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「さて、これから話す事柄は、お前個人にとって最も重要なものだからよくお聞き。先ほど選ばれた娘の話をしたが、正確には精霊王に選ばれた娘だ。アラベルもお前も、精霊王が宿るために選ばれたのだ」
精霊王と聞いて、私は驚きのあまり息をのんだ。
次々と信じられない話を出されて、それですら把捉するのに精一杯なのに、今度は妖精王まで出されては頭が真っ白になりそうだ。それも、私の中にいらっしゃるなんて、と気が遠くなりそうになった瞬間、脳裏を白い――あれは淡い光の中で見た美しい人――が、過ぎった。
幻のような神々しい御方だった。撫でる指先の柔らかさと、白く滑らかな頬を伝い落ちる涙の温かさを、私のどこかが覚えている。
「……精霊王様が私の中に……」
「そうだ。精霊や妖精はジュノーの地を離れられんが、王は人の裡に棲んで移動し、世の流れを視る。代わりに依り代を守護し、知恵や力を貸し与えてくださるのだ」
「でも……」
伯父の手が私の両手を包み、優しく揺すられる。手袋ごしでも温もりと頼もしさを感じ、肩の力をぬいた。
「紋があるなら間違いはない。ただし、いまだ盟約の儀を行っていないせいで、お前の中で動けずにいる」
「盟約……ですか?」
「精霊王の加護を十全に発揮してもらうための儀式だ。紋があるだけでは精霊の護り程度しか受けられないし、王もお前の目を通して外を視ることは叶わない。互いに盟友として導き合う約束を交わすのだ」
「精霊王様との盟約の儀……」
ジャルジェ伯父は心配はいらないとでも言うように、握った私の手をぽんぽんと軽く叩いた。
◇◆◇
領主邸から馬車で走ること一刻半ほど。
まばらにしか陽の差し込まない鬱蒼とした森を抜けたと思ったら、そこは円形の草原だった。中央にこんもりとした茂った小さな林があり、馬車はその境界で停まった。
私はジャルジェ伯父にエスコートされて細い石畳の小道を進み、林の中に入る。
一歩踏み出すたびに、心が震え涙が浮かぶ。ああ、この感覚は、ジュノーの地に着いた時に覚えたものだ。
恋しくて。懐かしくて。嬉しくて。切なくて。
郷愁などと簡単に言いきれるような想いではなく、もっと複雑に絡まった感情だ。
霞む視界に、低く小さな新緑の門柱と蔦を模した門扉が見えてくる。その左右に塀はなく、代わりに木立が続くだけの不思議な造りをしていた。
伯父は何も持たない手を門扉にかざし、何かの文言を唱える。すると、ゆっくりと扉は両側に開き、生い茂った草木が自然に分かれ、先へと続く石畳を露わにした。
歓喜と安堵。
私でない誰かが、この地に、この場所に、ようやく帰りついたことを喜んでいる。
張り出した枝が勝手に位置を変え、石畳の隙間から伸びた下草がするすると短くなる。ほんのりと紅を滲ませた花びらが、どこからとも風に乗って舞い散り、典雅な響きを持つ小鳥たちの声が響き渡る。
「ああ……精霊たちが王の帰還を喜んでいる」
「まるで、楽園のよう……ですわ」
「そうだ。ここは精霊の楽園。ジュノーは楽園を護る騎士だ」
幻夢のような光景の中で伯父が吐息のように呟き、私はそれに同意する。
「さあ、ここからはエリーだけで精霊王様に謁見してきなさい」
「はい」
小道はまだ先を示している。何が見えるわけでもなく、ただたくさんの緑が広がっている。
私は叔父に促されて歩き出した。近づくたびに草花は、色とりどりのカーテンを掻き分けて通してくれる。
そして、私の前に白亜の霊廟が現れた。
いつ頃の造りなのかわからないが、書物で見たような王家や高位貴族家の霊廟と比べるととても簡素だ。アーチ型の上部と外壁は意匠のレリーフや色石で装わせたりなどの工夫は一切なく、ただ白く塗りこめられているだけ。
ぐるりと外観を見回し、最後に正面に視線を戻す。
私の背より少しだけ低い両開きの扉も白く、すでに開いて出迎えてくれている様子だった。
「あら……」
扉のすぐ上に、薄っすらとレリーフが残っている。目を凝らすと、それは私の生え際にもある精霊紋だ。
中央はなにもなく、まわりを五つの花弁が囲む花紋。
私は深く息を吸うとドレスを摘まみ上げて膝を折り、跪礼してから扉を潜った。
ふと気づくと、乳白色の光の靄に満ちた空間に座り込んでいた。
ドレスの裾が気にかかったが、眼前に同じく座る姿を認めてしまえばすぐに忘れた。
なんと形容すればいいのか。私が知る語彙ではたとえようもない『美』が、そこに在る。
仄かに発光する靄を纏った純白の衣装に、どんな金銀宝玉も及ばない神々しい黄金の長い髪が波打ち、地に広がっている。
金の細糸に縁取られた、透き通るような白い肌に細い顎。ふっくらとした唇は、紅く艶めいていた。
そして、双眸だ。人とは違う縦長の金色を深い翠玉が取り巻き、矮小な私の現を映していた。
『ようやく叶ったな。エリー、待たせてすまぬ』
ああ、この声だ。
生を諦めかけた私を慰撫し、慰めてくださった優しい声。
宝石のような涙を零し、母のように詫びの言葉を紡いでいた御方だった。