動き出した探偵
次の日の夜明け。龍はまだ鳥も鳴き始めぬ頃から、むくりと起き上がった。あの後、あっさり眠りに落ちた自分が不思議だった。感情が焼き切れたようになっているのが、かえって良かったのかもしれない。
窓から外を見る。ようやく登り始めた太陽が、遠い山並みの頂上を赤く照らしている。どこからどう見ても、落ち着いた町にしか見えない。あんな予期せぬ事件があったというのに。
「おはよう」
「おはようございます」
宿の食事は変わらず美味だった。しかし食事を楽しんでいるのは龍だけで、何人か、荷物をまとめて宿を出て行く客の姿が見える。おかみさんの笑顔がぎこちないのは、それが理由だろう。
見かけ上ののんびりした雰囲気すら失われていた。治安が悪くなっているのを、自分の身で実感することができた。龍も、事件がなければここで過ごそうとは思わないだろう。
とりあえず、誰かに話を聞こう。龍は、前方でなにやら相談している男性たちをターゲットにすることにした。彼らも自警団なのか、剣や弓を手に持っている。
「すみません」
「はい?」
男たちは言い合っていた口をつぐみ、怪しむ目で龍を見た。
「ベルトランの居場所を聞きたいのですが」
「……なんでそんなことを聞きたいんだね。あんた、外の人だろう。悪いことは言わんが、無茶はするな」
昨日の件で有名になったのか、すでにある程度素性は知れているらしい。でしゃばりと思われているのか、小面憎そうにねめつけられた。
だが、聞きたいのはそんな台詞ではなかった。じれったかったので、龍は地面に銃弾を一発撃ち込んでやる。
「うわっ!」
駆け出し、あわてる彼らを尻目に、龍は冷ややかに言った。
「私の身元を知りたいなら、宿のおかみさんに聞いてください。さっさと教えて、ベルトランはどこにいますか」
急に話す気になったらしい。龍に情報を伝え、男たちはそそくさと仕事に戻っていった。
よく見ると、制服姿の男も街で動き、にらみをきかせ始めている。軍か警察か。抑止力があるなら、集まった人々も無茶はすまい。
龍はその制服の中にベルトランの姿がないか目をこらした。
「ベルトラン!」
仲間と馬で先を急ごうとしていたベルトランだったが、連れに軽く一礼してから引き返してきた。龍の顔を見て、安堵したように息を吐く。
「……良かった。昨日の今日でしたので、休んでおられるかと」
「寝てなんていられません。事件解決に必要なことなら、なんでもします」
「勝ち気な方ですねえ……そろそろ検死も終わった頃ですから、病院に行ってみますか?」
「是非」
わずかに見える峰を見ながら、龍はベルトランについていった。疾走とまではいかなかったが、それでも山道よりは遥かにスムーズな走りだ。慣れればうまくやれるタイプらしい。ベルトランと一緒だと、行き交う自警団も無遠慮な視線は向けてこなかった。
広場を抜け、坂道を駆ける。そうやってベルトランが連れてきてくれたのは、大きな建物だった。装飾はなく、簡素な窓と正面の鉄扉があるだけ。人通りもほとんどなかったが、入り口の剣を携帯した門番は緊張した面持ちだった。
建物の中に入っていくと、外とは逆に人でごったがえしている。いくつか、新聞社らしき腕章も見かけた。人の群れを分けるようにして奥へ進むと、縦に長く伸びる廊下があった。廊下の両側には扉が並んでいる。そこが手術室だと、ベルトランは言った。
「検死は昨日のうちに終わったようです。以前一緒に仕事をしたことがある医師なので、頼めば資料を見せてもらえそうですが……どうします?」
「お願いします」
龍はまた、きっぱりと言った。
ベルトランは左側の一室の扉を叩く。その中から、「どうぞ」と低い声が聞こえた。
一瞬、手術台と死体を想像し困惑したが、室内は単なる図書室のようで、棚には大量の資料が並び、その中央に閲覧用の机と椅子がある。
そこにいた医師はいかにも有能そうな、触れれば切れそうな雰囲気を持つ痩せた老人だった。彼はふわりと白衣の裾をひらめかせ、こちらに寄ってくる。
「よう、まだ生き残ってるのか。へっぽこ」
本当に知り合いらしく、医師はベルトランに遠慮のない物言いをする。
「へっぽこは失礼だなあ」
「事実だろうが。お前が入隊して十年、ひやひやさせられっぱなしだ。……おや、こちらの方は?」
龍に気づいた医師が、格段にかしこまった様子になった。
「そういうことでしたら、分析結果をお見せします。もちろん、我慢できなくなったらすぐおっしゃってください」
「それで結構です。よろしくお願いします」
龍が言うと、医師はすぐに書類を出してきた。卓を指さされたので、龍とベルトランは椅子に並んで腰掛ける。
医師は二人の向かい側に座り、こう切り出した。
「こちらが眼球の検査結果。わずかですが血液の付着と、生体反応がありました。間違いなく、生きた状態で眼球が摘出されたのです」




