其処は悪魔と少年の世界
「ここ……どこだ?」
少年は呟いて、周囲を見た。前方、ずっと暗闇。後方、同じく永遠と暗闇。右、果てのない黒一色。左、奈落の底かと思えるくらいに真っ暗闇。上、最早黒としか表現のしようがない暗闇。
『ようこそ、影宮真吾。俺の居住地へと』
先ほどの声がし、少年は肩越しに後ろを振り向いた。そこには若い男性がいた。年は二十歳半ばくらいだろうか。仕立てのいい漆黒のスーツに身を包んだ身なりのいい男性だ。黒いシャツ、黒いタイ、黒いズボンに、黒い上着。綺麗な顔は整っていて、すらっとした彼の体格はまるでモデルだ。黒曜石のような黒色の瞳、濡れた烏のような艶やかな黒色の髪。その男性は黒を象徴としているかのような出で立ちだった。だが、切れ長の細い目にはどこか近づきがたい雰囲気が感じられる。
「何で、俺の名前……」
驚きに目を丸くして少年が呟いた。男性はにやりとした笑みを口元に浮かべ、目を細める。
『すでにお前は俺から切っても切り離せない関係になった』
「……どういう事だよ?」
幾分、眉をひそめて少年は尋ねた。すると、男性が大仰に腕を広げ、大衆に語るような口調で話し出した。
『俺はきちんとお前に警告をした。箱を開けたらとんでもない事に巻き込まれていく、とな。ところが、お前は何の躊躇いもなしに、好奇心のまま、箱を開けてしまった。あの箱がどういった物かも知らぬままにな。今から、簡単に説明をしてやろう。一応、端折るつもりではいるが、何も知らないお前に説明をする訳だから長くなってしまうかも知れぬな』
男性が言って、右手を挙げた。そして、パチンと指を鳴らすと少年の真後ろに突如として一人掛けのソファーが出現した。それに驚き、少年は男性を凝視した。
「……マジシャンか?」
『いや、違う。まあ、掛けるといい。俺はこう見えても親切だからな。何なら、茶と菓子でも出してやろうか?』
「いや、いい」
何だか信じられなくて、少年は恐る恐るといった様子でソファーに座った。ふかふかで、体が尻から埋もれてしまう。少し前屈みに座り、男性を見た。
『話を続けよう。まず、俺という存在を教えてやろう。名はないが、俺は悪魔と呼ばれる存在だ』
「はぁ?」
胡散臭いとばかりに少年の眉間にしわが寄った。とても信じがたいが、とりあえず今は黙る事にした。
『そして、お前は俺の下僕――いや、運命共同体、とでも言っておいてやろうか。悪魔の俺とお前は契約を交わしてしまった。だから、お前が死ねば俺も死に、俺が死ねばお前も死ぬ事になる。まずはこれを絶対に忘れないようにしろ』
「……あんた、頭、大丈夫か?」
『無論だ。俺は全知全能の悪魔神様だぞ? お前はまだまだ生まれたてだが、俺はお前の何万倍も生きてきたんだ』
「生まれたてだぁ? 俺はもう十七だ。訂正しやがれ」
『たったの十七年ではないか。俺はお前の先祖が人でなかった頃から存在しているんだ。それに比べたら百年、二百年でさえもうたた寝に過ぎないんだぞ? お前の生きた十七年など、欠伸をしている時間も同様だ』
「……」
どうにも訳が分からず、少年は面倒になって黙った。ふむ、と顎に触れ、男性はまた話を続けた。
『やはり、信じられないか。まあ、最初はそのようなものだ。その内、これが現実なのだと気付くだろうな。――さて、まずは契約の確認からしよう』
「契約?」
『そうだ。悪魔たる俺は、残念ながら人間と共に居なければ目的を達成する事が出来ぬのだ。だから、宿主――今の俺にとってのお前だ――に能力を貸し与えて、目的達成の為に尽力を尽くしてもらう』
「おい、その言い草だと俺は、何か? 良いように利用されるだけじゃねえか。よくは分からねえけど、俺にメリットがなくて、お前にはメリットがあんだろ?」
『おお、頭がなかなか動くじゃあないか。関心したぞ』
どこか小ばかにしたように男性は言った。どうも喋り方が偉そうだ。
「うるせえ。とにかく、俺は誰かに良いように利用されるなんてごめんだぜ。さっさと諦めちまえ」
『それが、そうも行かないんだ。すでに契約をしてしまったからな。破棄したいなら、してもいいが……お前の魂を献上してもらうぞ?』
「知るか! 俺はお前みたいなのと何の約束もした覚えはねえ!」
『何を今さら言っている? 箱を開けたではないか。あれは封印だと言っただろう? その封印の解除は、つまり、俺との契約を意味しているんだ。説明してやろうと思ったのに、さっさと封印を解いてしまったのだから今さら文句なぞ、受け付けないぞ』
男性が少年に歩み寄り、黒曜石のような瞳で少年の目を覗き込んだ。すると、少年は今までに感じた事のない寒気を背筋に感じた。凍り付いてしまうかのような、猛烈な寒さ。怖いとさえ思えた。
『続けるぞ?』
少年の後ろに回り、肩に両手を当てて揉みながら男性が言った。大して気持ちよくもないが、別に不快でもないから少年は拒みはしなかった。
『俺の目的の達成の為には、俺の魂を黒く染めなければならない。どうやったら、染まるか。これが、お前にしてもらう事だ』
ソファーを回し、少年を自分に向かせて男性がにやりと口元を歪めた。
「……んだよ?」
『他の悪魔の魂を頂く』
その言葉に少年は眉をひそめた。悪魔など、目的などと言われても少年は理解出来ていなかった。
『まあ、話は最後まで聞くがいい、影宮真吾。先ほど、お前は言っていたな。メリットがない、と。だが、それが在るから、契約なのだ。お前の願いを何だっていい、俺が叶えてやろう。だから、俺の目的に強力をするんだ』
「願い……?」
『そうだ。在るだろう? 例えば、世界を崩壊させたい、とか。一生を遊んで暮らせるだけの金が欲しい、とか。ハーレムを築きたい、とか。独裁者になりたい、とか。どんな事をしても自分だけ罪にならない世界にしたい、とか。死者を生き返らせようと、不老不死を願おうとも、いい。俺を殺したい、という願いだっていいさ。俺の目的が達成された時に、お前の願いを何だって叶えてやる。それが――メリットだ』
男性が身を乗り出し、少年にぎらついた黒い瞳で言った。どこまでも黒くて、吸い込まれそうになる。その目を見ているだけで、急に男性の言葉を信じられない気持ちは失せていった。
「……じゃあ、聞くけど、他の悪魔の魂を頂く、って言ったな? 実際にはどうするのか教えろよ。方法も分からない事を、はい、やります、って言う程、俺は馬鹿じゃねえんだよ」
『もっともだな、悪かった。きちんと説明をしよう。そもそも、悪魔とは何か? お前はどう思っている?』
少年から目を放し、男性が尋ねた。問題を出す教師のような態度だ。
「悪魔っつーと……そうだな。漠然としてっけど、悪い奴、って感じか?」
『なるほど、なるほど。そういう点は別に変わっていないな。では、答え合わせをしてやろう。お前の答えは、全くもってはずれだ。一文字たりとも合っていない』
言い切り、男性はやれやれ、とばかりに肩をすくめて見せた。その仕草に少年はまた眉をひそめる。悪魔とか言っておきながら、言動が全然それらしくないからだ。
「んじゃあ、何だよ?」
『悪魔とは人間の味方だ。……基本的には、な。だが、悪魔のついた宿主が悪事を働く事が多い。そうなると、悪魔が悪いとされてしまう訳だ。悪魔が宿主に何をするのか、説明しよう。……悪魔は、宿主に能力を与える』
「能力?」
『そう、能力だ。だが、これは宿主が他の悪魔の魂を頂く度にしか、与えられない。最初は別なんだがな。まずは一つだけ、お前に能力を与えてやる。有難く思え』
男性が少年の頭に手を置いた。身構えて、数秒。男性が少年から手を離した。
「……何かしたか?」
『したとも。お前に能力を与えた』
「どんな……?」
『身体能力の上昇だ。それについていける反射神経もな。必要に迫られたら、能力も発動出来るだろう。では、今から本題に入る。悪魔に憑かれた宿主同士は引かれ合い、戦闘を繰り広げるだろう。そこで、お前は何度も死にかけるだろうが、絶対に死ぬな。俺まで消滅してしまうからな』
いいな、と少年に確認して男性は言った。確認というよりは、念押しに近いのだが。
「お前は何もしねえのかよ?」
『してやりたいが、出来ないから宿主が必要なんだ。分かれ』
「まだ、完全に信じられねえけど……」
『嫌でも現実だと分かるさ。そうそう、箱だがお前の携帯しやすい物に形を変えよう。何がいい? アクセサリーにでもしてやるか?』
「……何で携帯せにゃならん?」
怪訝そうな顔をして少年が問うと、男性はふむ、と顎に触れた。
『お前と俺は運命共同体。ならば、常に共に居るのが道理だとは思わないのか?』
「思わねえ。見ず知らずの、悪魔、なんて言ってる野郎と一緒に居たくねえよ」
『そう言うな。勝手にお前が契約しちまったんだから仕方がないだろう。希望がないならば勝手に形を決めるぞ。――そうだな、ブレスレットにでもしてやるか』
そう言って、男性は指先を動かして何かを描くようにした。
「名前ないのって不便じゃねえの?」
『ん? おお、そうだな……。じゃあ、暁、とでも名乗っておくか……。お前は真吾、だからシンだな。いいな、シン』
「暁、ねえ……。大仰な名前」
へっ、と鼻で笑ってやって少年――シンは欠伸を一つした。
「ん……何か眠くなってきた……。っかしーな、学校で存分に寝たつもりだったのに」
『さあ、そろそろ戻れ。ここは俺の居場所だ』
シンの頭を軽く叩き、暁が言った。え、と聞き返すと急にシンは眠くなってきた。そのまま意識が遠のいていって、そのまま深い眠りに落ちていった――。