死者より愛を込めて
――どぼん、という水の音を聞いた。
全身が温かなもので包まれている。布のようなものじゃなく、まるで水みたいなもの。
全身がその水みたいなものに包まれているから、ふわふわとどこかを漂っている。気分はまるでお母さんのお腹の中にいる赤ちゃんみたい。羊水の中をふわふわと浮かんでいるのかしら。
一体ここはどこかしら?
ここに至るまで、何も思い出すことが出来ない。
ただ記憶にあるのは激痛に耐えて我が子を出産して、一度だけ抱いてあげたことだけ。それ以降の記憶は闇の中にある。私はどこで何をして、どうやって今まで過ごしていたかさえも分からない。
「おい、何してんだこんなところで!?」
「ふわあッ!?」
唐突に腕を引っ張られて、私は温かい水の中から息の出来る場所に放り出されてしまう。
目を開ければ、見覚えのない世界にいた。タイル張りの部屋はお風呂かしら、漫画とかで見かけたことのある猫足バスタブがあるわ。これを導入する人ってお金持ちぐらいしかいない印象だけれど、ここはお金持ちのお家なのかしら。
他にはシャンプーらしい瓶や化粧水とかの瓶がたくさん置いてある。見ただけでは分からないから、家主さんのこだわりが強いのね。ここの家主さん、美容意識が高いのかしら。
見たことのないお金持ちのお風呂の様子に感心してしまう私に、誰かの声が投げかけられた。
「お嬢さん、お前風呂で溺れてたんだぞ。もしかして転移魔法にでも失敗したか?」
「てん?」
私が振り返った先にいたのは、銀髪碧眼の女の子だった。
透き通るような銀髪はとても長くてお手入れが大変そうだし、青い瞳はまるで宝石のようだわ。お顔もお人形みたいで可愛らしくて、同じ女の子も嫉妬で狂うなんてことはなさそう。あんまりにも綺麗だから、私も思わずため息が出ちゃったぐらい。
その子は肩だけが剥き出しになった黒い衣装を着ていた。タートルネックのセーターにしては生地が薄すぎるし、カーディガンにしては袖がない。アクセサリーなどを身につけていないのに、黒い衣装だけでこんな綺麗になれるなんて凄いわ。
綺麗な女の子に見惚れる私に、彼女はこう言う。
「まあ、まずは服を着たらどうだ?」
「きゃあッ!?」
私は反射的に身体を隠してしまった。
だって何故か洋服を着ていなかったの。シャツもズボンもないのよ。ちゃんと身につけていたはずなのに、どうして今は全裸の状態なのかしら。
慌てて身体を手で覆い隠す私に、銀髪の女の子はバスタオルを差し出してくれる。ここにいるのが女の子だけでよかったわ。私の貧相な身体なんか見ても、男の子は気持ち悪がるだけでしょうけど。
バスタオルで自分の身体を包む私は、
「あ、ありがとうございます」
「災難だったな、魔法に失敗するなんて」
「まほ?」
魔法だなんて私は使えないわ。だってそれは、漫画とかゲームとかアニメの世界じゃない。
でも彼女は訳知り顔で「アタシもやったことあるし」なんて頷くものだから、否定できなくなってしまった。正直な話、私はここまでどうやって来たのかさえ分からないの。話を合わせていた方がいいのかもしれない。
銀髪の女の子はお風呂の外に向かって、大きな声で呼びかける。
「アイゼ、何かワンピースとか簡単に着れる服はあるか?」
「どうしたのかしラ♪」
「いや何か転移魔法に失敗したっぽい女の子が風呂場で溺れてたからさ。服を貸してやってくれ」
「あら大変♪」
女の子の呼びかけでお風呂に顔を出したのは、ハロウィンで見かける南瓜だった。
ジャック・オー・ランタンの擬人化かしら。南瓜で頭を覆い隠したそれは、とてもナイスバディな女の人だった。赤いドレスがとてもよく似合う大人の女性ね。まるで外国の人みたいに綺麗だわ。
南瓜で頭を覆い隠した女の人は、どこからか白い布の塊を取り出してきた。それを私に差し出して、
「ワンピースだから着れるはずヨ♪」
「下着も新しいのをやるから、それ着てろよ」
「何から何まですみません……」
私はとりあえず女の人から渡された白い布の塊を広げてみる。
それはまるでドレスのように綺麗なワンピースだった。袖や襟口にレースが縫い付けられていて、胸元には細いリボンまである。こんな清楚なワンピースなんて私に似合うかしら。
銀髪の女の子からも新品らしい下着を渡されて、私は何だか申し訳なくなってしまう。迷惑をかけてばかりだわ。
「あの」
「ん?」
「どうしたのかしラ♪」
「すみません、ここはどこでしょう?」
下着を身につけながら私が何気ない質問を投げかけてみると、銀髪の女の子は目を剥いて固まってしまった。南瓜で頭を隠した女の人も「あらマ♪」なんて驚いている。
「え? ここがどこだかご存知じゃねえ……?」
「はい、すみません……」
「え、じゃあ自分の名前は」
「名前……?」
私は首を傾げ、
「名前……何でしょう……?」
「嘘だろ記憶喪失!?」
銀髪の女の子は頭を抱えてしまった。
私は、私の名前を思い出せずにいた。溺れたショックがあるのか分からないけれど、頭の中に靄がかかったように大事なことが思い出せない。我が子を取り上げた時のことは覚えているのに――むしろ覚えていることはそれだけだった。
自分の名前が思い出せないなんて生活に支障がありすぎる。記憶喪失なんて他人事のように思えたのに、いざ自分がそうなってしまうと焦りも何もない。だって自分自身が分からないのだから仕方がない。
南瓜で頭を隠した女の人は、
「ユーリ、どうしましょウ♪」
「今日は大事な日だからなァ、あまり時間もねえし」
「大事な日?」
ワンピースへモソモソと袖を通しながら、私は問いかけてしまった。部外者なのに。
「実は嫁の親父さんが誕生日でな。誕生日パーティーを計画していたんだよ」
「今は準備中なノ♪」
「女の子なのにお嫁さん……?」
「女の子みたいに可愛い男の子のお嫁さん」
銀髪の女の子は、それはそれは嬉しそうに「ウチの嫁は世界で1番可愛いからな。旦那って呼ぶよりもやっぱり嫁って呼んだ方がしっくりくるよな」なんて言っている。そんなに可愛い男の子のお嫁さんなのだろう。そのお嫁さんはこんなに愛してもらえて幸せそうだ。
何故だろう、私もかつてこんな人がいたように思えてきてしまう。私もその人のことを思っていたけれど、もう顔が思い出せない。胸にぽっかりと穴が開いたようだ。
女の子は「よし」と言い、
「記憶喪失なら仕方がねえ。うちに置いてやるから誕生日パーティーの準備を手伝ってくれ」
「そ、それはいいんですが……」
私は恐る恐る問いかける。
「いいんですか? ご迷惑なんじゃ……」
「ただいるだけでご迷惑って訳ねえよ。そういうことは多少の問題行動を起こしてから言うんだな」
女の子は明るく笑い飛ばすと、私に手を差し出してきた。その手が妙に頼もしく見えた。
「さあ新入り、パーティーの準備を手伝ってくれ」
「は、はい!!」
私は言われるがまま女の子の手を取っていた。
☆
「ユーリぃ、あと天ぷらは揚げるだけだよぉ」
「パーティー会場の飾り付け終わった!!」
誕生日パーティーの準備をしていたのは、背の高い男の人と何だか元気な印象のある男の子の2人組だった。
背の高い男の人は見上げるほどの高身長で、鎧のような筋肉が特徴的だった。いかにも外国の人という雰囲気で、野生味のある顔立ちも相まってハリウッドスターか何かだろうかと錯覚してしまう。昔、誰かと一緒に見た映画で彼のような俳優が活躍していたなと思い出した。
一方で男の子の方は10代ぐらいだろうか。溌剌とした笑顔が素敵な男の子で、赤い髪と琥珀色の瞳が格好いい。男の人はハリウッドスターだったが、こちらは若手のアイドルを思わせる爽やかなイケメンさがあった。女性から毎日のように黄色い声援を投げかけられていそうだ。
その2人組は私の存在に気づくと、
「あれぇ、その人は誰ぇ?」
「知らない人だね!!」
「風呂場で溺れてたから助けた。記憶喪失なんだとよ」
銀髪の女の子が私の事情を説明すると、
「アイゼは飲み物の準備、ハルは食器を人数分だけ出しておいてくれ。エドはもう天ぷらを揚げろ、アタシは誕生日ケーキの準備をするから」
「はいよぉ」
「あいあい!!」
「分かったワ♪」
銀髪の女の子は次々と他の人たちに指示を出していく。凄い統率されているというか、この子たちの間には強い信頼関係のようなものが築かれているようね。私もこの子たちに混ざっていけるのか心配になる。
でも、私は何をすればいいのだろう。パーティーの準備は、あとは料理を用意する段階だ。私も一応は料理も出来るので手伝えるのだけど、何を作ればいいのかしら?
立ち尽くす私に、銀髪の女の子は「お嬢さん」と呼びかけてくれる。
「お嬢さんは料理とか出来るか?」
「あ、はい。あの、一応は……」
「じゃあエドの天ぷら揚げを手伝ってやってくれ。結構な量を作っちまったんだ。あと何か作れる料理があれば」
「は、はい!!」
エドさん、というとこの背の高い男の人かしら。この人もお料理が出来るみたいで、慣れた手つきで天ぷらを揚げている。
私の存在に気づいたエドさんは、銀灰色の瞳で私を見つめると「そっちのお皿の分を頼めるぅ?」と手付かずの皿を指差した。お皿にはまだ揚げられていない状態の海老の天ぷらが並べられている。
私はお皿を手に取り、
「菜箸はどこかにありますか?」
「サイバシ?」
「あ、えっと」
そうだった、外国の人に菜箸の説明をするのは難しい。エドさんも不思議そうに首を傾げていた。
だけど日本語が通じているのが不思議。きっとこの人たち、日本語がとてもお上手なのね。外国の人なのに難しい日本語をよく勉強しているわ。
私がどうやって菜箸を説明するかと頭を悩ませていたら、
「サイバシって長え箸のことだろ。樟葉姉さんが料理で使ってる」
「ああ、あれねぇ」
ケーキの土台らしいスポンジに真っ白な生クリームを塗りたくる銀髪の女の子に指摘され、エドさんは納得したように頷いていた。よかった、菜箸のことを知っていたみたい。
エドさんは戸棚から長い箸を取り出して、私に渡してくれた。竹製の菜箸のようで、よく使い込まれているのか先端が少しばかりボロボロになっている。
私は揚げられていない海老の天ぷらを、ふつふつと熱された油の中にそっと浮かばせる。油の海に飛び込んだ海老の天ぷらはじゅわッ!! と音を立てて泡に包まれた。
次々と海老の天ぷらを油の中に入れていき、私は菜箸で天ぷらの様子を確認する。入れたばかりだからまだ揚がるには時間が早い。
「手慣れてるねぇ」
「よく作っていたので」
――よく作っていた? 誰に?
記憶は朧げなのに、身体は覚えているのか菜箸で天ぷらの具合を確認する手つきには迷いがない。自分自身の行動に、私は少し困惑していた。
料理の腕には自信があるとは思う。けれど、天ぷらなんて一体誰に作っていたのだろう。
天ぷらの衣が黄金色になったところで油から揚げ、私はまだ揚げられていない天ぷらをまた油の中に入れていく。じゅわ!! という音を聞きながら、
「すみません、あと何品用意すればいいですか?」
「出来る限り種類は多い方がいいな」
「他の食材とか使ってもいいんですっけ?」
「何か他に作れるのか?」
銀髪の女の子に問われ、私は迷いなく答えていた。
「和食が得意です。夫が和食好きだったので」
☆
それから急いで何品か作り上げた。
「つ、疲れた……」
私は思わず床に座り込んでしまった。
天ぷらが揚がってからまだ時間もあるし、ということできんぴらごぼうやだし巻き卵などの料理も追加していたら調子に乗り過ぎてしまった。机の上には私が作った和食が数多く並べられている。
さすがにお魚でお刺身を用意する時間はなかったけれど、あの銀髪の女の子が手伝ってくれたおかげで茶碗蒸しを作ることが出来てしまった。雪の結晶が刻まれた煙管を一振りしただけで茶碗蒸しが蒸し上がってしまったので、あれは一体どんな仕組みをしていたのか。
気怠さを訴える手を振っていると、銀髪の女の子は「大丈夫か?」と気にかけてくれた。優しい子だわ。
「それにしても凄え種類だな」
「ちょっとはりきりすぎちゃいました……」
恥ずかしさを紛らわせる為に笑うと、ドタドタという激しい足音が聞こえてきた。
勢いよく扉を開けたのは、あの赤い髪をした男の子だ。息を切らせて部屋に飛び込んできた彼は明るい笑顔を浮かべていて、どこか嬉しそうな雰囲気さえある。
外で何かあったのかしら。駆け込んでくるぐらいだから大事件とかあったのかと思ってしまうのけれど、表情は嬉しそうなのよね。だから悪いことはないのかもしれない。
男の子は弾んだ声で、
「来たよ!!」
どうやら今日の主役が来たようだ。
「お、じゃあクラッカーの準備をしようぜ」
「大砲クラッカーでいいかねぇ?」
「思い切りぶっ放すよ!!」
「驚いてくれるかしラ♪」
「あ、ちょっと手を洗ってきますね。床を触った手でご飯を食べるのは汚いと思うので」
「洗面所はあっちの方向だからな。すぐに戻ってこいよ」
銀髪の女の子に許可をもらって、私は洗面所に向かう。土足で歩き回っている床を触っちゃったから、せめて手を洗ってからご飯を食べたい。
蛇口を捻れば、冷たい水が流れ出てくる。石鹸も使わせてもらって手を洗い、私はふと顔を上げた。
目の前にある鏡には、日本人らしい私の顔が映っている。そこまで美人でもないし、可愛い訳でもない。肩まで届く黒髪と黒い目、少し丸い顔が特徴の普通の顔だ。お人形さんみたいに綺麗な銀髪の女の子の隣に並んじゃうと、自分の地味さが目立ってしまう。
沈みがちな気分へ喝を入れるように、私は口の端を持ち上げて笑みを作った。
「うん、笑顔笑顔」
だって今日は誕生日、名前も知らない誰かの誕生日だけどめでたい日であることは間違いない。
その誰かの幸せを壊してはいけない。今日ばかりは笑顔でいなきゃ。
私が「よし」と頷くと、洗面所の外からズドンというお腹の底に響くような音が聞こえてきた。そして、他の人の明るい声が続く。
「誕生日おめでとう、親父さん」
「おめでとぉ」
「おめでとう!!」
「めでたいワ♪」
「おめでとう、父さん」
「全員で祝ってくれるのは嬉しい。ありがとう」
いけない、もう誕生日パーティーが始まっていたわ。急いで戻らなきゃ。
私は濡れた手を引っ掛けられていたタオルで拭いて、洗面所をあとにする。
誕生日パーティーの部屋に戻ると、床には紙吹雪やら紙テープが散らばっていた。鼻を掠める火薬の匂いはクラッカーを鳴らしたからだろう。誕生日パーティーを計画していた皆さんは、笑顔で今日の主役をお祝いしていた。
中心でお祝いされているのは、黒くて長い髪を持った男の人だ。黒い着物を身につけて、灰色の羽織を肩からかけている。女の人のように綺麗な顔立ちには嬉しそうな笑みが乗せられ、夕焼け色の瞳で皆さんの顔を見渡している。
「あ」
その顔を見て、私は思い出した。
最初に見た時、あまりの美しさに思わず「綺麗な顔立ち……」と呟いてしまった私に、少し驚いたような表情で彼は言った。
――綺麗、か。そう言われたのは初めてな訳だが。
私が告白をした時、いつもは変わらない表情を少しだけ嬉しそうに緩ませて彼は答えてくれた。
――ありがとう、私も君が好きだ。どうかその申し出を、受け入れさせてほしい。
どうしても彼と結婚をしたくて私が指輪を用意して結婚を申し入れた時、
彼は「そういうことは男から言うものだろう」と呆れていたけれど、彼の左手薬指の第一関節までしか入らなかった大きさの合わない指輪を嵌めて笑ってくれた。
――はい、喜んで。
お義母様から「結婚式は神前式にしろ」と強要されてウェディングドレスを諦めていた時、彼は自分の母親にも関わらず意見を突っぱねてこう言ってくれた。
――私は、君のドレス姿が見たい。一緒に選んでもいいかね?
そして、病弱な私が子供を産みたいと相談した時、私の体調を懸念して彼は難色を示すばかりだった。「病弱な君に妊娠・出産の強いるのは承服しかねる」と言う彼を何度も説得していくうちに、彼は覚悟を持って応じてくれた。
――分かった。君にその覚悟があるのならば、私も父親になる覚悟を決めよう。2人で、子に誇れるような親になろう。
優しくて、聡明で、誠実で、ふとした時の笑顔がとても可愛らしくて。
私にはもったいないぐらいの、最高の旦那様だ。
皆さんにお祝いされている彼が、ふと私の存在に気づいた。驚いたように赤い瞳を丸くしている。
記憶にある時から、随分と成長したように見える。私は完全に置いて行かれてしまったけれど、でも今日この時の奇跡に感謝をしたい。またこうして、愛しいあの人に出会えたのだから。
私はとびきりの笑顔で、大好きな人へお祝いの言葉を届ける。
「誕生日おめでとうございます、菊牙さん」
銀髪の女の子が何かを言うより先に、彼は大股で私に詰め寄ってくる。両腕を広げ、私の身体を思い切り抱きしめてきた。
私の身体を抱きしめる彼の手は震えていた。見れば、いつもは涙を流さないはずの彼の瞳が潤んでいる。珍しい光景に、私は思わず笑ってしまった。
泣くことと笑うことをごちゃごちゃにしたような複雑な表情を見せた彼は、
「また君を抱きしめることが出来て嬉しい」
☆
今日が誕生日であるショウの実父、アズマ・キクガの珍しい光景を前に、問題児は揃って固まってしまった。
何故かどこからともなく現れて浴槽で溺れていた女性がお祝いするや否や、キクガは大股で彼女に近づいて抱きしめたのだ。あんな熱烈な抱擁を息子であるショウ以外にするのは初めて見る。
ユフィーリアは「え?」と首を傾げ、
「親父さんの知り合い?」
「冥府の関係者かねぇ」
「誰だろ!!」
「キクガさんが嬉しそうだから混乱しちゃうワ♪」
「父さん?」
互いの顔を見合わせて問題児が混乱していると、ようやく気が済んだらしいキクガがユフィーリアたちへと向き直る。どうやら泣いていたようで、目が潤んでいるようにも見えた。
「みんな、情けない姿を見せて申し訳ない」
「いや、いいんだけど……」
ユフィーリアはキクガの隣に立つ女性を示し、
「知り合いっすか?」
「ああ」
キクガは女性の背中を支え、
「紹介しよう、妻のサユリだ」
「妻」
「そうだとも」
呆気に取られるユフィーリアをよそに、妻と紹介された女性が「ご挨拶が遅くなってしまい、申し訳ありません」と深々と頭を下げた。
「アズマ・サユリです。主人がいつもお世話になっています」
なんと言うことだろう、記憶喪失になっていたあの女性はキクガの奥さんだったのか。
それはつまり、ショウの実の母親である。話を聞いたところによると、彼女は病弱でショウを産むと同時に容態が急変して帰らぬ人となったとか何とか。
ユフィーリアたち問題児は慌てて、
「ここここここちらこそいつもお世話になっております!?」
「いつもご迷惑をおかけしてまぁす!?」
「ショウちゃんママってこと!?」
「素敵なサプライズゲストだワ♪」
「母さん……?」
ユフィーリアとエドワードは慌てて挨拶を返すし、ハルアは「ショウちゃんの両親が揃った!!」と小躍りし、アイゼルネはただ笑うだけである。この中で最も混乱しているのは実子であるショウだ。
何せ、母親には会ったことがないのだ。生まれて間もない頃に死んでしまい、母親との接し方など分かるはずもない。どう反応するのが正解なのか。
すると、キクガがショウを示し、
「サユリ、あのメイド服を着た子が私たちの息子のショウだ」
「まあ!!」
キクガの奥さん――サユリがショウに明るい笑顔を見せると、
「あんなに小さかった赤ちゃんが、こんなに立派に成長して……!!」
サユリは感極まって涙を流していた。産んでから離れ離れになってしまった我が子が大きく立派に成長している姿を拝めば、それはそんな反応もしたくなる。
「それから、あちらの銀髪の子がショウの旦那様であるユフィーリア君だ」
「あらぁ!!」
まさかユフィーリアまで紹介されるとは想定外である。親子の感動の再会を果たしておけばよかったのに。
愛息子の旦那様と紹介されたユフィーリアへ、サユリはキラッキラに瞳を輝かせて詰め寄ってくる。嬉しそうなのは分かるのだが、観察するのは居心地が悪い。
サユリはユフィーリアの顔を覗き込むと、
「さっき、お嫁さんのことを『可愛い』って褒めていたわよね?」
「あ」
「息子のことを可愛いって思ってくれているのかしら?」
「いやそれは当然なんですけど改めて言うと恥ずか――ちょ、指でツンツンしてくるな何なんだよ!!」
指先で脇腹をツンツンと突いてくるサユリからユフィーリアは逃げ回るのだった。
☆
愛しの旦那様が母親から逃げ回る光景を眺める父に、ショウはスススと近寄る。
「父さん」
「何かね」
「母さんのこと、今でも好きなのか?」
「当然だ。世界が終わり、私がこの世から消えるその時まで、生涯彼女を忘れることはない」
父親からの迷いのない回答に、ショウは「そうか」と応じる。
きっとこれは何かの奇跡だ。仕事熱心で、家族思いで、優しく厳格な父に対する神様からのプレゼントである。
接したことのない母親が今この場にいられるのも、ほんの僅かな短い奇跡だ。きっと明日になれば、母親はこの世界から消えてしまう。
だからせめて、今この時だけは。
「父さん、料理が冷めてしまう。作りたてだから早く食べよう」
「ああ、そうしよう」
「母さんも、いつまでユフィーリアを追いかけているんだ。父さんの誕生日なのだから、主役を置いて行ってはダメだろう」
「やだ、息子がキクガさんにとても似ている……!!」
キクガとサユリの子供として、父の誕生日を心の底から祝おう。
《登場人物》
【サユリ】生前は実家の和菓子屋に勤めていた女性。病気がちだが明るく笑顔が素敵と評判で、愛想の良い看板娘だった。料理の腕前は一級品で、特に和食を得意とする。趣味はプロレス観戦、特技は料理、夫のキクガにも内緒にしていることは猟銃の免許を持っていること。
【キクガ】サユリの夫で、ショウの父親。厳格で生真面目な性格をしているが身内にはとにかく甘い。天然な部分も持ち合わせ、真面目な顔でボケることが多数。妻の料理で好きなものは天ぷらと茶碗蒸し。
【ショウ】キクガ・サユリ夫妻の実子。9割父親、1割母親に似ていると評判。見た目と頭の良さ、身体能力は父親似。笑い方と愛情表現、喋り方は母親似。それ以外は両親のいいところがいい感じに混ざった。
【ユフィーリア】嫁の父親の誕生日をお祝いしていたつもりが、まさかの嫁の母親の登場で混乱。だし巻き卵の美味しさに感動して作り方を教えてもらった。
【エドワード】弟分として可愛がる後輩の母親が登場して驚き。茄子の煮浸しの美味しさに感動し、ちゃんと作り方を教わった。
【ハルア】後輩の母親が登場して驚いたが、後輩が嬉しそうなので自分も嬉しい。母親の存在を知らないので、ちょっと後輩が羨ましい。
【アイゼルネ】後輩でありお茶の弟子でもある後輩の母親がまさかの登場で驚いた。茶碗蒸しの上品な味わいに感動した。こんな優しい味の料理は初めて。