シンデレラ.7
深い闇の中荘厳な鐘の音がお城に響き渡る。リンゴンと鳴り響くそれは夢の終わりを告げる音。仮初めの姫に門限を知らせる音。
時計台から降りてきたエアがお城の城門の方へと視線をやると、スタコラとスカートを翻して逃げるエラとそれを追い返る王子の姿があった。その様子はどこか喜劇じみていて滑稽さを帯びている。
「うわ、お姉ちゃんこけやがった」
エアは城門から続く下り階段の途中で転ぶ姉の姿に目を覆う。エラは立ち上がると、転んだ拍子に脱げた靴もそのままに走り出す。凄惨なイジメに耐えてきたおかげか、裸足で走ることなぞ何のそのと言った風情であった。たくましい限りである。
結局、いくらもしない内にエラの姿は見えなくなり、階段にはガラスの靴を手に呆然とする王子だけtが取り残された。
エアは上手く死角になるような位置を考えながら、そろりそろりと王子の元へと近づいていた。彼女には気になる事があったのだ。ちなみに父親は一緒ではない。内側から開けた時計塔の鍵をどうにかしてかけてくるようにとエアに命令された為だ。
木の陰から、立ちすくむ王子の様子を窺うエア。そこには綺麗なガラスの靴から一変、六年間履き潰した小学生の上履きようになった靴を両手で弄びながら溜め息をつく王子の姿があった。
「……お姉ちゃん、ちゃんと王子に自分の家の場所と伝えてるのかしら?」
そう、魔法が解けたらエラはまたシンデレラに逆戻りなのだ。もし自分の住む家を伝えるか、或いは次のデートの約束でもしていない限り、金輪際王子との逢瀬を楽しむ事は出来ないのである。今まで色恋沙汰とは無縁の生活だったかもしれないが、いい歳の女なのだ、さすがにそれくらいは考慮しているとは思うが一抹の不安は拭えない。
「参ったな……まだ住所も聞いてなかったのに」
「やっぱりか!」
思った通りの展開につい大きな声を張り上げるエア。
「そこにいるのはもしかしてエラかい?」
「……げ。見つかった」
そりゃあれだけ大きな声を出せば見つからないはずが無い。エアは自分の浅はかさに嫌気がさすが、見つかってしまったものは仕方ない。ピンチはチャンスと言う言葉もある。このまま、再度エラになりきって王子に姉の所在を伝えればいいのだ、と思考を切り替える。
「急に走り出すから心配したぞ。一体どうしたんだ?」
「……ちょっとお酒に酔ってしまいまして」
愛想笑いを浮かべて手をひらひらとさせるエア。さあ、自然にエラの住む家の場所を伝えて、次のデートの約束をこしらえるのだ。
「わたしの家はあの山を越えて真っ直ぐいったところのでかいだけでボロボロの家です。なんかあれです。ツタとかいっぱい巻きついてる家です。今度迎えに来てくださいね!じゃあさよなら!」
もの凄く不自然にそう言うと「じゃ!」と手を上げてその場を去ろうとするエア。そんな彼女を逃がすわけもなく王子は自分の右手でエアの左手をしっかりととホールドする。
「何故僕から逃げるんだい?」
「いえ、今日はお腹の調子が悪くて。あれです。わたし便秘なんです。超便秘女なんです」
姉よ、すまん。と心の中で唱えながらエアは必死で王子を振り切ろうとする。そんなエアを逃がすまいと引っ張る王子。青年はついにはエアをがしっと抱きすくめた。
「……逃がさないよ」
彼女の耳元でそう囁く。全身が総毛立つエアを慈しむような目で見ながら、王子はエアを自分の胸の中へと引き寄せる。
そして、王子は少女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
「――――」
突然の出来事に頭が真っ白になるエア。まるで背景が薔薇の花で埋め尽くされているような状況に羞恥や怒り、それを通り越した薄ら寒さを感じてしまう。「ちょっと顔がいいからってなめるなよこのドンファンが!」そんな気持ちである。
「……っ」
王子がエアを解放する。彼の唇にはうっすらと血が滲んでいた。
「……痛いじゃないか」
余裕たっぷりに微笑を浮かべる青年を前にエアの背筋に冷たいものが走った。イケメン王子様にキスをされたと言う興奮と、強引に唇を奪われた屈辱、そして目の前で冷たく笑うその男に対しての恐怖がないまぜになって彼女を襲う。彼女は肩で息をしながら中指をおっ立てそうになる自分を必死で抑える。
「君は僕のお嫁さんになりにきたんじゃあないのかい?」
それとも何か別の目的があるのかい、と繋げてきそうな王子。「違うわボケナスが!」と言えればどんなに楽なことか。
「よし、こうしよう」
ぱん、と一つ手を叩くと王子は例の営業スマイルではなく本当に楽しそうな顔をした。絶対、悪い事を考えている顔だった。
「君が僕に嫁ぐと言うのならこれから言う僕の命令に従うんだ」
「ちょ!なによそれ!」
エアが気色ばむ。こんな男の命令なんて従えるか。絶対、相手に一番屈辱を与えるような命令をしてくるに決まっている。もはやエアは完全に王子を敵とみなしていた。
「嫌かい?もし嫌なら今すぐここから立ち去ってくれて構わない。僕も今夜の事は忘れよう」
君はそれでいいのかい、とこちらの反応を窺う王子。「エアよ。お前はここまできて引き下がるのか。姉の幸せはもうすぐそこだぞ」とエアは自問自答をする。それとは別に「本当にこの男に嫁ぐのは幸せなのか?」と言う疑問が鎌首をもたげる。
「……嫌だなんてとんでもありません」
結局、エアはひきつらせた笑顔でそう答えた。「まだ大丈夫。とんでもない命令をされたら、その時に考えればいいのだ。まだ大丈夫だ」そう繰り返して自分を納得させる。それがまるでギャンブル中毒者のような思考展開だという事に彼女は気付いていない。
「それなら話が早い。そうだな……まずは」
王子の口から紡がれた言葉にエアは絶句する。