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「精霊王様、あの時はありがとうございました。私はこうして無事にジュノーの地を踏むことができました。それもこれも、すべて精霊王様のお力あってのことです」
『いいや。すべてはエリーの命力があってのこと。お前が望まねばその力は霧散し、妾は何もできぬまま、また眠りにつかなくてはならなかった』
性差の見えない美貌に憂いの陰が差し、辛い予測が告げられる。
それを聞いて、私はようやく大公殿下やジャルジェ伯父の焦りを理解した。
私があの時すべてを諦めて、身近に迫った死を迎え入れてしまっていたら、この方はまたジュノーの血を持つ女性の中で眠りにつかなければならないのだ。
ジュノー領内に候補者がいればまだいいが、私や母のように外に出てしまっていれば儀式を行うまでがまた遠くなる。
『ジュノーの地で力を蓄えねば、妾は選びし娘を護ることさえ無理になる』
「私にくださった助力すらも、ご無理をおかけしてのことだったのですね」
『アラベルが――お前の母が願った。自分には構わず、娘を救って欲しいとな。だから、妾の力はどうにか持ちこたえた。母の愛に感謝するのだよ?』
「――はい」
『なれば、そろそろ盟約の儀を行おうか』
私は精霊王の導くまま立ち上がり、ふわりとひるがえった純白のマントの後を追った。
乳白色の光に満ちた空間を静かに進むと、やがて何本もの太い蔦が複雑に絡まって高みへと伸びる緑の塔のもとに辿り着いた。
他には何も見当たらず、他の植物すらまったくないのが不思議だった。
ぼんやりとした光の中に沈んでいた塔の細部が、近づいた分だけ明らかにある。
「あれは――デュプリオレ!」
思わず足を止めて、蔦のに埋め込まれた巨大な青い精霊石を見上げた。
名は知っていても現物を目にするのは初めの上に、その大きさに圧倒され、何よりも本当に存在していたことに唖然とした。
ポカンと口を開いて見蕩れていたらしい私の耳を、密かな笑い声がくすぐる。急に恥ずかしくなり、赤らんでいるだろう頬を両手で押さえて走り寄った。
「も、申し訳ありません!」
『よいよい。しかしあれが精霊石だと、よう知っておったな?』
「幼い頃、よく母にお伽噺を聞かせてもらったのですが……その中に出てきたのです」
『ああ……そうであったな。あの娘は、そんな悪戯をようしておった……』
「今思えば、僅かでも私にジュノーの秘話を伝えようと思っていたのかもしれません」
『なるほどのう……。では、始めようぞ。手をここに』
精霊石の前に私たちは立ち、精霊王の指示で精霊石の表面に手の平を恐るおそる押し付けた。
間近で見る精霊石は馬車の車輪ほどの大きさで、青く見えていたのは、さまざまな色が石の中をゆらゆらと巡っているからだった。
それはまるで、色とりどりの魚たちが泳ぎ回っているようで、物語の中に出てくる、海という果てない湖の底からの眺めに思えた。
『エリーよ。お前の命尽きるまで、妾と共に在ることを望む。代償は精霊王の加護。お前を護り、お前に知恵を授け、お前の願いを叶えよう』
縦長の黄金が、私を凝視する。翠の虹彩に、緊張した私が映っている。
「その望み、お受けいたします」
からからに乾き切った喉から、思いのほかはっきりとした声が出たことに驚いた。
微笑の精霊王の唇が、私の額に口づけを落とす。
精霊石から手のひらを伝って腕を通り、私の中のどこかへ何かが流れ込んでゆく。温度も抵抗も感じず、時おり腕のあちこちや首筋辺りがぴくりと跳ねた。
それが妙にくすぐったくて、感じるたびに首をすくめた。何かが注がれるたびに全身に力が満ち溢れ、爽快感が背筋を突き抜る。
ああ、と、声にならない吐息がこぼれた。
『ここに契約は整った。妾はお前の両目を借りて世を覗き、この王国が我らにふさわしいかを見定めよう。エリーは、己が心の導くまま生を全うするがよい』
「末永く、よしなに」
◇◆◇
何か変わったか、と問われたら、私は「変わりはない」と答えるだろう。
だって、精霊のように背に翅が生えてきたわけではないし、お伽噺に出てくる魔女のように、神がお創りになった法則を無視して、不思議な力を使えるようになったりはしていない。
「お待たせいたしました。お出迎えできず、申し訳ありません」
精霊の楽園を出ると、すでに陽は落ちて周囲は真っ暗だった。
無事に戻った私を笑顔で迎えたジャルジェ伯父と共に領主邸に帰り、軽い夕食をとってから身なりを整えると、すでに到着していたレーブル大公殿下とジャルジェ伯父の待つ部屋に通された。
お酒のグラスを手にして談笑するふたりに遅れをお詫びし、出来るだけ見映えよく片足を後ろに引いて挨拶をした。
母が亡くなる十の頃までしか習えなかった礼儀作法を思い出し、その悔しさを顔に出さないよう気をつけながら、優雅に、上品にと内心で唱えて。
「無事に儀式はをすませたようで、これで一安心。なぁ? ジャルジェ」
「ええ。一時はどうなることかと慌ててしまいました」
大公殿下とジャルジェ伯父は互いに苦笑を交わし、背もたれに寄りかかったまま胸を撫でた。向かい合うふたりの前には、華やかな香気を放つお酒のボトルとグラス。私が来る前に、いったいどれだけ飲んだのかしら。
精霊王様の危機だったのは確かだけれど、ふたりのあまりにも大げさな素振りに首を傾げた。
すると、ジャルジェ伯父が渋い顔をして話し出した。
なんでも、母がロイグラム侯爵家に嫁いだのは、向こうからの熱心な申し込みがあったからなのだそう。とにかく、当時のジュノー伯爵は母の病弱さを理由に断り続けた。が、それでも諦めない侯爵に、先に音を上げたのは母自身だった。
母には病弱だという理由とは別のとある事情から、他の婚姻相手を見つけるのが難しい立場にあったらしい。かといって、このままジュノー家に留まっても迷惑になるだけ。そう思った母は、望まれる内にと勝手に承諾してしまったのだ。
「だが、なぜアラベルをそこまで執拗に望むかが、妙に納得いかなくてね。すぐに密偵を送り込んだのだが……」
「……そのとある事情とは、なんですの?」