2 出発
爽やかな新緑の美しい晴れの日、私は北の隣国テナール王国へ向けて出発した。
「絶対に癒し手の事は秘密にして力も使ってはいけない。いいね。」
お父様から何度も念を押されたけれど、今まで読んだ物語では「絶対してはいけない」は必ずやる羽目になる場合が多い気がした。
「はい、癒し手は知られないように努力致します。」
そうならないことを願いながら別れの挨拶をした。
テナール王国までは馬車で三日かけて国境へと向かい、国境からはテナール王国の馬車に乗り換えて、更に三日かけて王宮に到着する予定らしい。
馬車の窓から景色を眺める。初めて間近に見た賑やかな王都に感動して、でも見納めなのよね、とガッカリする。
王都を抜けるとひたすら川沿いの道を進む。
その時、同乗していた専属侍女のミアが教えてくれた。
「この川の上流から毎年冬に幸福の花が流れて来るのですよ。」
「ああ、我が国にはないあの青い花ね。王宮から出られない私の為に皆がプレゼントしてくれたのよね。」
半年も枯れないその青い花は人々を笑顔にするとして、いつしか幸福の花と呼ばれるようになったらしい。
毎年プレゼントされる幸福の花で私室の花瓶がいっぱいになったのを思い出して思わず笑顔になった。
馬車で王族が所有する別荘に泊まりながら国境を目指す。
のどかな田舎町が続き、農場や牧場を通り抜け、更に北へ進むと鬱蒼とした森が見える。
昼間でも暗い森を中程まで行った場所がセーラン王国とテナール王国の国境線になっていた。
確かボナペ辺境伯が国境警護に当たっていると記憶している。
森を二分する国境線は障気と関係がある。
セーラン王国の森は障気が発生しないので、魔物がほぼ発生しない。
対してテナール王国の森は障気が濃いので、魔物が多発する。
歴史書によると、人間は魔物が多発する障気の濃い危険な森をわざわざ開墾しようと考えなかった。
しかし、人間に迫害された獣人達は人間を避ける為に、敢えて魔物が多発する障気の濃い森に国を造り、魔物を食する事で命を繋ぎ繁栄した。
そのように記されてあった。
「そろそろ国境かしら。」
私の呟きにミアが反応した。
「今更ですが、リーリス様は野蛮人の獣人が恐ろしくないのですか?」
「無いわ。幼い頃、獣人男性に庭園で会った事があるの。全然怖くなかったし、とっても優しい方だったわ。しっぽを触らせて貰ったのよ。ふわふわで気持ちいいの。それに、また合う約束もしたのよ。」
「え!?いつそんなコトしてたんですか?初耳です。」
「ミアとかくれんぼしていた時。」
「あー……そうでした。あの時のリーリス様はちょっと目を離すと、すぐに居なくなって、よく探し回っておりました。」
ミアに遠い目をされた。
「でもその後、引きこもり生活をしなければならなくなったでしょう?結局約束は守れなかったわ。」
随分と前だから、もう顔もよく思い出せないけれど、獣人で王宮に招かれるなんて外交官位しかいない。だから、彼は外交官だったのだろう。
三日はあっと云う間に過ぎて行った。
国境の指定された場所にたどり着くと、テナール王国の騎士や従者が一列に並んで待機していた。
護衛騎士にエスコートされて馬車を降りると、先頭の騎士服を身に纏った獣人男性が、五名の獣人を連れて、こちらに歩いて来るのが見えた。
五名は先頭の男性とは違うデザインの騎士服を纏った男性二名、侍従らしき女性二名と男性一名。
先頭の男性は長身で、鍛えられて引き締まった体格の良さが騎士服を着ていても、ひと目で分かった。
黒い獣耳としっぽがあり、髪は漆のように艶やかな黒色でシャンパンのような黄色い瞳をしている。
涼しげな切れ長の目とスッと通った鼻筋、キュッと引き結んだ口元が印象的な美しい男性だった。
「お初にお目にかかります。テナール王国第三王子、ヒョウの獣人、グレーシスです。此方は王女殿下専属護衛を務めるサンセとシュナイザー。専属侍女のマイとメイ、王宮医師のクレインです。以後お見知りおきを。」
護衛二人が敬礼し、侍女や王宮医師が頭を下げた。
王女がへりくだるのは良くないので、「宜しくね」
とだけ言って笑顔で頷いて応え、グレーシス殿下に向き直り丁寧に淑女の礼をして挨拶をした。
「お目にかかれましたことを光栄に思います。セーラン王国の王女リーリスでございます。どうぞリーリスとお呼び下さいませ。これから末永く宜しくお願いいたします。」
「……それではこれから荷物の積み換えを行います。我が国の馬車まで案内致しますので、出発まで馬車内でお待ち下さい。セーラン王国の方々とはここでお別れとなります。宜しいですね。」
テナール王国への入国は婚約者一人だけしか許可出来ない。テナール王国側が出した結婚における条件の一つだった。
「はい。承知しております。」
グレーシス殿下の言葉に頷いて、三日間、国境まで共をしてくれた従者達に向かって淑女の礼をした。
ミアを始め、別れを惜しんで悲しい顔を浮かべる従者達につられて、泣いて仕舞わない様に淑女らしく笑顔を作る。
そして、セーラン王国の従者達を背にして気持ちを切り替えた。
今から私はテナール王国の人間になるのだ、と。
エスコートの姿勢を取ったグレーシス殿下の腕にそっと手を伸ばした時、気が付いた。
そう言えば、護衛とお父様やお兄様以外の独身男性に触れるなんて初めてだわ。あら?急に恥ずかしくなってきたかも。え?手が震えてきた。どうしましょう、変に思われていないかしら。
不安になってちらりとグレーシス殿下の顔を見上げて、すぐに俯いた。
ううっ、予想以上に美形だわ…。しかも可愛らしい獣耳としっぽまで付いている。こんな素敵可愛い方が夫になるだなんて。夢なのかしら。
「何か?」
グレーシス殿下の声に再び顔を上げて、なるべく平静を装って答える。
「あ、いいえ。何でもございません。」
「……そうですか。具合が悪いようでしたらすぐにおっしゃって下さい。」
ああ、そうだった。私は病弱設定にされていたのだったわ。本当はすこぶる元気なのに心配をかけてしまった。
「お気遣い有り難うございます。本当に元気なので大丈夫です。」
「……それなら良いのですが。」
グレーシス殿下は無愛想だけれど言葉遣いは丁寧で体調を気遣ってくれる優しさがある。
エスコートする時の身のこなしは品があるし、身長の低い私に歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれたりと紳士的だった。
魔物の肉を食べる獣人を人々は、野蛮人だ。なんて言うけれど、野蛮人とは思えない程洗練された美しい所作が身に付いていると分かる。
それは紹介された護衛騎士や侍女、王宮医師にも感じられた。
グレーシス殿下にエスコートされて馬車に向かっている最中に、ふと頭を過る。
「獣人さんが野蛮人だなんて真っ赤な嘘よ。皆にそう伝えて頂戴。」
すぐさま振り返ってセーラン王国に戻る従者達に声を大にして言ってしまいたい衝動にかられた。
駄目よ駄目。大声なんて王女として、はしたない真似は出来ない。私はグレーシス殿下の妻になるのだから、我慢よ我慢。
思わずため息が出てしまった。