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翌日の予定は、朝食後すぐの外出。
マーシェに手伝ってもらって身支度を整え、慌ただしく馬車に乗り込むと、領主邸の背後に広がる緑濃い森の奥へと続く小道を走り出した。
着慣れない上品な外出用のドレスに浮つく気持ちを抑え込み、今度は、どこへ? と神妙に構えた。
邸内とは違い、馬車の中は完全に私たちだけになれる場所だ。聞き耳を立てても、車輪の雑音と蹄の音で聞き取りにくい状況だろう。それを待っていたらしいジャルジェ伯父は、ふうっと息を吐いて真剣な眼差しを私に向けた。
「さて、今から訪れる先だが、ジュノー家にとっては要の地だ。到着までの間に、ジュノー家の秘密を明かそう。本来ならこの話は、母から娘に、当主から孫に伝える習わしだ。そこを承知して、しっかり脳裏に刻んでおくれ」
「はい」
思いもよらない本題に、当然ながら私は戸惑った。
別邸で過ごしていた頃、『外』を知らずに育った私は、王国の歴史や様々な貴族家にまつわる由緒など、果てはいわく因縁まで書かれた本を何冊も読んで自国を知ろうとした。けれど、その中にジュノー家に関してこれといった記述はなかった記憶がある。
私があからさまに困惑しているのを見て、ジャルジェ伯父は苦笑しながらも先を続けた。
「この土地は、太古の昔から精霊が棲まう地として人間の干渉を遠ざけてきた。だが、建国に際して精霊王は初代国王アルシオンに、永の護りを置くならと共存を了承し、約定を結んだ。そして、初代国王は我らジュノー一族にこの地を与え、我らは先住の精霊たちと護り人として契約をした。以来、その契約は秘されたまま途切れず保たれている」
「せ、精霊……護りの一族ですか?」
「そうだ。減らさず穢さずを条件にこの地を護り、その恩恵として精霊の加護を頂戴している」
突然の『ジュノーの秘密』ですら戸惑ったのに、その内容が『精霊』ときては唖然とするしかない。
精霊や妖精などは、今ではお伽噺の中にしか存在しないのが通説だった。幼子に与える本の中では、すべての生き物たちと共存していた精霊は、人間の欲望に恐れをなして姿を隠したと描かれていて、今ではその言い伝え自体がお伽噺として語られている。
なのに、ジャルジェ伯父は精霊を現実のものとして、私に話している。
「ジュノーの皆様は、精霊が見えるのですか?」
「いや、当主と選ばれた娘だけだ。ただ、ジュノー領に住む者たちは、見えずとも肌身にしっかりと感じている。たとえ、精霊の加護がある地だと知らずとも、な」
「王国にとっては特別であり、秘された契約の地」
「そうだ。そして、お前の母アラベルは選ばれた娘だった」
生まれた時から病弱で、その後も不幸続きで儚く逝った母の、どこに精霊の加護があったというのか。
血の気のない白い顔に諦観の微笑を浮かべ、体調を崩した時にだけ漏らしていた郷愁と私への愛情と詫びの言葉。母は最期まで私を護ろうとしてくれた。しかし、母を護ってくれるはずの精霊の加護など、少しも感じられなかった。
「母が? でも、精霊の加護を頂いていたようには……」
「アラベルは……本当なら幼い内にこの世を去る運命だったのだ。だが、ある日奇跡が起こった。精霊王の加護紋が現れたのだ」
「加護紋?」
「お前も体のどこかに、花のような形をした小さな痣があるはずだ」
ジャルジェ伯父の指摘に、一瞬動揺した。
確かに、私の肌には五弁の花びらの形をした小さな痣がある。
ただ、それはとても色薄く、意識して探そうとしないかぎりは見つけにくい場所にある。
痣を見つけたのは、唯一親身に私の世話をしてくれていた侍女だった。髪を整えている時に、前髪の生え際からすこし上のあたりに痣を見つけた。髪に隠れていたせいで、薄紫の痣は目につかなかったらしい。
いきなり手を止めた侍女に気づいて視線を上げると、彼女は表情を曇らせて私の耳元で囁いた。「ここに痣があります。今後、他の者の前では前髪を上げることはなさいますな」と。
すでに侯爵から疎まれていた娘に、これ以上の欠点が増えないようにという配慮だったのかもしれない。私はその助言に頷き、とても悪いものが見つかったのだと怖れて口を噤んだ。
誰かに指摘されることもだったが、それ以上に母の目につくことを怖れた。母を今以上に悲しませたくなかった。私が男児に生まれなかったばかりに、この境遇があるのだからと。
「確かにあります。ただ、父はもちろんのこと、母にも明かしませんでした。娘を生んだだけで母を疎んじた父に、顔に痣があると知られるのは怖ろしく、母の悲しみをこれ以上増やしたくなかったのです」
ジャルジェ伯父は、沈痛な面持ちで得心がいったというように何度か頷く。
私たちは、しばらくの間押し黙った。
母がジュノーの秘密を私に伝えなかったのは、私が幼すぎたことと持病と監視の目で自由がなかったせいだ。無理をおして伝えたとしても、その先に娘の幸せな未来を見出せず、最悪の場合はジュノーにまで迷惑がかかる可能性に考え至ったのだろう。
それでいい。それでよかったのだ。
今、母の判断の是非を問うても、何も得るものはない。すでに終わり、そして始まったばかりなのだから。
その後、ジャルジェ伯父は精霊の加護を具体的に語ってくれた。
精霊王と契約を交わしたジュノー伯爵領は、あらゆる災害から護られる地となった。
たとえ国中に厄災が起ころうとも、ジュノーの領地だけは大した被害もなしですんできた。人々の間に広がる病であっても領地内で育てた薬草を使えば軽症で完治し、天災が振りかかろうとも少しの苦労で日常に戻る。
その代りに、ジュノー家や領民は土地を手放さず、汚さず、穢さずを遵守するのだそうだ。
なるほど、と納得する。
ジュノーの地があれば、他領や公領に多大な被害がでるような災害に襲われても、ここから支援を送れる。それは、ジュノー領だけの得ではなく国益でもある。
「いわば、有事の際の命綱のひとつと」
「そうだ。だから、国はこの地からジュノーを動かすことはしない。我ら一族を排除できるのは、精霊との契約が破られた時だけなんだ」
国を欺いたり政敵を作るような悪心さえ持たなければ、この領地はすべての生き物にとって安寧の地。
私は、それらの秘密をゆっくりと胸に刻みつけた。