一週間の恋人
「まだ寝ていていいのかい?」
いきなり頭上で声が響いて、俺は目を開けた。身体を起こすと、声の主と思しき奴と目が合った。そいつはにこにこと笑っている。
「随分とのんびりしているね。もうここにいるのは、僕と君だけだ。他のやつらは血相を変えて飛んでいったよ」
全く状況が把握できず、黙ったままの俺を見て、笑顔だったそいつの表情が固まる。
「まさかとは思うけど――君、何も話聞いてなかった?」
頷くと、そいつは同情を込めた眼差しで続けた。
「じゃあ、僕が教えてあげる。君の命はあと一週間しかないんだよ」
そこからは、よく覚えていない。気付くと俺は見知らぬ野原で座っていた。
あいつに余命宣告をされてから、どれ程彷徨ったのだろう。俺には何もわからなかった。自分が何者なのかも、何故一週間後に自分が死ななければならないのかも。
風が吹いて、ざわざわと草が揺れる。その小さな音すら、今の俺にとっては耳障りだった。行き場のない憤りが沸々と自分の底から湧き上がっていた。
「――くそっ!」
「何もう、うるさいわね」
いきなり背後から上がった声に驚いて振り返る。そこには、いつの間にか女が寝転がっていた。近付いてみると、閉じられていた彼女の瞳が、ぱっ、と開いて俺を見た。慌てて後ずさる俺を眺めながら、彼女は静かに、そして緩慢に起き上がった。
「……あなた、誰?」
答えられずにいる俺の全身に視線を這わせ、彼女は、あら、と言った。
「何、そのアクセサリー。タンポポみたい」
俺の腰にはふわふわと白い綿状の飾りがついていた。何故そんなものがついているのか、俺自身にもわからないが、彼女はいたくそれを気に入ったようだった。はっと我に返って、眠りを邪魔したことを謝ると、彼女は事も無げに言った。
「良いのよ。どうせこれから飽きる程眠らなければならないんだから」
彼女は変わらない表情で続けた。
「私、もうすぐ死ぬの」
その台詞の意味を理解するのに、少し時間がかかった。言葉を失った俺を気にするでもなく、彼女は欠伸をしながら話を続ける。
「私、カリン。あなたは?」
「……わからない」
辛うじて、吐き出すように答える。
「何もわからない。わかっているのは、俺の命があと一週間しかないということだけだ」
彼女――カリンの表情が、一瞬動き、そしてまた平静に戻る。
「そう――じゃあ、名前をつけてあげる。今日からあなたはハルね」
「ハル?」
「そう。タンポポといえば『春』でしょ?」
名前もなく死んでいくなんて寂しいじゃない、とカリンは俺の腰の飾りを手に取って、にっこりと笑う。自分には不相応に思えたが、それでも自分の名前だと思うと、不思議と愛着が沸いた。
「悪くないな」
カリンの笑顔を見ながら、俺は残る一週間を彼女と過ごすことに決めた。
次の日も、その次の日も、同じ場所にカリンはいた。俺が来ると、彼女も満更ではない様子で色々と話しかけてきた。
「ねぇハル、聞いてくれる? 私、一つだけ心残りがあるのよ」
「何?」
「私、一度も雪を見たことがないの。あなたはある?」
「……そりゃあ、あるさ」
見た記憶は全くないが、彼女を失望させたくなくて思わず口走り――しまった、と思った時には、彼女の瞳が期待に輝いていた。
「ねぇ、雪ってどんなものなの? どうせ雪が降る季節までは私の命ももたないだろうから、せめて話だけでも聞かせてよ」
記憶を辿り、自分が目覚めた場所に着くと、俺を起こした奴がいた。
「奇遇だね。君、戻ってきたの?」
「君じゃない。俺はハルだ」
「あれ、随分あたたかい名前だこと」
いちいち言い返すのも面倒で、俺は手短に事情を説明した。
「――という訳なんだが、雪って見たことあるか?」
「それ、本気で言ってる?」
「冗談でこんなこと訊くわけないだろ」
「うーん……わかった。僕に着いておいで」
そのままそいつに着いていくと、高層ビルが立ち並ぶ一角に辿り着いた。その中の一つのビルを指して、そいつは言った。
「ほら、あのテレビに映った映像を観てごらん。白い粉みたいなものが降っているだろう。あれが雪さ」
確かに、画面上には白い粒が舞っていた。カリンにも直接見せてやりたいが、ここまで連れてくるのは難しそうだ。彼女にどうやったら見せてやれるだろうかと思案していると、そいつがこちらを見て微笑んでいた。
「楽しそうでいいね。僕は早く目が覚めたのはいいんだけど、やることが思い付かなくて、結局ここに来てのんびりとあの映像を眺めて過ごしていたんだ。一週間しかない命じゃあ、できることも限られているしね」
そいつの眼差しは優しい光を湛えていた。
「ハルのことがうらやましいな。僕にもできることがあったら言って。手伝うよ」
***
「今日でここに来るのは最後だ」
遂に、ハルの命が尽きる日がやってきた。ハルと出逢ってから一週間、ずっとそうしてきたように、朝からゆったりと語らい、そして辺りが暗く静まり返った時――彼は静かに私に告げたのだった。
「寂しくなるわね。まぁ、私もすぐに行くことになると思うけど」
そう、どんな生き物でも、寿命に逆らうことはできないのだ。それは、彼も私も一緒だった。ハルはふと俯いて、ぽつぽつと言葉を紡いだ。
「この一週間、カリンと一緒にいて、本当に楽しかった。つまらない人生だと思っていたけど、最期に思い出をくれてありがとう」
ゆっくりと、伝えられるその言葉が、その声が、もう聞けなくなるんだと思うと、胸が詰まるような思いがした。
「――私、何もしていないわよ」
私の台詞に、ハルが顔を上げる。
「俺に名前をつけて――そして、ずっと一緒にいてくれた。それだけで、十分だ」
彼はにっこりと微笑んで、そして言った。
「時間だ。カリン、目を閉じてくれ」
「……もう、行ってしまうの?」
「最期に、俺からプレゼントがあるんだ」
名残惜しく思いながらも、瞼を閉じる。
「――さようなら、カリン」
その声に目を開くと、眼前には白い光の粒が瞬いていた。
ふわりふわりと宙を漂うものもあれば、風に吹かれ舞い上がるものも、そしてただ地に落ちていくものも――ひとつとして同じ動きをしない白い光達に、私は目を奪われた。
「――綺麗」
思わず手を伸ばして、白い光を掴んだ。ふわりと掌を撫ぜる感覚に、ようやく気付く。それは私がよく知っている感触だった。ひとりで幾度となく過ごしてきた暗い夜を、明るく染め上げた光だった。
「知らなかった――ハル、雪って、あたたかいのね」
懸命に風を蹴って空に昇っていく――それは命の輝きそのものだった。
ハルは空に還っていったのだ。
白い光が降りしきる夜空を見上げて、私は静かに瞳を閉じた。
***
「ママ! どうぶつえんたのしみだね!」
「そうね、ママもマミとお出かけするの、楽しみにしてたのよ。今日は沢山あそぼうね」
「おいおい、あまり無理しないでくれよ。あくまで一時退院なんだから」
「ちゃんと厚着してきたから大丈夫。最近寒いものね。昨日は雪も降っていたし」
「――雪? 雪なんて降ってないだろ。天気予報でも、そんなことは言ってなかったし」
「でも病室の窓から見えたのよ。白いものが、ふわりふわりって」
「ふぅん――それはきっと、雪虫だな」
「雪虫?」
「そう。僕の故郷なんかでは、初雪のちょっと前に発生するんだよ。あいつらが出てきたら、もうすぐ雪が降るという合図なんだ。でもこの辺りにも出るなんて珍しいなぁ」
「そう、虫だったのね。でも、本物みたいで綺麗だったわ」
「じゃあ来年の冬は、久し振りに僕の実家にでも行こうか。本物の雪を見せてあげるよ」
「そうね。私も早く病気を治さなきゃね」
「パパー! ママー! こっちきてー!」
「はいはい。どうしたの? あら、マミが大好きなリスさんのおうちね」
「うん。でもこのこ、さっきからずっとうごかないの。ねているのかな?」
「――そうね。起こしたら可哀想だから、ゆっくり眠らせてあげようか。」
「うん。カリンちゃん、いいゆめみてね!」
(了)
最後までお読み頂きありがとうございました。
本作は第28回ゆきのまち幻想文学賞の「雪」というテーマで投稿した作品です。雪国ではない舞台で雪を幻想的に描きたいと思い、雪の精と出逢う人間の話を書こうと思っていたのですが、書いている内にどちらも人間ではない話になりました。
すこしでも、おや、と楽しんで頂けましたら幸いです。