊だけで築き上げた城には、防寒できるようなものはありません。火など起こせるはずもなく、女王陛下の魔法の力だけが頼りでした。冬を越せるのは大人の半数ほど。残りは春の訪れまで卵や蛹の中でゆっくりと眠り、少しずつ大人になっていく少年や少女たちです。
これまでになく黄金の城は静かになりました。寝室に閉じ込められている蜜蜂の娘にも分かるほど、胡蜂の気配がぐっと少なくなったのです。
心細そうな蜜蜂の娘に対し、春が来ればまた賑やかになると女王陛下は言って聞かせました。
しかし、冬の魔物は思わぬ牙を剥いてきました。ただでさえ冬という季節の中で、国民を少しでも守るために魔法で仄かに熱を生み出し続けていた女王陛下が、ついに倒れてしまったのです。ただの疲労ならば少し休めばよくなったでしょう。けれど、冬の時期に訪れる病の精が目敏く女王陛下の不調を嗅ぎ付け、手を出してきたのです。
高熱が続く女王陛下の姿に、国民は怯えました。そして、誰かが声をあげたのです。
「これまでこういうことはなかった。これは陛下の囲う蜜蜂のせいでもあるのではないか」
彼女らの言い分によれば、娘恋しさのあまり魔力の加減を見誤ったのだとのことです。蜜蜂の娘はそれを聞き、何も言い返せぬまま黙り込んでしまいました。
女王陛下が不器用ながら自分を愛してくれたことは確かです。それならば、彼女たちの言うように、自分を冬の寒さから守るために加減を見誤ったのだとしてもおかしくはないように思えました。
――わたくしのせいで、陛下が……。
もしも女王陛下の意識がしっかりとしていれば、それは違うと娘たちを咎めたことでしょう。けれど、女王陛下は病に襲われ混濁した意識の狭間に囚われていたので、庇ってやることも出来ません。やがて、弾圧は強まり、蜜蜂の娘はますます居場所を無くしていきました。
このまま女王陛下が息を引き取れば、すぐにでも自分は食料として処分されてしまうだろう。そんな思いが彼女の頭によぎりました。
――ならば、此処を去る時は今なのではないか。
今や、寝室から出ようとも、眉を顰めるものはいません。
見張りは減らされ、もっとも障害となっていた女王陛下は病に臥しているのです。機会を窺えば、黄金の城の深くからすらも抜け出せるのではないか。
けれど、そんな彼女の後ろ髪を引くのが、病と戦う女王陛下の姿でした。不本意ながら囚われたはずなのに、何故だか彼女を見捨てて立ち去ることが恐ろしく罪深いことのように思えたのです。
蜜蜂の娘は女王陛下に寄り添いながら、記憶の片隅にしまっておいた女王候補としての日々を思い出していました。
祖国の先代の女王は母親として女王候補の娘たちに魔力を授けました。その魔力を使い、姉妹は戦い、正当な後継者を決めたのです。
姉妹の全てを薙ぎ払い、国を勝ち取った姉の一人は古くから伝わる薬草の力を味方につけて戦っていたことを彼女は覚えていました。その薬草は、月の女神の大地にだけ生える特別なもので、強い魔女の魔力によく反応し、力を授けるというものです。ただ魔力が増長するのではなく、傷や病の治癒にも役立つのだと娘は聞いていました。
雪を被った季節にも生えているというその薬草。あれがあれば、女王陛下の命も救うことが出来るのではないのか。
女王陛下は日に日に弱っていきました。女王候補である娘たちは、母の死を予感し、緊張を強めていました。城の中が荒れる日が近づいている。姉妹同士の殺戮が始まれば、蜜蜂の娘の居場所など完全になくなるでしょう。
ついに蜜蜂の娘は意を決し、女王陛下の看病に明け暮れる娘たちに頭を下げて言いました。
「わたくしの外出をどうか御認めください。陛下のご病気に効く薬草をもって参ります。必ず戻りますので、どうか……」
母の病を治せる薬草がある。そんな甘い言葉を胡蜂の娘たちは信じません。しかし、互いに顔を見合わせ、考えていました。
胡蜂にとって蜜蜂の娘は望ましい食料のままでしたが、彼女を置いておけば争いの火種となるでしょう。ただでさえ恐ろしい継承争いがより混雑したものになることは、誰もが望んでいないことでした。
蜜蜂の娘の話が真実であれば何よりですが、そうでなくとも体よく追い出せるのであれば上々だと誰もが思ったのです。
そうして、蜜蜂の娘はようやく外に出ることが赦されたのです。意識のない女王陛下の手の甲に口づけをして、凍てつく寒さの銀色の世界へと飛び出していったのです。
生まれたときから温かな城で育ってきた蜜蜂の娘にとって、初めて足をつける銀世界でした。
覚悟していた以上に冬は厳しく、靴すらも履かせてもらえないような身の上では、数歩進むだけでも耐えがたい苦痛が生じたのです。
それでも、蜜蜂の娘は進み続けました。記憶にある薬草の生地はそう遠くありません。しかし、祖国にまだ母が居て平和な頃に訪れた時の、数十倍は苦労しなくてはなりませんでした。
蜜蜂の娘は月の女神に祈り、這うように先に進みました。
そうして、ようやく記憶の片隅にあったあの薬草を見つけたのです。これのせいで姉妹に敗北し、死んだ者もいました。祖国を追われたあの日、彼女にはこの薬草が魔物のように思えました。けれど今は違います。白くて小さな花をつけるその薬草は、彼女が心から求めた希望の化身でした。
薬草を必死にかき集めると、蜜蜂の娘は再び黄金の城を目指しました。女王陛下に薬草を渡さなくては。寒さに耐えながら、ただ女王の笑みを見たいばかりに進み、そしてようやく帰り着いたのです。
蜜蜂の娘を送り出した胡蜂たちは、彼女が宣言通り薬草を手に帰って来たのを見て驚きました。
もしもその薬草が効かず、女王陛下が死んでしまえば、彼女の運命は転がり落ちていきます。胡蜂たちも彼女に同情こそしても、助けてやろうとは一切考えていません。それなのに、最大の機会を蹴ってまで彼女は戻ってきたのです。戻って来てしまった以上、仕方ありません。もはや追い出すという選択肢はなくなり、女王候補たちは目を光らせ、姉妹や母親の様子を常々監視していました。
陛下が死ねば、程なくして候補者の誰かが真っ先に蜜蜂の娘を食い殺し、力を蓄えようとするでしょう。それが合図となり、継承争いは始まるのです。
けれど、そんなことも露知らず、蜜蜂の娘は甲斐甲斐しく女王陛下に付き添いました。薬草は貯蔵庫の管理をする胡蜂の兵が加工し、寝込み続ける女王陛下の口に流し込みました。
誰もが女王の目覚めを待ち、候補の娘たちは緊張を強めていました。そして、数日後、ついに女王陛下は目を覚ましたのです。
薬草が体に馴染んだ女王陛下はすっかり回復し、一国が荒れ果てることもなく、再び女王としての役目を果たせるようになりました。
命を懸けた争いが未然に防がれ、女王候補の娘たちもほっとしていました。蜜蜂の娘は女王の目覚めを大変喜び、そしてようやくこれまでの疲労を自覚しました。
このまま死んでしまってもいいとさえ思いながら、彼女は女王陛下の寝室で眠り続け、やがて疲れが癒され目覚めたあと、彼女は寝室を出るように言われ、正式な形で女王陛下に呼び出されました。
「お前の――いや、そなたのお陰でこの国は守られた」
女王陛下は礼を述べ、蜜蜂の娘に触れて名残惜しそうにしながら告げました。
「今日より平穏な時代が続く限り、そなたは我が愛妾ではない。女王蜂として生まれたそなたに望み通り国を持たせよう。特例なしにそなたの国は侵さない。行くがいい。私の気が変わらぬうちに」
突如与えられた自由に、蜜蜂の娘は恍惚としました。
女王陛下のもとを去るのは寂しいことです。しかし、それよりも女王蜂として生きることが出来ることが嬉しくて仕方なかったのです。
失われた尊厳は戻り、蜜蜂の娘はためらうことなく女王陛下に礼を尽くし、黄金の城を去っていきました。
その日から、月の大地の端くれの黄金の城の近辺に小さな蜜蜂の王国が築かれました。これまであった蜜蜂の王国とは違い、小さく平穏な国でした。
胡蜂の国に近いはずなのに襲われもしないその国はいつしか精霊たちの間で有名となり、その国の民である蜜蜂たちが野生花と共に蜜吸いをする光景も珍しくないものとなりました。
娘が立ち去ったあの日以来、胡蜂の女王陛下は再び冷徹な仮面を取り戻しました。
しかし、時折、思い出したように我が子たちに蜜蜂の王国について窺い、その確かな繁栄の噂を耳にしては、小さな明かりが灯ったような微笑みを浮かべてたそうです。