第二十八話 西区の夜
西区の港近くは、夜になると空気が変わる。
昼間の喧騒は消え、代わりに湿った潮の匂いと、暗がりを行き交う影だけが残る。
ここに足を踏み入れる者は、二種類しかいない——仕事を終えた港の労働者か、法の外で動く者だ。
フードを深くかぶったミリアは、石畳を音もなく進む。
目指すのは倉庫街の一角、古びた三階建ての建物。
昼間は人気のないその倉庫が、今夜だけはわずかに灯りを漏らしていた。
——ここで間違いない。
建物の周囲には、二人の見張りが立っている。
ミリアは裏手の狭い路地へ回り込み、積み上げられた木箱を足場に二階の窓へよじ登った。
中からは低い声が聞こえる。
「……三日後、積み荷を出す。港の検査は例の男が通してくれる」
「支払いは?」
「レナ様の慈善団体から。表向きは寄付金だ」
ミリアは息を殺し、耳を澄ませた。
会話は続く——
「次は北部の孤児院経由だ。あそこなら誰も疑わない」
彼女はそっと革袋を開け、小さな魔道具を取り出す。
光を帯びた宝珠が、会話を録音するように淡く脈動した。
——これさえあれば、奴らの正体を暴ける。
だが、その瞬間——
「誰だ!」
背後で窓枠がきしむ音と同時に、腕を掴まれた。
ミリアは反射的に短剣を抜き、相手の腕を払う。
暗がりで光る刃——だが相手は予想外に素早かった。
「……やっぱり、あんたか」
低く押し殺した声。月明かりに浮かび上がったのは、レナの側近と噂される青年だった。
ミリアは何も答えず、窓から飛び降りた。
足首に鈍い痛みが走るが、構わず走る。
背後で足音が迫る。
——あと少し、港の方へ出れば……!
だが、路地を抜けた先に待っていたのは、予想外の人物だった。
「こんばんは、ミリア様」
灯火に照らされたその顔——セリーナ・ヴァルモンドが、微笑んで立っていた。