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本日二話目。
◇◆◇
目覚めた時、天にある神の居拠に紛れ込んでしまったのかと錯覚してしまうほど、そこは私にとって現実味が薄い空間だった。
眩しいほどの光が照らす、緻密なレリーフが施された真っ白な天井と柱。そして、上等な紗布のカーテンだと気づいた。
豪奢な天蓋付き寝台に横たえられている自分がとても現実とは乖離していて、視界が鮮明になってもすぐには状況を飲み込めずにいた。
直前に見た夢が影響しているらしく、嫋やかな手で撫でられた余韻に浸って、ぼんやりとカーテン越しに差す光を眺めていた。
「おや、目が覚めたかい?」
突然かけられた若い男の掠れ声に驚いて、思わずはね起きた。
途端に、全身を走る激痛と疼くような鈍い頭痛に襲われ、呻きながら崩れるようにまた寝台に蹲った。
「ああ、驚かせたようだね。ごめんよ」
虫よけのカーテンをめくりあげ、声の主が顔を覗かせる。
羽毛のような真っ白な長い髪を後ろで一纏めにして流し、真ん中で分けられた髪の間から鮮やかな紅い瞳が私を見て微笑んでいた。
見知らぬ男性が急に現れたこともだが、それ以上に彼の容姿は私をとても驚かせた。
瞳以外のすべてが白い印象で、髪や体毛はともかく、顔色は病人かと誤解するほど透きとおるようだ。加えて、装いがゆったりとした純白のローブだっただけに、物語の中に出てくる妖精や神の遣いかと錯覚しそうだ。
でも、謝罪しながらも笑いを含んだ声は、生きている男性の声だった。
いよいよ現実離れした光景に、私は恐る恐る問いかけた。
「あの……ここは」
「ここはね、王都の端にある、とあるお方の別邸だ」
「私……助かったのですね……」
「なんだい? 嬉しくないのかな? もしかして、死ぬつもりで飛び込んだ?」
「いいえ。馬車が崖から落ち……」
言いかけて口ごもる。
あれを事故と言ってよいのか、事の成り行きを正直に話してよいのか判断がつかない。相手の正体が敵か味方かすら判らない状況下で、下手なことは口にしたら拙いのではと思い至り、咄嗟に口を噤んだ。
侯爵家の娘と知られれば、恩を売るために送り返されるかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
まだ鈍い頭を必死に巡らせるが、瞬時に妙案など思いつくはずはなく、誤魔化しの言葉すら出せないでいた。
「どこに向かっていたのか知らないが、いまだ馬はおろか御者や積み荷すら発見されてはいない。いったい何の目的で、どこに向かって?」
彼の声に、疑いの色が混じっている。
けれど、状況説明を聞いた私は、改めて父の殺意を思い知って衝撃に呆然となっていた。
休息の時、御者から手渡された水袋に薬が混ぜられていたようで、馬車が出発した直後から不自然な深い眠りが訪れ――それはつまり、確実に死んで欲しかったから。
(こんな回りくどいことなどせずとも、もっと早く殺せばよかったのに)
生き残った今となっては、他人事のような馬鹿らしい感想しか思い浮かばない。
頭を一振りして雑念を払うと、ふうと息と漏らして踏ん切りをつけた。
「私は父に命じられ、急遽決まった嫁ぎ先に向かう途中でした……」
ぽつぽつと話し出した私に、彼はそろりと寝台の端に腰を落ち着けた。
ぎしりと寝台が軋む音を聞きながら、馬車の中で味わったあの嫌な浮遊感と衝突音を思い出して、無意識に身が震える。
「……現場は、街道から外れも外れた山中だったんだけど?」
「……」
「我が主が通りかからなかったら、貴女はすでに女神の御許に旅立っていたよ」
「では、この館のご主人が私をお救いくださった……?」
「うん。領地から戻る途中で、川の中洲に引っかかっていた貴女を見つけたんだが、それにしても……」
疑いの色濃い紅い目が、私をじっと観察しているのがわかる。
嫁ぎ先に向かう途中と言いながら、実際の事故現場は深い山中の渓谷。嫁ぐにしては質素すぎる衣装を身に着け、粗末な馬車の残骸とないも同然の積み荷。
どう考えても、私の告白に信ぴょう性は見当たらないだろう。
まだ心の隅に残っていたらしい矜持を蹴り飛ばして、すべてを話すことにした。
「……私は生まれてからずっと、領地の外れにある別邸で幽閉同然に過ごしてまいりました。たぶん……王都の屋敷で何かが起こったのでしょう。どうも私が邪魔になったらしく、父に呼び出されて行ってみれば、嫁ぎ先が決定したからすぐに旅立てと……」
「それでも、馬車がおかしな方向に進んでいるとは思わなかった?」
言葉を濁しつつも諦めの様子で話す私に、彼はすぐに事情を察したようだ。細めた赤い瞳が、私の心の裡まで見透かすようにと凝視してくる。
「王都を出てからは街道を進んでおりましたが、途中の休息で御者から渡された水に眠り薬が入れられていたようで、墜落の衝撃で目を覚ました時にはすでに遅くて」
「なるほど。だから馬も御者も見つからないわけか。どこの誰に嫁ぐかは?」
冷え冷えとした気配と共に、仮面のような白い容貌がより険しくなる。人間味が薄いだけに、恐ろしいほど冷淡に見える。
「わかりません……。何度も尋ねたのですが、父は教えてくれずじまいで」
いくら貴族家の娘は父の意に従うのが道理とはいえ、相手も行く先も教えないというのはおかしい。きっと、彼の不審感はますます深まったことだろう。
私にしてみれば、少しも変ではない。どうせ始末するための、見せかけの旅路だったのだから。
「貴女は、どこの誰とも知れない相手に嫁げと言われて、抗おうとも思わなかったのかい?」
「私は……黙って静かに生きるしかできなかったのです……」
物心ついた時には、すでに私たち母子は別邸に留め置かれており、まわりには誰ひとりとして信頼できる者はいなかった。
唯一の頼りだった母が亡くなると、それはいっそう顕著になった。細々と続けられてきた教養の時間はなくなり、衣食ですら必要最低限しか与えられず、ともすると忘れられることすらあった。
そんな環境で、私にどんな武器が持てたというのか……。
私の一言で、彼は目を伏せると纏っていた怒気を消した。