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「……もう、起きておってもよいのか?」


 私をじっくりと眺めた大公殿下は、どっしりとした落ち着きのある声で気遣ってくれた。

 何もかもを失くしたちっぽけな小娘でしかない私にとって、その貴い方のいたわりは胸の奥に開いた空虚な穴に染みわたった。


(父親の愛情とは、こんな感触なのかしら……)


 私以外の人にしてみれば、何気ない台詞だろう。でも、父親のような齢の男性からかけられた初めての労わりは、見えない大きな手で優しく慰撫されたような心地になる。

 そのおかげか過ぎた緊張が解け、唇は滑らかに動いた。


「はい。幸いにも深刻な怪我を負うことなく、重篤な状態に陥る前にお救いいただいたようで、今は痛みも辛さも消えて楽になりました」

「ならば、至急ここから移動してもらうが、大丈夫か?」

「移動……ですか?」


 思いもよらない話の流れに、私は目を見開いて問い返した。

 確か、私の進退について話し合う流れだったはず。レイファ様に問われ、いくつかの道を示されて選択を迫られ、その直後に現れた大公殿下は話し合いを引き継ぐと告げていた。はず。

 それが、どうして移動することに。


「デュオン様! 彼女はやっと動けるようになったばかりなのですよっ」

「それは承知しておる。だが、事はよからぬ方へ動き出した。エリュミナ嬢には、すぐにでも向かってもらわなければならん場所がある!」

「それは……それですが」


 病み上がりの私を気にかけ、慌てて大公殿下を止めにかかったレイファ様だが、深刻な様子で返されて黙った。

 そんな二人のやり取りに、不安になる。

 侯爵の屋敷に送り返そうとでも言うのか。はたまた、どこかに厄介払いをするつもりなのか、と。

 身分も名も失った私が、今後の身の振り方に関して贅沢を言える立場にないのは承知しているけれど、父のもとにだけは戻りたくない。それだけは、絶対に嫌だった。


「あ、あの! 私が行かなければならない場所とは、いったい……」

「そなたの母の実家であるジュノー伯爵領だ」

「ジュノーの方々とはお会いしたいと思っておりますが、でも至急というのは」


 侯爵家ではないと知ってほっと安堵したが、それでも急ぐ理由がわからない。


「今は時間が惜しい。少しでも早く、そなたには伯父のジャルジェに会ってもらわねばならん。さすれば、すべてが解決する。そなたが知っておってなお疑問に思っておることも、知らぬことも、な」


 強面が微笑む。

 先ほどまでの温かな雰囲気は霧散し、何事かを企む最高位貴族の男の顔が現れた瞬間だった。

 怖いお顔だと思いはしたが、私は最悪の状況をまぬがれたことに安堵した。



◇◆◇


 西の空がかすかに白み始めた頃、私を乗せた馬車は出発した。

 頑丈な造りではあったが家紋も飾りもない無骨な馬車には、私の他には侍女が一人だけだった。その他に、正体を隠した装いの騎士たちが騎乗して護衛についてくれた。

 鬱蒼とした山中を下り、朝日が昇り切った頃には麓の街に着き、朝の賑わいの中に紛れて走る。

 快復するまでずっと私に付き添ってくれていた侍女のマーシェが、長い橋を前に上流を指さした。


「この川の上流の、街を出た辺りにある小さな中洲で、お嬢様をお助けしたのだそうですよ」

「私……とても長い距離を流されてきたのね……」


 墜落現場は、山奥の断崖に挟まれた渓流だと聞いた。麓から見上げる深緑の山は一見なだらかに見えるが、大公家所有の別邸からの道程を思い出すと、その先は起伏が激しい山道しか届いてないらしい。

 そんな中を馬車に揺られながら、私は一度も目覚めなかったのだ。驚きより、確実に私の死を求める執念のようなものを感じて、背筋が薄ら寒くなった。

 

「お嬢様が助かったのは、本当に奇跡でした。山仕事の職人か、狩人以外には入れないような所から流されて、息は細かったですが、骨を折ったり大怪我を負ったりせずに流れ着くなんて、きっと神様がお守りくださったんですよ」

「そうだといいけれど……。でも、一番に感謝しなければいけないのは、私を見つけてくださった大公家の方だわ」


 馬車は橋を渡り終えると、一路西へと駆ける。

 時間短縮するなら馬がいいのだがと大公殿下が漏らすのに、今度こそレイファ様は大反対した。

 幼い頃から幽閉紛いの生活を続けてきた私には、当然ながら乗馬の経験などない。レイファ様は私の身の上話を聞いただけで、詳しく話さずともそんな優雅な暮らしを送ってこなかったと察して反対したらしい。

 教養は、隠れるように入り浸っていた蔵書庫で本から学んだが、礼儀やマナーを軽く教えられた以外の身に覚えさせる習いは受けられなかった。

 思えば、母が生きている内に、それなりの読み書きを習えたのは幸運だった。身体を動かす経験なら、これからでもできるだろう。

 旅は時間と病み上がりの体力との勝負になったが、マーシェの的確な処置と心遣いがあって、予定外に馬車を停めることなく先へと進んだ。


 三晩を教会と大公家とは寄子の貴族邸で過ごし、四日目の夕暮れ間際にはジュノー伯爵領に入れた。

 境界を跨いだ途端に不思議な思いに感情を揺さぶられたが、息を詰めて必死にやり過ごした。

 それくらいの衝撃が心を打った。


(なぜ……こんなにも泣きたくなるほど懐かしく思うの?)


 焦がれに焦がれて身悶えするような恋しさが、唐突に感情を支配する。


「おっ、お嬢様!」

「大丈夫よ。何でもないから気にしないで。大丈夫……」


 次々と流れ落ちる涙を拭いながら、慌てふためいくマーシェに笑いかけた。



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