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ぴんと張りつめた空気を払うかのように、彼は質問を変えた。
「それで、貴女はどこの誰だい?」
「私は……ロイグラム侯爵家の長女エリュミナと申します。この状況では、すでに事故死の届けが出されているかもしれませんが」
身元を騙るつもりはない。一瞬だけ返答に詰まったのは、父が早々に私の死亡届を出しおえていたら、真偽を確かめることなどできないのでは、と思ってしまったからだ。
差し込む陽射しを見れば、事故から少なくとも一晩以上は経過したはず。その間に、実行した御者は馬で戻り、事を終えたと報告すれば終わり。
だいたい、貴族の娘が自由の効かない状態で断崖から馬車ごと転落し、冷たい谷川に流されて生きているなどと誰も想像しないだろう。
たとえ助かったと伝えても、侯爵がそれを受け入れるとは思えない。そんな娘は知らないと、門前払いするだけだ。
意味のない名乗りだと添えて正体を明かした途端、彼は警戒の気配を消して、面白いことが起こったとでもいうように薄い唇の端を上げた。
美しい人形がいきなり人間に変異したかのような変わり様に、私は思わず目を見張る。
何だろう? 今まで仕事の一環として私に対面していた様子だったのに、名乗った瞬間から嬉々とした反応に変えた。
「ははぁ、なるほどね……。貴女の言う、侯爵家に起こった何かは見当がついた」
男は凄惨な微笑みを浮かべると一言呟き、横たわったままの私の頬に、真っ白な指先を伸ばす。見た目と違って温かい手は私の頬を優しく撫でた。
嫌な気分はしながったが、ピリリと走った痛みに傷ついた顔を晒していたのだと気づいて、恥ずかしくなる。けれど、ろくに身体を動かすこともできない私は、顔を背けるしかない。
拒絶されたと受け取ったのか、それきり指先は追ってこなかった。
「エリュミナ嬢。貴女はうちのご当主様が望んだ女性だ。そんな貴女を死に追いやるなど、我が主を敵に回すということだ。ロイグラム侯とあろう方が、それを知らぬとは思えない……。よくも舐めた真似を……これは、色々と確かめないとならないようだ」
「嘘だと……お疑いにならないのですか?」
「まったくとは言わないが、僕の勘は外れたことがないんでね」
人形めいた美貌の笑みと、冴え冴えとした冷たい声は私を怯えさせるのに十分だったが、
それ以上に彼の言葉は私を驚かせた。望んだ女性だの敵に回すだの、いきなり何を言っているのか理解できない。
何が起こっているのか問いかけたいのに、獲物を狙う肉食獣のように双眸を光らせる彼に恐れを覚え、私は痛む体を強張らせるしかなかった。
「まずは、ご当主様とお会いするのが先決だな。すぐにお呼びしよう。それまでの間、貴女はゆっくりと心身を癒せばいいよ」
白い手が私の骨の浮き出た肩口を撫で、静かに離れていった。
消えた温もりを惜しいと思う。怖いと感じる相手なのに。
「ご当主様とは……どなたなのですか?」
驚きのあまり呆然としていたせいで遅れたが、とにかく彼の言うご当主様とは誰なのか確かめたくて問いかけた。
彼は天蓋の薄布をめくりながら、私を振り返る。
「レーブル大公様だよ。それに――ああ、これは本人がから明かしてもらったほうがいいな。では、食事と薬を持ってこさせるから、ゆっくり養生して」
それだけ告げると、彼は私の反応も確かめずに足早に部屋を出ていった。
呆気に取られたまま精霊のような男を見送った私は、酷く疲れて目を閉じた。
薬による眠気に誘われながらも、ぼんやりとした頭で記憶の棚を漁り、書庫に閉じ籠って得た知識の中からこの国の成り立ちを引き出そうと試みた。
我がフランクール王国は、八百年ほど前に旧レーブル公国の公子アルシオンが、周辺の小国を纏め上げて建国した。
小国の集まりだけに、初期の頃は政治的内紛や独立のための蜂起などで混乱したが、近隣の大国に隙を突かれて攻め込まれることが続いては、さすがに団結の意志を固めなければならなくなった。その甲斐あって、三百年ほどは落ち着いて他国に警戒の目を向ける余裕もできていた。
そんな流れの中、王家の祖となったレーブル大公家は、現在でも同じ領地を継ぎ、王家に次ぐ地位と重鎮の座を保っている。
「今代のレーブル大公様といえば……王弟殿下がお継ぎになっていたのでは……」
先代の大公は跡継ぎに恵まれず、当時の第二王子が臣籍降下して養子に入った系図を思い出す。
「大公殿下が私を? ……いったい、なぜ? 何が起きたというの?」
静まりかえった部屋には、誰も私の疑問に答えてくれる人はいなかった。
それからの私は身体を癒すことだけに専念させられ、迷いと焦燥感の中で寝たきりの日々を送ることとなった。
世話をしてくれる侍女たちや定期的に訪れる医師は、とても献身的に私を助けてくれた。優しさに慣れていない私はなんとも身の置き所がなく、早く詳しい事情を話してくれる人物が来てくれないかと願った。
「どなたか、事情をお話してくださる方を――」
「詳しいことはレイファ様がお戻りになり次第と、言付かっております。それまではゆっくりとご養生なさってくださいませ」
侍女頭らしい年配の女性が、笑みを崩すことなく告げる。その間も、介護の手はやすまない。
慣れた手つきで清拭し、塗布薬を貼りかえる。病人に負担がかかないよう配慮された働きに、私はそれ以上言い募れずに口を閉じた。
でも何も知らずにいるのは辛く、焦燥と不安が日に日に募っていった。