その三
すっかり日が暮れた楽園で、闇に溶け込んだ黒犬が、頭とチョウキを待っていた。
「頭、そろそろ戻ろう。それとも、死者の国の居心地が悪いのか?」
頭は、黙ってフウガを見詰め、やがて重い口を開いた。
『我は、ニンゲンに父母を、兄弟を殺された。あやつらは一匹では何も出来ぬくせに、集団になると好き放題をする。住処を追うだけでは飽き足らず、道具を使って大勢で我等を嬲ったのだ。我等がニンゲンの獲物を奪うからか? そんなのはお互い様であろう。
打ち殺された父母の体は火にくべられた。食うでもなく、面白半分に燃やされたのだ。兄弟達は身体を持ち去られた。まだ子犬だった我が助かったのは、偶々運が良かっただけだ』
そして、哀し気に呟いた。
『死者の国で父母達を捜してみたが、皆、既に生まれ変わっておった。それならそれでと……いや、それはまあよい』
「それを確かめる為に、死者の国に逝ったのか?」
『……そうだ。だから、彼等の行く末を知った今、ニンゲンも等しく扱う場所になど、逝くつもりはない』
〈本当に、それだけですか?〉
それまで黙っていたクウガが、口を挟んだ。
『なんだと? 小僧、我がそらを言っているとでも言いたいのか』
〈嘘とは言ってません。ただ、他の理由もあるんじゃないかと思っただけです〉
「なんでそう思うんだい、少年?」
〈脱走に至るまでに、時間が掛かり過ぎてます〉
「でも、頭じゃ死者の国の入国記録を調べられないだろ。あそこは地上と同じ位広い。手掛かりもなく誰かを探すとなると、下手したら百年以上掛かるんじゃないか?」
フウガが指摘したが、クウガはそれを否定した。
〈確かに、普通なら、凄く時間が掛かると思う。でも、お頭さんは嗅覚を残してる。それも、肉体を持たない魂でも嗅ぎ分けられる程の嗅覚だ〉
確かに、楽園での再会時、頭は茂みに隠れていたフウガとチョウキの存在のみならず、姿の無いクウガの存在にも気付いていた。
『…………』
〈死者の国は広いけど、似通った魂達は集まって暮らしてるだろ? もし、集団を一つの魂として捉えることが出来るなら、効率がずっと良くなる〉
「つまり、探す相手の匂いに近い集団を見付けて、そこを重点的に調べればいいってことかな?」
〈時間に猶予が無いかもしれないなら、俺だったら、まずそれを試してみます〉
「そうなのか、頭?」
『…………』
口を閉ざしたままの頭に、クウガは続けた。
〈それは成功した。そうですよね? だから、お頭さんは、他にも探すことにしたんじゃないでしょうか?〉
『黙れ』
「探すって、誰をだい?」
〈例えば、群れの仲間で……〉
『黙れ、小僧! たかがニンゲンの分際で、気安く呼ぶなと言うたであろう!』
イライラと牙をむく頭に、フウガが低い声で応じた。
「じゃあ、何て呼べばいいんだ。頭の名前なんて、俺だって知らないぞ」
フウガは、金色の瞳を光らせ、野生を覗かせた。
「頭こそ、俺の相棒を小僧なんて呼ぶな。クウガはちゃんと名乗った。名前で呼べ。いい加減、俺も怒るぞ」
日頃の大らかで飄々とした空気は消え、決意を滲ませる獣の姿は、チョウキに感銘を与え、クウガを珍しく慌てさせた。
「今、ワンコ君なんて気軽に呼んだら拙いよね、きっと」
〈フウガ、大丈夫だから! 俺は、何て呼ばれても気にしないから!〉
常ならクウガの意思を尊重するフウガが、譲らない。
「お前が気にしなくても、俺は気にする」
フウガもクウガも、お互いの過去を詳しく知らない。
今でこそ、クウガが幼くして両親を亡くしていることや、フウガが群れを離れた理由は互いに知ってはいるが、態々話し合ったことは無かった。その場の流れで生前の話が出る事もあるし、隠している訳でもないのだが、特に知る必要があるとも思わない。魂が近すぎて、今更気にならないと笑うクウガに、フウガも同意だった。
フウガと出会った頃のクウガは、運命と戦えるようになろうと、足掻いていた。子供で居られる時間など殆ど経験出来ず、まだ一人前と扱われることも無く、それでも自分と周囲の人の為にと、早く大人になろうという覚悟があった。知恵を絞り、流されないよう、生きる術を掴むことに必死だった。
それでも、何の所縁も無い野良犬を救ってくれたのだ。見返りも求めず、まだ華奢な手を差し伸べた。
共に生きた時間は僅かだったが、魂が触れ合うには充分だった。
鼻に皺を寄せ、低く唸る。そして、頭にきっぱりと告げた。
「あんたは俺にとって、永遠に尊敬する頭だ。だが、クウガを侮ることは許さない。
クウガは魂の片割れだ、俺の一部だ。俺の誇りだ! 元がどんな生き物だろうが、関係ない!」
頭はフウガを眩しそうに見詰めていたが、何かを振り払う様に身体を数度震わせると、気迫を込め言った。
『おぬしらは、我を連れ戻しに来たのであろう? それとも、出奔の理由を知りたいのか? 我との勝負に勝てばどちらも叶うぞ。出来るものならば、だがな』
〈駄目だ、フウガ!〉
「悪いな、クウガ」
フウガも手足に力を込め、頭を睨む。二匹の獣は、互いに牙を剥いた。
頭は、魂となってから、久しく忘れていた緊張と興奮に溺れそうになる。互いをゆっくりと廻り、距離を少しづつ縮め、飛び掛かる隙を伺う。
もう、あと、半歩――いまだ!
頭がたわめた脚を伸ばし、目標に飛び掛かろうとした瞬間、その出鼻をチョウキがあっさり挫いた。
「勝負にならないよー。見習いとはいえ、神力を持ってるワンコ君の方が確実に強いし。かすり傷一つつけられないと思うよ。それに、契約上、神が魂を故意に傷つける行為は原則禁止だもの。当然、ワンコ君にも適用されてるよ」
「何でばらすんだよ。攻撃受け流し続けて、消滅寸前まで疲れさせてやろうと思ってたのに」
チョウキは感心した。まともに契約内容を覚えていたことも然る事ながら、フウガなら、何も考えず真正面から頭に挑むだろうと懸念したからこそ、割って入ったのだ。神の力で体当たりでもしようものなら、普通の魂は一瞬で消滅してしまう。
冷静と計算はクウガの専売だと思っていたが、フウガもなかなかどうして、意外な顔を持っていることを知る。
「結構、えげつない方法考えてたんだねえ」
「クウガも俺も、カミサマになる為に毎日頑張ってるんだ。俺がクウガの足を引っ張る訳にはいかないだろ。でもな、頭のあの態度は、やっぱり許せない。だから、間を取って消滅寸前に追い込もうと思ったんだ。
そりゃあ、真っ向勝負のほうがすっきりするだろうし、負けるつもりもないけど、そもそも、獲物を前に我を忘れるようでは駄目だって、頭が教えてくれたんだ」
「どう間を取ってその結論だったのかは解らないけど、そんな訳で、頭さん、少し冷静に……」
獣は、獰猛に唸り続けている。
忘れかけていた本能に中てられ、新たな希望を手にした嘗ての仲間は眩しく、どうしようもない己の状況に苛立ち、頭は感情を爆発させた。
『驕るのも大概にせい! ニンゲンもカミも知ったことか。我は屈せぬ。認めぬ。その小僧も、カミも、その力も、マックロも、認めヌ、ミトメヌ、ミトメヌミトメヌミトメヌ……』
「頭? どうしたんだ?」
〈きっと、暴走しかけてるんだ!〉
クウガが、焦りを滲ませ叫んだ。
実体という枷から解き放たれた魂は本質を顕にし、それ故に、少しの刺激で容易く暴走に至る。暴走した魂は、保護されるまでに傷付いている事も多く、傷が深い程癒えるまで時を要する。チョウキが「迷子を出さない」ことを制度として整えたがっている、最大の理由だ。
ある意味ゆったりとした、魂だけが暮らす死者の国と違い、地上は刺激に満ちている。触れただけで消滅してしまいそうな程衰弱した魂や、彷徨い続け、暴走し、見ていられない程に傷付き苦しむ魂を保護したこともあった。永らく彷徨ったクウガとフウガの魂が、癒着している以外無傷だったのは、無意識に互いを護り補完しあっていたからだが、幸運に因る処も大きかったのだろう。
目の前で暴走しかけている魂は、チョウキの使命感を強く刺激した。強く瞬きながらフウガに指示する。
「ワンコ君、お頭さんを止めるんだ。ただ止めるだけじゃ駄目だ。魂が納得するよう、正面から行くんだ」
「止めろって言ったって」
「多少のことには目を瞑るって言ってるんだよ。出来るんだろう、少年」
クウガの能力を確信しているチョウキは、迷いの無い声で促す。
〈出来ます! フウガ、お頭さんを止めてあげて! 力は、引き受ける!〉
急速に神力が薄れ始め、フウガは、神候補から素の魂に変化した。フウガの神力は、余さずクウガに取り込まれていた。
フウガは頭から一時も目を離さず、身の内の相棒を案じる。
「クウガ、大丈夫か? すぐ終わらせるからな」
クウガは、己とフウガの神力を完全に抑え込み乍ら、余裕を感じさせる声で答えた。
〈俺は全然平気。フウガ、お頭さんは頼んだ〉
「任せとけ。
頭、あんたとやり合うのは初めてだけど、カミの力なんて無くても、俺が勝つからな。恨むなよ?」
頭に僅かに残った理性は、ドロドロとした、熱い塊のような心に呑み込まれる寸前だった。もはや、目の前の黒犬は敵にしか見えないのか、フウガの声に応えず唸り続ける。
予備動作も無く、頭が跳躍した。頭を下げ、手脚に力を溜めていたフウガの首筋を狙い、頭は大きく口を開ける。頭の牙が捉える寸前、フウガは横に飛んでそれをいなす。ガチッと音を立て、頭の牙が空を噛んだ。一瞬、動きを止めた頭に、今度はフウガが横から飛びかかる。頭は、その動きを読んでいたように、素早く後ろに飛びのいた。
直前まで頭が居た空間を、フウガが切り裂く。着地した勢いを利用し、頭に向けて再び飛びかかったが、寸前で躱され、着地したその脚で前方に飛ぶ。たった今フウガが踏み切った場所では、頭が牙を打ち鳴らしていた。
巧みに攻守を入れ替え、二匹は戦い続ける。
永遠に続くかと思われたそれに、次第に偏りが現れ出した。フウガの攻撃を躱す頭の速度が、目に見えて落ちる。フウガの猛攻に飛びのいた頭の脚がふらついた。その機を逃さず、フウガは頭の背に向け高く飛ぶ。フウガの牙が届くかと思われた刹那、頭の濁った眼が鈍く光った。ふらついていた筈の脚に力を籠め、無防備になったフウガの腹に素早く踏み込む。
凶暴な牙を埋めるべく開かれた口を間一髪で躱し、フウガは飛び退き頭から距離を取った。
「危なっ! 弱った振りか」
罠を切り抜けたフウガに苛立ち、頭はガチガチと牙を鳴らす。
宵闇に、再び二匹の獣が躍る。空が濃紺から薄紫に色を変えても、二匹は戦い続けていた。
完全に夜が明け、楽園の木々がくっきりとした影を足元に落とす。その影が最も短くなった頃、今度こそ本当に、頭に疲れが滲み始めていた。攻撃を躱し、飛びのいた脚が縺れる。フウガはそれを見逃さなかった。
頭の横から体当たりし、完全に体制を崩した背中から項を狙う。フウガの牙が届く寸前、頭の身体が、天を仰ぐように傾ぐ。
フウガの牙の先に、頭の喉元が差し出されるように晒された。
「きゃーっ!」
無防備な喉笛を切り裂く髪の毛一本のぎりぎりの処で、凛とした声が響く。
〈待て!〉
フウガの動きが、反射的に止まる。
〈よし!〉
すかさず、足元に崩れ落ちた頭の体を身動き取れないように押さえ込み、緊張を解いた。
「ふー。急に倒れるから、危なく噛み砕く処だった。
て言うか、きゃーって。何て声出すんだ、チョウキ様。びっくりして、変な力が入ったじゃないか」
「俺じゃないよー」
「私です」
マイアが、フウガ達に駆け寄ってきた。
「あれ? いつ来たんだ? 頭に気を取られてて、全然気付かなかった」
「ついさっきです。私も貴方達に色々聞きたいことはありますが、それよりも先に、やることがあるわね。お退きなさい、私がその子を診ましょう」
横たわる頭に膝枕をし、マイアは注意深く、ゆっくり頭の身体を撫で始めた。優しく撫でられる度、頭から狂気と緊張が解けていく。
やがて、マイアは、見守るチョウキとフウガに安堵した声で告げた。
「大きな傷もないようだし、疲れで倒れたのでしょう。後はゆっくり休ませてあげれば、大事に至ることもないわ。え、暴走? 少なくとも、今はしていないわよ。
それよりも、この子がお頭さんね? 神様候補が、普通の魂に噛みつこうとするなんて! チョウキ様もクウガも、何故止めなかったのですか!」
まだ、ぐったりとしている頭を撫で続けながら、マイアは声を荒げる。フウガはそっぽを向き、ぼそぼそと言い訳をした。
「チョウキ様ニ、ヤレッテ言ワレマシタ」
〈フウガノ言ウ通リデス〉
「本当なんですか、チョウキ様!」
「あ、狡いぞ、ワンコ君、少年! 違うの、頭さんの暴走を止める為っていうか、野生の掟? っていうか? 漢と漢の友情っていうか?」
彼等がマイアに言い訳をしていると、閉じられていた頭の目が薄っすらと明き、まだ焦点の合わない目に、心配そうに覗き込む面々がぼんやり映る。何とか起きあがろうとする頭を、マイアの手が優しく制した。
「急に動いてはいけませんよ。もう少し、身体を休めなさい」
頭は薄目でうっとりとてしていたが、己が見知らぬ女神に膝枕されていることに気付くと、今度こそ慌てて飛び起きた。
『そうか、負けたのだな……我ながら、鈍ったものだ』
「確かに、あの頃の頭だったら、こんな直ぐにへたれなかったかもな。それに、俺は、今でも毎日鍛えてるからな。負けないって言っただろ? カミサマ修行は、結構大変なんだぞ。それより、痛い処はないか?」
頭は、苦笑するように『お陰様でな』とフウガに答え、マイアの前に身を伏せた。
『どうやら、お嬢さんの手を煩わせてしまったようだ。見苦しい姿、お目汚しで申し訳ない。いや、詫びもそうだが、礼が先か。ありがとう、美しい水のお嬢さん』
「思ったよりも元気そうで良かったわ。でも、お礼なら、私ではなくクウガにお言いなさい。あの子が止めなければ、消滅する程の傷を負っていたかもしれなくてよ。
それにしても、驚いたわ。貴方には私の性質が判るのね」
『貴女からは、柔らかで涼やかな水の匂いがする。我等が抗えない匂いの一つだ。判じ違える訳が無い』
頭とマイアの遣り取りに、チョウキが思わず呟く。
「あれ? 俺の時と、随分態度が違うような……?」
「ん? そうか? 頭は、ニンゲンや獲物以外には、割とこんな感じだぞ。
それより、頭、マイアはカミサマだ。それに、人型だぞ。いいのか?」
『マイア殿、と言うのか。我には、マイア殿からは、心惹かれる水の質しか感じられん。貴女なら、例えどんな姿であろうと、美しく見えるだろう』
マイアは微笑んだ。
「フウガ達に聞いていた話より、貴方は随分と紳士ですね」
「ねえ、俺は? 俺も神様だし、しかも、人型でもないよ? 何ならマイアちゃんの上司だし、もっと尊敬してもいいんだよ?」
起きあがった頭の身体を撫で続けるマイアと、満更でもなさそうな頭、そして、その周囲を落ち着きなく飛ぶチョウキに、フウガは呆れを滲ませた。
「頭、言い方がくどい。だから爺臭いって言われるんだ。マイアも、いちいち相手しなくていいんだぞ。それより、どうしたんだ? まだ休暇中だろ? まさか、頭の脱走が誰かにばれたのか?」
〈それなら、もっと慌ててないかな?〉
クウガの声に、頭は耳をぴくりと反応させたが、それ以上は唸ることも無かった。
「私も、お頭さんと話をしに来たのです」