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狂った復讐の愚者 2

 「――お、百円玉見っけ」

シンが何気なくアスファルトの上を見て、しゃがんでそれを拾った。だが、それは瓶の蓋だった。

「んだよ、こんなのか……」

舌打ちをしながら立ち上がり、シンの頬を何かが掠めた。鋭い痛みが頬に走り、触れると液体が手に付着した。外灯の明かりで確認してもはっきりとは分からないが、赤い色をしていた。

「死ねぇ!」

「ぇ――?」

それは、一瞬の出来事だった。シンの脇腹に何かが刺さる。見知らぬ男がシンに密着していた。今までに感じた事のない激痛が駆け抜け、シンは膝から力が抜けていった。立っていられなくなり、その場に崩れ落ちる。

 「はっ……はっ……!」

シンを刺した男の荒い息遣いが聞こえた。首を起こしてシンは革靴を視界に捉える。ナイロンのジャージのズボン。深い紺色。動く度にそれが擦れて音を立てていた。

「てめぇ……」

歯を食いしばりながらシンが手を伸ばした。ジャージのズボンを掴み、顔を持ち上げる。三十代の男性だった。手入れのされていない髭は不潔な印象を与え、脂ぎった髪の毛も汚らしい。それをはっきりと視認する。

「こ、この小僧……!」

男性がシンを蹴った。顔を思い切り蹴り上げると、シンの手が放される。虫の息でシンは仰向けになった。脇腹に刺さったナイフから夥しい出血をしていた。痛み、苦しみ、恐怖、といったものが呼吸を乱れさせ、シンから思考能力を奪っていく。そんな状態で頭に浮かんできたのは、新聞の記事に出ていた通り魔事件の事だった。

 (暁め……こうなんのを知ってやがったのか……?)

ぐっと手足に力を込め、アスファルトを押す。激痛が脇腹を迸り、動く度に血が溢れていった。それでも、シンは、立ち上がった。不思議と力が感じられて、冷静さを取り戻そうとしていた。

「何で起き上がる……?」

男がたじろいで呟いた。シンが膝に両手を突きながら何とか立ち上がった。腕の黒いブレスレットが僅かに光った気がした。それを尻目に見て、シンは漠然としながら、でも、はっきりと悟る事があった。

「あぁ、こういう事だったのか……」

ナイフを抜き、アスファルトに投げ捨てる。血が一気に溢れ、それを左手で押さえた。汗が額から流れ、否応なしにシンは自分が危険な状態にいると分かる。

「小僧……何者だ……。お前も、悪魔を……!」

赤く染まったアスファルトは、シンから流れ出た血液の水溜りによるものだ。片足を出してそれを踏みつけ、シンは男を見た。ギラギラとした目だった。

「宿主は惹かれあうんだったな……。つまり、てめぇが俺の最初の獲物、って訳だ」

長く息を吐き出しながらシンが言う。暁に知らされた訳でもなく、本当に漠然とした悟りだった。本能的な、直感。それがシンに伝えたのだ。

「獲物? お、俺を獲物だと……? 黙れ、黙れ、黙れ、お前みたいな小僧まで俺を虚仮にするのかァ!」

男が大振りに拳を振った。シンの顔に当たり、そのままアスファルトの上に倒れた。馬乗りになって男が狂ったように喚き散らしながら握った拳を振り落とす。鈍い打音が断続的に響いて、シンはやられるがままだった。唇を切りながら、痣を作りながら、口汚く罵られながら、シンはされるがままになっていた。

 「はっ……はっ……お、俺を虚仮にするから悪いんだ……。何もかも! 俺を誰一人、認めやしない! ははっ! そうだ、俺は悪魔に魅入られたんだ! 力を貰った! たった一回、ナイフを突き刺すだけで心臓まで貫通させた! はは……はははっ! 肥えた専務なんて、見物だった! 失禁をして、俺に許しを請い、金なら渡すと懇願した! 刺し殺した! 俺がだ! 復讐してやったんだ! 俺をクビにしたから罰が当たったんだんだ! その次の小さい子供なんて、ナイフ見ただけで泣き出した! 止めて、オジサン、なんて言った! だから殺した! はははっ! 俺をオジサンなんて呼んだからだ!」

狂ったように男は叫んでいた。それを聞き流しながら、酷く虚ろな瞳をしたまま、シンがゆっくりと起き上がる。静かだが、乱れた断続的な呼吸。顔中に痣を作り、唇と口の中を切って唾と一緒に吐き出す。脇腹を左手で押さえて、男を見る。視線だけは、冷め切っていた。

「何だ……その顔は? 何で死なない? 泣け! 叫べ! 喚け! 許しを請え! 俺は悪魔だ!」

「へっへっへっ、てめぇは悪魔なんかじゃあねぇっつーの……」

小さな声でシンが言った。嘲笑するように言い、男の神経を逆撫でする。

「何だと? もう一度言ってみろ! その手足をバラバラにして、目玉を抉り出して、烏の餌にしてやる!」

「やってみやがれ……下衆野郎――」

シンの言葉に男が奇声を発しながら飛びかかった。だが、シンはそれを見切ってさっと横に動いて回避する。暁より授かった能力が発動されていた。目に映るものが普段よりも遅く見えて、体が軽くて力がみなぎってくる。男がアスファルトに両手足を着いて着地すると、シンにまた飛びかかった。まるでそういう移動をする動物のように俊敏な動きだ。

 『シン、そのまま聞け』

突然、頭の中に暁の声がしてシンは動きを止めそうになった。だが、迫ってきた男の獣のように伸びた鋭い爪を寸での所で避ける。

『その男は悪魔の誘惑に負けた。魂の弱い人間は悪魔に憑かれると自我の崩壊を起こす事がある。それが、誘惑に負けるという事だ。思考能力が著しく低下し、誰でも燻っている怨みや嫉みといった負の感情に突き動かされる。そうなると体が人としての形を保てなくなり、異形の怪物――魔物へと化す。よく見ておけ、お前も自我を失えばああなるぞ』

暁の言葉のままに男はどんどん、人の形を失っていっていた。爪や牙が鋭く発達し、瞳が赤くなって血走り、骨格が変わっていく。背が丸くなり腕と足の長さが同じようになっていき、人間を獣にしたような――まさに異形といっていい怪物へと変貌していた。

「俺を……崇めろォ!」

男だった魔物が低い唸り声で叫び、とうとうシンを押し倒した。だが、シンは倒された勢いで右足を魔物の腹に当て、投げ飛ばす。アスファルトに叩きつけられた魔物がまた起き上がった。その姿をシンは直視したくなかった。哀れな姿だった。着ていた服が、盛り上がった骨や筋肉で所々破れ、全身に獣のようなごわごわした黒い毛が生えてくる。

「おい、暁……聞いてんだろ?」

僅かニ、三メートルの間を空けたままシンが言った。魔物は体勢を低くしてシンに飛びかかる機会を伺っているようだった。

「殺さなきゃ、ならないのか……?」

じりじりと後退しながらシンが尋ねる。重苦しい声だった。靴に何かが当たるのを感じ、シンが目を下に向ける。同時に魔物が飛びかかってきた。舌打ちをしながら、靴に触れたソレを拾い上げる。魔物の顔を見て、シンの表情が苦悩に満ちた。命の危険にさらされているが、それでも、他者の命を奪わなければならないのか。半端な事じゃ止まりそうもないのは分かっていた。だから――辛かった。

 『殺せ。でなければ、お前も俺もここで死ぬ事になるぞ――』

非情にさえ聞こえる――いや、実際に暁は悪魔だ。人の生き死には宿主でなければ大した興味も抱かない。人間が虫の命を考えるような感覚だ。

「こんなんになるなら、最後までお前の警告を聞いておけば良かった――」

拾い上げたナイフを手に、シンが呟いた。その顔にあったのは、諦めと罪悪感。握り締めたナイフは自らの血で濡れていた。その刃を、まっすぐ向かってくる魔物に向かって突き出す。嫌な手応えがシンの右手から伝わってきた。生暖かい液体が体に降り注いでくる。強く右手にぶつかってくる衝撃は魔物の体を引き裂き、貫いていった。シンは目を瞑っていた。見られなくて、見ていられなくて、固く瞼を閉じていた。

 ドサッと、落ちた。ナイフを手から落とし、シンはその場に膝から崩れた。手に残る感触は、命を奪ったもの。自分がおぞましくて、怖かった。起こった出来事を否定するようにゆっくりと首を左右に振り、頭を抱える。胸をきつく締め付ける罪悪感がすぐに彼を襲った。

「何で……俺が……」

そう、シンが小さく呟いた時だった。

「ぅ……あ……」

途切れそうな声がシンの耳に入ってきた。はっとして魔物を見ると、異形だった姿が人型に戻っていた。男が見開いた目でシンを見ていた。

「見るな……俺を見るな……。てめぇが俺を襲ったからだ……」

「ぁ……りが……と――」

およそ、もう息なんか出来ていなかったのだろう。それでも、男はそんな言葉を何とか吐き出した。その言葉にシンは耳を疑い、信じられないとばかりに目を丸くした。だが、もう、男は完全に事切れていた。唖然としながらシンが死体を見つめていると、突然、男の体が灰のように崩れ始めた。そして一際強い風が吹いて、男の死体はそこから消えてなくなっていた。およそ、生きていた痕跡というのがなかった。男の血も、着ていたジャージの切れ端の布も、全てが灰となって風に攫われていた。

 「何なんだよ……?」

訳も分からずにシンが呟く。完全に、男が消え去ってしまったのだ。にわかに信じがたいが、目の前でそれが起こり、それを認識している。たまらなく恐ろしくなり、シンは震えだした。寒さとは違う。純粋な恐怖による震えだった。

『魔物となり、その命を絶たれた者はその身を悪魔の世界の業火で焼かれ、灰となる。嫌ならば生き残れ。それが俺の望みでもあり、お前の――』

「黙れ! 黙れ、喋るな、話しかけるな! もうこりごりだ、こんなの嫌だ……。堪えられねえよ……」

暁を遮り、シンが叫んだ。目から涙がこぼれ、頬を伝う。手に掛けた男は、多くの人を殺してはいた。でも、殺しは殺し。どんな悪党だろうとも、手に掛けたという事実がシンには重過ぎた。胸を締め付け、頭から、肩から、全て、全身に重く圧し掛かり、錘をつけた海中を歩いている気分だ。

『悩むのは結構。立ち止まるのも結構。だが、逃げ出すのはこの俺が許さん。俺を呪いたくば呪え。自身を呪いたくば呪え。運命を呪いたくば呪え。だが、尻尾を巻いて背を向け、逃走する事は許さん』

「黙れって言ってんだ!」

叫び、シンは右手首のブレスレットに気がついた。それが急に忌まわしく見えてきて、嫌悪感がみなぎる。乱暴に、それを外そうとした。だが、手首に引っ掛かって外れようとしない。目に付いたナイフを手に取り、ブレスレットに刃を立たせた。力の限りに振り落とすが、ブレスレットで刃が滑り、手首を深く傷つける。痛かった。ナイフを落とし、大粒の涙を流しながら手首を押さえる。痛みに悶える自分も、泣くしか出来ない自分も嫌だった。

『人目につく。その場を離れろ』

「嫌だ……」

『俺の言う事を聞かないのか?』

「聞くか……聞くもんか……」

『そうか、ならば強硬手段を取らせてもらうぞ――』

暁の声がシンの頭の中に響き、急に意識が遠のいた。だが、それに逆らってシンは出来上がったばかりの手首の傷に指を押し当てて痛みで意識を繋ぎとめようとする。しかし、それも無意味だった。痛みを覚えたまま、シンは暗い意識の淵に落ちていくのを、感じ取った――。

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