春に溶ける
はっ、はっ
息を切らしながら小さな少年はゴツゴツとした山道を医師に渡された地図の通り進んだ。
人里はなれた山奥に不馴れな格好で来てしまった事に少し後悔した祐太だったが、父のことを思い弱々しくも懸命にある場所を目指したのだ。
小さな体にみあわない荷物を背負って薄暗くなる獣道を行く。
あれから どれくらい歩いたのだろう---
辺りを見回すと夕日が沈みかけていたと同時に辺りの茂みからざわざわとする何かを感じた。
しかし祐太は長い道のりに疲れていた為か、気にせず地図に書かれた場所へと足取り重くも進むのであった。
山の夜は恐ろしい。感覚、視覚、聴覚全てが闇に溶けていき、歩幅だけが淡々と一定の間隔で動いている。
闇の中を月のかすかな光を便りに、足元だけを見ていた為か、周りの茂みに異様な何かに気が付いたのは開けた道に差し掛かった時だった。
辺りに木や草はなく、音だけか何故か祐太の周りにざわざわと蠢いているのだ。
何かの気配に
はっとした祐太は引きずる足を残る力を振り絞り、力一杯にその場を逃げた。
声にならない悲鳴を出す祐太に、追い討ちを掛けるように気配がより一層に強くなる。
あっ。
不意に体が軽くなった。
懸命に走っていた祐太であったがその声と同時に体が宙に浮くのを感じた。
そして一瞬の内に一回目の鈍痛が体に走ったかと思うと視界に入った地面と共に意識が無くなってしまった。
あれからどれくらいの時が過ぎたかーーー
鈍い痛みと共に全身を包む布団の暖かさと、ヂリヂリと心地のよい音が聞こえた。
痛っ---
祐太はさっきあった出来事を思いだし、突然飛び上るようにして起き上がった辺りを見回した。
一瞬何が起こっているのかわからなかったが、真っ暗な闇とは違い、目覚めたそこは温もりのある古びた土間が広がり、日本家屋の囲炉裏にジリジリと炊かれた火の前に金髪の男が一人物静かに座っていた。
やぁー起きたかい?具合はどうだかな?ひどい目にあったね。
整った顔立ちにすらりと伸びた背丈、サムイのような衣服を着て高校生くらいの不思議な少年が淡々と話しかけてきた。
辺りの状況がつかめず言葉が出ない祐太だが、足に巻かれた包帯をみて、少年が助けてくれたことはすぐに察しがついた。
あっ。ありがとうございます。
何を話して良いかわからないが、とりあえず救われたことに対して一言礼をいった後、ここまでの道のりであった奇怪な出来事をはなした。
あぁ、あれはこの辺りに住む音だよ。
人をからかう連中で、遊んでほしいと寄ってくる言霊の一種なんだ。
まぁ、特に害はないから大丈夫だよ。
当たり前のように話す少年に
ポカンと口をあけてなんの事か?と
おそらく当たり前の反応を祐太は示していた。
そんな当たり前の反応を示す祐太に
今日はなんの用事で?
ニコッと笑う少年に、ハッとした祐太はとりあえず
さっきの事でぐちゃぐちゃになっていた一枚の紙をおもむろに渡した。
村の医師と呼ばれる人からの手紙だ。
少年はそれを受けとり、眉をひそめたかと思うと、手紙を読み始めた。
手紙の内容は簡潔で、
人形のようになってしまった男がいる。
医学的な判断はできず、分かることがあれば教えてほしい。
と綴ってあった。
何か思い付いたように少年が祐太に言う。
なぜ、君がこれを?
その言葉を聞いた時、祐太の目には涙が溢れていた。ここまでの恐怖感からの安堵と、今まで、ずっとためていた言葉が、止まらなくなっていた。
父のようにたくみです。
ずっと一緒にいた父が急に物忘れがひどくなり日を追うことにいろんなものを忘れました。
今では僕のことも覚えていません。言葉も、感情も忘れてしまったようです。
ぼろぼろに泣く祐太をみて、少年が一枚の紙に習字の筆のようなもので綴り始めた。
何かを書き記しているのであろう。スラスラと文字のようなものを書いていた。
何を書いたかと思うと、涙ながらに話をする祐太に大丈夫と頭に手を置いた。
ひとしきり今までの思いを告げ、少し安心した祐太は不意に少年がなぜこんなとこに?
と疑問に思い、とりあえず少年の名前を聞いた。
僕は祐太といいます。お兄さんのお名前はなんですか?
子供ながらにしつけられた祐太をみて感心しつつも
少年は少し悩んだ表情で答えた。
今は確か、こだまって言われています。よろしくね。
なぜか困った顔で言う少年に更に疑問がうかんだ。
自分の名前さえはっきりしない。こんな山奥に一人で住んでいること。少年に対してよりわからないことが増えた。
まぁ、今日は疲れただろう。
ゆっくりおやすみ。と
少年が言う。
曖昧で不思議なことばかり言うこだまに少し不信感が沸いた祐太だが、未だ経験したことのない疲労感に負け、意識が朦朧とするのを感じた。そっと頭に手を置かれ、何かをいったあと外に行くのが見えたが、そのまま静かに夜に堕ちた。
初春の夜はまだ肌寒く、雪解けの匂いがにわかに春を感じさせた夜だった。
その夜不思議な夢を見たーーー
見覚えのある川で、父がひたすらに水面を覗き混んでいた。自分の顔を見るわけでも川の魚を見るわけでもなくただ一点を見ていた。
なにしてるの?と祐太が聞いてみるとただニコッと優しく微笑むだけだった。
元気だった時の父がそこにはいるようだった。
そうしているうちに突然と父が川の中に入っていった。
危ないよ。やめてよ。
と手をとった時に父の手ははまるで、水になったように冷たく、体温が感じられなくなっていた。
そうしてしばらくすると歩みを進め、水に溶けていくのだった。
恐怖で目が覚めた。
勢いよく起きた祐太の目には涙で溢れ、そのまま止まらない涙を拭き続けた。
父のたくみは唯一の肉親で、母は幼い頃に亡くしていた。
それもあってか、たくみの仕事を小さな頃から手伝い大きな背中に尊敬を抱いていた。
いつもニコニコと笑顔を向けてくれる祐太は父のたくみが大好きだった。温かくもザラザラと荒れた手、低く深みのある声、その全てが大好きだった。
あり得ない夢のはずなのに何故か祐太にはひどく重く現実味を帯びたものに感じられた。
おはよう。
その時、聞き覚えのある声が聞こえた。
声を聞き、ふっと我にかえると昨日の夜に体験した恐怖とは反対の春に感じる温かい独特な日差し、土の匂いが祐太の身体を包み込むのがわかった。
あっ。おはようございます。昨日は本当にありがとうございました。
涙を拭きながら言う祐太にご飯たべようか?と優しく声をかけてきた。
ギシギシと音を立てる木の廊下を抜け、昨日寝ていた囲炉裏の部屋についた。
こうやって日の光を感じて見直してみると昨日感じた寂しげな空気はなく、暖かみのある部屋で何故か居心地が良いと感じてしまった。
部屋に入ると食欲をそそる匂いと
並べられた朝食をみて腹の虫が鳴くのを感じた。
そういえば昨日はなにも食べていなかったと、今になってようやく気づき、勢いよく食べた。
何故かここで食べるものは全てが美味しく、甘味のある彩りある野菜に温かい味噌汁があった。子供ながらに美味しいと感じることがわかったようだった。
ひとしきり食べ終わった頃、こだまが昨日の件でと話を始めた。
僕は言霊師。
言葉に宿る音の現象を集めているんだ。
まぁ、何をいっているかわからないかもしれないけど簡単に言うと、誰かの発した言葉には魂みたいなものがやどるんだ。
その時の感情が強ければ強いほど、いろいろな現象を起こすんだ。言葉には感情が宿るからね。
なんていうか。
何か嫌なことを言われたときって凄く後に惹いたりするよね。何でそんなこと言われないといけないんだってね。
それって言霊の力なんだ。
発言した人の思いが強いほど何かしらの不思議な影響をもたらしたりするものなんだ。
まだなんとも言えないけど、もしかしたら君のおとうさんも誰かの言霊に憑かれていかもしれないね。
もしかしたら、原因が分かれば治せるかもしれないね。
今一な説明で祐太にはあまり理解できなかったが、こだまには言葉以外の伝わる不思議なものがあり、その事かと少しだけ思ってみた。
治るかもしれないという言葉だけが祐太には何より嬉しい言葉で、曖昧な答えさえ信じたくなってみた。
とりあえず村に行っておとうさんに会わなくちゃね。
今から準備するからちょっと待っててね。
少し元気な表情をうかべた祐太には
疲れてないかい?とこだまが聞いた。
少し試されたような感じがした祐太は大丈夫っ!と力強く答え、昨日来た道を下っていくのだった。
凄く不思議だ。
こだまの手には筆のようなものと、和紙のような紙
不思議なホタルのような光を放つ球体ものを籠に入れ、とても身軽な格好だった。
その光は?
と聞くと、
言霊だと理解しにくい答えを返してきた。
発光することなど聞いた事がない祐太だったが、あまり深くは聞かないでおこうとヘラヘラ笑うこだまの横を黙々と歩みを進めた。
下りは以外と早く夕日が沈む前には祐太の産まれた村へついた。
村につくと祐太の足取りはより早くなり、こだまの手を引っ張り家へとまねきいれた。
山とは違う村特有の匂いとさっぱりと片付いた部屋に男はいた。
ただ呼吸だけをして、ぼーぅと天を仰ぎ、部屋のすみに持たれ掛けるように座っている。
見るからに普通の人とは違う空気間だ。
とーちゃん今帰ったよ。
少し悲しそうに聞こえる祐太の声に反応はない。
そんな男に楽しそうに黙々と話す祐太だった。
するとこだまは父たくみの前に座り、一言こんにちはと言うと持ってきた筆のようなもので、さっそくと父を囲むようにみたことのない文字を書き始めた。
囲むようにして書いた文字のようなものに手をそっとかざし、光を帯びたかと思うとその文字が父の体にするする蛇のようにとまと割りついていった。
見たことのない事で声の出なかった祐太だが
その文字が徐々にたくみの体に染み込んでいくのが見えた。
その後、人形のようになった父の周りに白い発光体のようなものがたくみの体からでて、何十かふわふわとしているのがみえた。
その後、父が何か言ったかと思うと光は消え、もとの状態に戻った。
しばらくすると、こだまが少し険しい顔で何も書かれてなかった筈の紙をみてこういった。
これは無音の言霊だ。
こだまが険しい顔で続けた。
これは
言葉の音を食べて、発したものを奪っていくもの。
細胞のように増殖してしまい、最後は存在そのものが奪われてしまう。
無音は最後はその人が一番心に残っているものや言葉を食し、記憶や存在の全てを奪ってしまう少しやっかいな言霊なんだ。
突然の言葉と光景に驚きを隠せない祐太。
どうしたら?ーーー
祈りながらも絶望に近い思いで祐太が尋ねた。
今はわからない。
とりあえず、様子をみるしかないね。
歯切れの悪い答えだが今はこの答えを告げるしかなかった。
少し休もう。お父さんもまだ大丈夫みたいだ。
こだまが言うと不安にかられながらもそうするしかない現状を理解した。
その日の朝ーーー
たくみの姿はなくなっていた。
何故か父のいた場所はびしょ濡れになり、そのままいつものようにフラフラとどこかにいってしまったの
ではないかと言うように水浸しの足跡が点々と一つの道をたどっていた。
もうダメだ。
祐太はただ濡れた布団を目の前に声がかれるほど泣いた。
行き場のない悲しみに泣くことしかできなかった。
その時ーーー
こだまが走って来たかと思うと祐太の手を引き、
大丈夫。
行こう!
と力強く引っ張ってきた。
泣くことしかできない祐太は力なく引っ張られ、ただそうするしかない出来なかった。
こだまは足跡のような水をたどっていた。
しかし祐太には走る感覚はない。ただ見えるのは目のなかの涙が地面に落ちる光景だけだった。
それに父との思い出が走馬灯のように頭をよぎるのだった。
いたっーーー
不意にこだまの声が耳に入った。
そこには徐々に色を失う父の姿が川を見ながらたっていた。
夢でみた景色だ。
見覚えのある川に父の姿。ただ違うのは笑うことなく、無表情のたくみがいた。
意識がはっきりせず、夢で見たように徐々に透明に薄れていく。表情は一切かわらないが、ただひたすらに水のように薄れゆく父はただ川を眺めるだけで、そこにあの頃のたくみはいなかった。
まだ間に合うっ。
そう言うとこだまが何か綴られた紙を出し、籠に入れた光を取り出したかと思うと、紙に押し付けた。
すると綴られた文字が紙から抜け出し、光を先頭に父を囲むようにぐるぐると竜巻状にまわったかと思うと、目も開けられないほどの光に祐太は包まれていた。
一瞬の光に目が眩んだ。
しばらくすると遮られた光の奥から突然、恐怖感が沸き上がるゴォーゴォーという音が聞こえた。
激しく唸る音に気付いてゆっくりとめを開け景色の変化と見たことのない景色に目を疑った。
そこは昔みた川だ。
記録にない雨はいつも穏やかな川を豹変させていた。
ただ嵐のようにうねり上げ、泥混じりの轟音とともに荒れ狂う姿が目の前にあり、一人の男がどしゃ降りの雨の中を叫びながら川に向かって走っていた。
さちーっ
さちーっ
祐太ーっ
ほとんど声にならずかすれながらも声にならない声をあげた。
そこに写るものは、おそらく父のみた景色だろう。
時として豹変をとげる自然に叶うはず無く、ただただ追いかけ、叫ぶ事しかできない父がいた。
轟音を響かせながら増水した川は優しくさらさらと流れるいつもの優しい面影はなく、なすすべもなく、多くの人を飲み込んだ。
その中の一人に母はいた。
辛うじて流木に引っ掛かり溺れかけながらも、生まれて間もないであろう僕を必死に激流から守り続ける母。
母の顔も声も知らない祐太だが、その景色に母の強さをみる事しかできなかった。
自然の声に母の声が書き消され、一本の糸が切れればきっと今すぐにでも流されてしまいそうな状態だ。
おそらくその一本の糸が繋ぐものは我が子を護る母の強い心に繋がれる生きたいと言う思いだけである事に間違いないだろう。
押し寄せる水を前に父が懸命に
叫びながら手を伸ばす。
さちっ捕まってくれ。
力無くかすれた声でたくみが叫んだ。
その時ーーー
母は何よりも祐太の命を優先した。
たくみ助けて。
溺れながらも叫ぶ母を繋ぐ一本の糸が切れた。
子供を守った安心感からか
手を滑らせた母は一瞬にして泥混じりの川へと姿を消した。
たくみの腕には泣きわめく祐太をそっと包まれていた。
なにもわからない祐太はただ寒さと恐怖から泣くことしかできなかった。
これが最後の言葉となった。
救いを求め、手を伸ばし父の名を叫びながら。
泣き崩れた父の手には大切そうに祐太が包まれていた。
父の感情がヒシヒシと今の祐太の心にまとわりついてきた。
最後に発した母の言葉は父の心に深く傷を残した。
ただ、泣くことしかできない、たくみと祐太の回りに人が集まり、父の肩をもち家へと連れていくのだった。
祐太は心が締め付けられるのを感じた。
なにもできない事の悔しさ、助けたいと願った思い、
母のいきたいという願い。
全てさらっていった。
記録的な雨は一瞬にして何もかもを奪っていくだけだった。
力無く立ち上がる時、その場を離れたくないと言う強い思いが薄く不透明な影を引き離し、その場に影をとどまらせたのが見えた。
つれられていく泣き叫ぶ父を背に、無表情で川を眺める空っぽの父がいた。
その影の頭上には白い光の集まりがフワフワと飛んでいた。
祐太の目にはまるで慰めるように父の周りを飛んでいるように見えた。
気付いたときには祐太は白くなにもない空間に立ちすくんでいた。
そこには無音が奪っていった父の記憶が少しずつ溢れだしていた。
奪うというよりは悲しみに耐えられない思いを慰めてくれているといったように思えた。
大きくなり母のお腹を幸せそうに触る父。生まれたての祐太を抱きあやす父。
そういった記憶に祐太は元気だった頃の父とほとんど記憶にない優しい笑顔の母の思い出に包まれていった。
祐太が母をみた最後だ。
ふっと暖かい日差しの匂いに包まれたかと思うと、目の前にはさらさらと優しく普段の川が目の前に流れていた。
なにもかわらない。なにも変えることができない場所にあの頃と同じようにして父はいた。
ただひたすらと水面を見ながら水辺に涙を溶かす父はあの頃の優しかった父に戻っていた。
そこには暖かい春の風が穏やかに水面を踊らせていた。
おとうさん、かえろっ。
春の雪解けの水は今は優しく、父の悲しみを受け入れそっと春に溶かしていった。
ある朝、祐太は母を亡くした川へと足を運んだ。
あの日以来、こだまの姿は見ていないがこだまが言う言霊の力で母に会うことができたのだと思う。
別れは悲しくひどいものだが、母の力強い優しさが祐太の唯一の母である証になっていた。
色とりどりの花を集め母のもとへたくみと手をとり向かう。
これが唯一母にできる恩返しだからだと、毎日の習慣にしていた。
あの場所へむかうーーー
そこには花束がおかれ、覚えのある優しい匂いが流れた。
不意に流れた風は祐太の背中を優しく包み、静かに春の空を通りすぎた。