異世界への旅立ち
「…ん」
ゆっくりと浮上した意識に薄く目を開けるとベット脇の窓からは白み出した夜空が見えた。
回らない頭でぼんやりと窓を見ていると、ガラスをすり抜けて小さな銀河が滑り込んで来た。
「っうわぁあ!」
驚いた拍子にジタバタと暴れながら布団を引き寄せて膝を抱いた。
小さな銀河は面白がる様にふっと寄ってきては離れてを繰り返す。
小さな星の雲のようなそれは揺れるたびに星屑をこぼした。
ありえない光景に、鈍い頭痛がして、寝る前の事がフラッシュバックするみたいに蘇る。
見た事無い制服の女の子。
不気味な店と女の人。
…帰れない家。
パニックがぶり返しそうだ。
お母さん…どうしよう、きっと心配してる。
はっはっと息が早くなっていく指先が冷たくなるのに耳の奥から心臓が鳴って目に熱が溜まっていく。
息が…くるし…。
「お目覚めね…」
鈴を鳴らす様な女の声が、大して大きくもないのに部屋に響いた。
いつ来たのか、女が部屋のドアを背にこちらを見ていた。
女が静かにこちらへ近づく。
「帰りなさい…これはこちらのもの」
小さな銀河は見つかって焦る小動物みたいに窓の外へ逃げていった。
静かな女の声と訳のわからない物がどこかに行った事でほんの少し息をつけた。
意識して息を吸い、吐いて――なんとか声が震えないように整える。
「ここはどこなんですか?家に帰らないといけないんです」
見れば、女は襟の詰まったタイトな黒いブラウスに黒のロングスカートを履いていた。
どこか喪服の様だ。
足元が見えない。どんな靴を履いているのか、足音はしなかった。
女はほんの少し顎をあげ、こちらを見る。
ゾクっとするほど綺麗な、切れ長の目に暗い瞳がこちらをとらえている。
「少しは落ち着いたようね…こちらへおいで。話をしよう」
女はくるりと私に背を向け、ドアを開け出て行った。
私は置いて行かれてはたまらないと女の後を追う。
「うわぁ…」
ドアから出るとすぐ左から階段になっている。白い漆喰の壁に等間隔に並んだ木枠の窓からは白みを増す夜空からあわい光が注いでいる。
荒い磨りガラスの窓が光を虹色のプリズムに変え、白い壁に不規則な模様を描いた。
あんまりにも幻想的できれいで……漏れた声に女がちらりとこちらを向く。
「足元に気をつけて」
「あ、はい」
なんだかあんまりにも現実味が無くて、間抜けに答えてしまった。
階段は下に向かって緩くカーブを描き、階下に着くと短い廊下の先にあるドアを抜けた。
食堂の様な場所だった。
6人は座れそうな大きなテーブルは深い色の木製で、床も歩くたび軋む節が目立つ板張りだった。
「お座りなさい」
女が小さく指で招いたが椅子が無い。
視線を彷徨わせていると部屋の奥から椅子がふわりと現れた。
驚いて声を上げる間もなく椅子は後ろからカナエの膝をそっと押してカナエを座らせた。
女はすでに座っている。
トンッと女が指先で小さく机を叩いた。
今度は不思議の国のアリスの様に茶器がカチャカチャと音を立てながらやってきて女とカナエの前に紅茶を入れた。
ミルクポットと砂糖壺がカナエのカップにそれぞれついでいくが、お互いもうちょっと入れろと小突きあってはちょっと多いんじゃ無いかと思うほどミルクと砂糖をついで一礼して去っていった。
「気に入られたのね」
「……え?」
「なんでもないわ」
可愛らしい茶器たちに見入っていた自分が恥ずかしくて顔に熱があつまるのがわかる。
思わずブルブルと頭を振って思い出す。
お母さんが、待ってる。
今何時だろう……冷たくなった晩御飯を前にしてどんな気持ちでいるだろうか……。
私は唇を噛んで女を見た。
「さぁ、お話の時間ね」
「私は、お母さんのところに帰りたいんです!」
勢いこんで声を上げる。
「待ってるんです……きっと今も。……帰らないといけないんです」
「ここは世界の間この場所は異世界を旅する。招かれた者だけが来れる場所。そう簡単には出られはしない」
「そんな…」
これまでの努力が…。必死に頑張って入学した高校。内申に響かぬ様節制した私生活。塾も自習も体調管理だって…!
やっとお母さんを安心させてあげられる。それがすぐそこまできていたのに。
目に厚く涙が膜をはって、今にもこぼれ落ちそうだった。
「戻りたいなら……方法がないわけでは無い」
ぐっと顔を上げて女を見た。
勢いが良かったせいで涙は飛沫になって飛んだ。
「帰れるの……?」
「お前がここに来たその日に帰る事だって出来なくは無い」
ほっとするよりはりつめた。
帰らないといけない。
「お前はこの先異世界を旅する。そこで帰りたい世界との縁を強めてみればいい」
「縁を……強める?」
「そう。同じ者、物……。お前の世界に縁があると思うモノをここに持っておいで。お前の世界との縁が深まれば……帰れるかもしれない」
「縁…」
「そう。お前も連れてこられただろう?ここに来て、さらにお前は対価を払い受け取った。縁としてはこの上ない」
そうか、私はあの女の子に連れられて…傘を買った。あれのせいだったんだ。
「……帰る為には、そうするしか無いのね?」
「容易い事では無い。世界は無限に広がる枝葉の一つにすぎないのだから……」
「……わかった。それでも私は私の世界のモノを見つけて、必ず帰るわ」
そう、帰らないと。
私はお母さんときっと幸せになるんだ。
夜空は明け、かりそめの朝日が二人を照らした。
「お前もいつか、招かれた意味を知るだろう……」
女の独り言は柔らかい光に溶けて、消えた。




