宿らせの樹と一角鬼
ここに来てから、山坂ばかりで、自転車に乗る事もなくなった。
歩く方が楽なのだ。
階段を上がる宅配便業者を見た時は、二度見した程だ。
最近は道路も整備されていると言っていたが、階段を登らなければ行き着けない場所もまだまだあるのも事実だ。
眼下に、落ち込む様に海が迫ってくる。
霞んだその先には、島々が点々と連なっている。
石畳を歩き階段を登る。
振り返ると、真下に船が走って行く。
夏が近づいていて、雲の白さが濃く厚い。
軒下をかすめるように、バスが曲がって来るのが見えた。
もう直ぐ、目の前に唐突に現れるだろう。
少し歩みを止め、待つとバスがまるで塀の中から産まれたように表れた。
坂とカーブの妙だ。
カーブミラーが、バスの尻を映している。
バスをやり過ごすと、古い古い手摘みの石垣を左手に見ながら、コンクリートの階段を上がる。
やっと半分。
汗が噴き出す。
木洩れ日が、わずかな清涼感を与えてくれる。
が、そこは墓地なのだが。
墓地の横を抜け、山肌の崖に張り付いた道を登る。
そんな場所に、洋館が建っているのだ。
こういった洋館は、材木も石も全て人の手で、上げたという話を聞いた事がある。
こんな手の込んだ物を、労力を厭わず、よく建てたものだ。
玄関は、開け放たれていて、中が丸見えだった。
ここの1階は、木曜日だけ開くパン屋なのだ。
それに、カキ氷も食べられる。
開店して間もないはずだが中から、人のざわめきが漏れている。
洋館に入ると、空気感が変わる。
スッと涼しさが辺りを包んでいた。
苺練乳を頼み、それを持ち、テラスに出た。
海と空で世界が重なりあっている。
つながった境目で、氷を食べるのだ。
指定席は、高い木の木陰。
白いツルツルした手触りの木は、心を落ち着かせてくれる。
好きな文庫本を読みながら、氷にスプーンをたてる。
いつの間にか、テラスの席もいっぱいになっていたのだろう。
「相席、よろしいですか。」
小豆金時抹茶クリームのカキ氷を、持った青年が立っていた。
「どうぞ、空いてますから。」
1人掛けの椅子が2脚、空いている。
三角の木のテーブルに、カキ氷の丸い輪が染みていた。
サクサクと氷がスプーンで寄せられ、綺麗に食べられていく。
自分の氷もあとわずかだ。
それから、時々この青年と会うようになった。
木曜日しかやってない店だから、出会いやすいのだ。
何故か、この樹の下のテーブルはいつも空いていた。
2人とも、浮気もせず、毎回同じカキ氷だった。
3回目の時、遅ればせながら名乗りあった。
「前田篤史と言います。
失礼でなければ、お名前は。」
あわてて、頭を下げ返答した。
「加賀直斗です。
申し遅れまして。」
あまりの堅い返答に、思わずお互いに笑ってしまった。
「ここ、来週から日曜日も開けますよ。
メニューも増やすそうです。
けど、僕ら、関係ないですね。」
「そうですね。
それでも、氷自体秋にはおしまいになるんじゃないですかね。」
篤史は、おやおやといった顔をする。
「ここは、一年中氷、出しますよ。
だって、アイスクリーム、冬にあるじゃないですか。」
それとこれとは、と思ったが、思い直した。
そうかな、と。
「ここに来る人は、半分ぐらい冬もカキ氷食べてるんです。」
篤史が、ニコニコしている。
「そうなんですか。
夏が終われば、氷も終わる所が多いから。
ヤッパリ変わった店なんですかね、ここ。」
サックリとスプーンが、氷を崩す。
長話を、するわけでもないが、2人はそれからも、樹の下のテーブルで、度々あった。
あっと言う間にひと月がたっていた。
直斗は、ノンビリと木曜日のカキ氷を楽しんでいた。
ここからの景色が、好きだったのだ。
遮ることのない空と海。
青さを増し、夏が終わることを知らせていた。
下にある墓地に、黒揚羽が舞いだしたら秋だ。
氷の入った器が、刺さる様に感じられる。
外でカキ氷を食べる人は、ずいぶん減ったようだ。
「こんにちは。」
篤史が、隣に座った。
「久しぶりですね。」
ここ2週間、篤史は現れなかったのだ。
「そうですね。
なかなか、忙しくて。
直斗さんは、いかがでしたか。」
「変わりありません。」
何故か、スッと前がぼやけた。
違和感が、氷の器から、ジワジワと、上がってくる。
落ち着かない。
何を考えれば、良いのだろう。
「この木、ご存知ですか。」
両手で、頭ごと首を回された様に、あの白い幹の樹が、視界をすべて覆っていた。
その先には、空も海も、無い。
目の前が、白い樹の幹だけになってしまっていたのだ。
「そんな、、、馬鹿な、、、。」
痺れたような身体は、動く事が出来ないでいた。
椅子から、尻がずり落ちそうだった。
そうだ。
痺れた記憶の中に、憎しみがあった。
テーブルに乗ってる左手が、痛い。
僅かに動かした視線の先に、左の掌が、あらわれた。
そこから、螺旋に削られたような、角が生えている。
これでは、カキ氷の器が持てないではないか。
見当違いな思いが、溢れていた。
甘い氷は、歪んだ角を溶かしてくれるのだろうか。
姿の見えない篤史が、囁く。
「鬼の角です。
気づくと生えているのです。」
と、篤史が呟いた。
あれからだ。
唐突に、直斗は怒りから解放された。
夏の始まりの日が蘇った。
そうだ。
自分の墓を見ながら、ここまで来ていた事に、気づいた。
あの日のあの場所から、ここの下の街まで、フラフラと降り、又あがり、そのままここに来ていたのだ。
掌の角は、斑目に色を変えながら、静かに、沈みだし、消えていった。
「角は何も、額に生えるだけでは、ありませんから。」
洞窟の向こうから聞こえるような、声だった。
「気が付いていたのでしょう、ご自分の身に起こった事。」
知ってるし、知らない。
怒りや憎しみから、絶望と哀しみが追いかけてくる。
嘆いていたのは、何処の誰だったろう。
淡々とした記憶は記録でしかなく、今の自分とはかけ離れていたからだ。
それ程、遠くにきていたのだろう。
「御覧なさい。」
樹の幹には、虹色の線が、楕円に広がりだし、やがてそれは、色を変えながら消えていった。
現れたのは、樹の幹にポッカリ空いた空間だった。
「これは。」
空虚な声が耳の奥を漂う。
「あの中に行けるのですよ。
そして、戻るのです。
進んで、探すのです。
あなただけの原始風景を。」
篤史の声は、風鈴に似ている。
ほんの少し、外側にいるのだ。
「見える、そこに。」
木の幹の中を上がる、水滴の列が、美しい。
煌めきと秩序を、教えてくれる。
そこに向かうのだ。
安堵の気持ちが訪れる。
漠然とした、不安が解消されだした。
身体の力が、スルスルと衣を落とすかのように、消えていく。
右手から、木のスプーンが滑り落ち、音もなく消えていった。
座っていた椅子も、氷の器を載せていたテーブルも消えている。
溢れる泪は、何処に行くのだろうか。
そこに、空と海が見えた。
あぁ、そうなんだ。
あそこから来て、あそこに帰るのだ。
直斗は、木の幹を輝く虹の輪と共に、潜った。
もう、無駄な感情は此処には無い。
人が感じる事とは、此処で決別するのだ。
「良かったですね。」
蒼い影のような顔を振り向かせた直斗が、その首をかしげる。
篤史の肩から、大きな角が飛び出していた。
乳白色の角は、肩からぐるりと回っていて、反対側の肩に刺さりそうな程だった。
「あなたは、どうされますか。」
半身を木の穴に入れかけたまま、瞬きもせずに、直斗は篤史に声をかけた。
「此処に居るだけです。
感じてられるように、僕の角はなかなか、取れないのですよ。
罪の重さも相まっていて。」
悲しい声が、寄せる波と騒めく風の中で、千切れ、流れる雲のように、通り過ぎて行くのだった。
それっきり、直斗の自我は消滅し、原始の海の幼生の時代に、舞い戻っていた。
一角鬼の煩悩は、溶けて消えていった。
それとも、あの左手の掌の中で、まだ潜んでいたりするのだろうか。
それもこれも、全ては姿を変える氷のように、最早、見つけられないだろう。
あの木の下で、篤史はひとり氷を食べる。
自分の罪が溶けて、扉が開くその時まで。
今は、ここまで。