77話 泡沫の記憶
この宇宙は、膨張のビッグバンと収縮のビッグクランチを繰り返している。
宇宙がビッグバンを引き起こした事実は、人類が直接目撃したわけではないものの、既に確信に足る事象である。
だがビッグバンの果てに何が起こるのかは、暫くは確信に至らなかった。
宇宙は膨張を続けるのか、膨張と物体同士の重力が引き合う力が釣り合うのか、それとも引き合う力が勝って宇宙が収縮に転じるのか。
魔素機関が発明される以前の人類が有力視したのは、宇宙が膨張し続けるビッグフリーズ説であった。
宇宙が膨張し続けるビッグフリーズ説とは、宇宙を膨張させるダークエネルギーの力が勝るために、宇宙は広がり続けるというものだ。
膨張によって宇宙は引き延ばされて、次第に密度が薄れていき、やがて新たな星が生まれなくなって、古い星も寿命を迎えて消えていくだろう……と、当時の人類は考えていた。
ビッグフリーズ説が間違っていると確信したのは、西暦2487年に人類が魔素機関を発明して、ダークエネルギーを活動エネルギーとして利用できるようになった後である。
ダークエネルギーとは、人類が星間船や制圧機などのエネルギーに利用できて、限りのある資源だ。
現代の人類では、宇宙に存在する膨大なダークエネルギーを消費し切る事は不可能だが、数十億年から数百億年単位で文明を発展させ続けて、宇宙全体に進出した後は話が異なる。
宇宙を膨張させていたエネルギーは人類の手により枯渇して、やがて宇宙は収縮に向かうだろう。
だが破滅的な未来が見えたところで、使用は制限できない。
なぜなら宇宙が膨張して薄れていき、周囲にダークエネルギーしか利用できるエネルギー資源が存在しなくなれば、何もせずに滅びるか、エネルギーを利用して延命するかの二択しかないのだ。
それに生物は、環境適応する。
人類に既知の様々な生物達は、置かれた環境下で生き延びるために、多種多様に進化してきた。
人類がダークエネルギーを使わなくても、宇宙に発生するであろう数多の宇宙生命体が、やがてダークエネルギーを使えるようになって、必ず使い出すだろう。
人類のルールが適用されない宇宙生命体に、ダークエネルギーを使わせないように強制するためには、結局のところエネルギーを使って物理的な手段を取らざるを得ない。
これらによって人類は、宇宙の終焉について、宇宙が膨張し続けて滅亡に至るビッグフリーズ説から、収縮に至るビッグクランチ説へと、有力視する説を見直したのであった。
ダークエネルギーが減少すると、宇宙は膨張から収縮に転じて、やがてビッグクランチが引き起こされる。宇宙を引き寄せていく収縮、すなわちダークマターの力が、消費によって減少したダークエネルギーに勝るためだ。
そうなれば宇宙は、膨張から減速に転じて、やがて宇宙が膨張していた頃から逆再生で巻戻るように収縮していく。
最終的に宇宙は、中心ブラックホールに全てが引き込まれて、宇宙全体が1つの特異点となり、そこから次のビッグバンが発生して、新しい宇宙が誕生する。その現象は、ビッグバウンスと呼ばれている。
この宇宙は、膨張のビッグバンと収縮のビッグクランチを繰り返している。それが人類にとっての定説となった。
それから少しだけ時間が経過した人類社会において、収縮説を前提として、さらに踏み込んだ考え方を持つ男が現れた。
『宇宙はビッグバウンスを繰り返すとして、今が最初の宇宙では無かった場合、前宇宙以前の生命体は、単純に全てが滅びたのかな。多元宇宙や高次元空間に逃げ延びられた可能性は高いと思うけれどね』
前宇宙以前の生命体を想起した男の名は、ヨーゼフ・カーマン。
前宇宙以前が何度か存在したのであれば、膨大な宇宙空間と数千億年もの年月を経て、1種族としてビッグクランチを生き延びられなかった可能性は極めて低い。
すなわち前宇宙の存在が、ビッグクランチを生き延びたはずだ、と、カーマンは考えた。
そして前宇宙の存在が居るのであれば、活動エネルギーを欲するはずである。
生命体に必要なエネルギーは、生存や遺伝子継承などの必須エネルギーが最優先で、次いで必須以外の余剰エネルギーになる。余剰エネルギーは、それが娯楽であろうとも進化の可能性を生み出すために、決して無駄とはならない。
カーマンは、ビッグクランチを乗り越えた超越的な存在が居ると仮定した上で、人類の手元に存在する幾つかのオーパーツから、それらの存在が現宇宙に何らかの価値を見出していると考えた。
そしてカーマンは、自らがそれらの協力者となる意志を伝えるべく、様々な交信を試みたのであった。
おそらく多くの先人達が、極小の確率に順当な敗北を喫してきたであろう行為は、カーマンが行ったタイミングで実を結んだ。
精霊という高次元生命体との接触に成功したカーマンは、彼が理解出来る形に置き換えられた事象に触れる機会を得たのである。
それはカーマンと契約した精霊神にとって、ほんの少しだけ昔の出来事だった。
その宇宙には、終焉が訪れていた。
膨張による赤方偏移の赤光が、収縮による青方偏移の青光に転じている。
宇宙の中心部に引き寄せられた、数多の銀河が衝突し合って、各銀河の中心核であったブラックホール同士が融合していく。
ブラックホール同士が融合した宙域の周辺には、巨大な重力波が放出されており、数多の惑星や、惑星規模の巨大建造物を粉々に粉砕していた。
最初に緩やかだった収縮の速度は、引き寄せられて加速を続けた結果として、既に光速を超えていた。
宇宙の中心点から必死に逃げ続ける数多の文明は、この宇宙からの干渉を受けない高さの次元までの壁は越えられずに、各々の技術力に見合った無益な抵抗の果てに、特異点へと引き摺り込まれていった。
「……駄目だったね」
とても簡単なのに……と、自らが導いた種族が最期に供した瘴気を受け取ったジルケは、消えゆく文明を泣き笑いの表情で見送った。
愚かな文明を弁護するのであれば、ビッグバウンスは、規模が大きいほど純度が落ちて、生命体が次元の壁を越えられる可能性も下がってしまう。かつてジルケ達には簡単だった事が、繰り返されるごとに困難さを増していた。
宇宙が、劣化再生産されていくようなものだろうか。
だが根幹において、ジルケ達は手を貸してはならない。
単なる被保護者を増やして、自分達が得られるエネルギーを分け与えても、ジルケ達にとっては足枷になるのだ。それは出来ない事だ、と、ジルケ達は共通認識を持っている。
そしてジルケが見守ってきた文明は、あと少しで次元の壁を越えられるところまでは達していた。
種族の中でも、飛び抜けた才能を有する生命体が現われて、その個体が育てた沢山の弟子の1個体が境界の縁に手を掛けて、その先に居るジルケ達に姿を見せるまでに至ったのだ。
もしも種族全体が協力していれば、その種族は滅亡を避けられる次元の高さまで届いていた。
それが惜しくて、ジルケは矮小な低次元生命体の文明に入れ込み、結果としてエネルギーを浪費しすぎた。
宇宙全体に広がったそれらを守るエネルギーを捻出するために、自らの力を消費していった結果として、此方における邪霊とのエネルギーの奪い合いに負けたのだ。
身を削って守ってきた文明も、結局は次元の壁を越えられずに引き裂かれた。
全てを失ったジルケが手にしていた水晶の剣は砕け散り、かつて赤かった髪の色は、赤方偏移から青方偏移に変わったかのように、反転して薄い青に染まっている。最早、ジルケには取り返しが付かない。
「マリエルの魔力を回収できたことが、唯一の収穫だったわね」
力を失って存在が薄れたジルケの隣で、同様に薄れた金髪を乱し、目を閉じて開かない女性が、優しく囁いた。
隣に立つ女性に泣き笑いの表情を向けたジルケは、自分と同じくらい精霊として終わりかけた彼女に謝罪した。
「無理させて、本当にごめんね。エーベルまで、邪霊になっちゃうね」
薄い金髪の女性は、ジルケの声がした方向に瞳を閉じた顔を向けると、穏やかに微笑みながら首を横に振った。
「別に。切っ掛けがジルケであろうとも、わたし自身が入れ込んだのだから、仕方が無いわよ。わたしも、テイアは回収したから」
ジルケが謝罪する間にも、精霊と邪霊が特異点を渦巻き、終末宇宙を攪拌しながら、数多の瘴気を呑み込んでいた。
その中でも一際大きな紫の巨大な渦巻きが、四方八方に渦を伸ばして、触れた瘴気と邪霊を強引に吸い込んでいく。
その様子を見ながら、ジルケが空虚に呟いた。
「効率主義って、あたしは嫌いかな」
固有名詞を出さずとも、周囲の魔素の流れから誰を指しているのかを察したエーベルは、宥めるかのように補足した。
「イナンナ様は、黒の精霊を生み出したいそうよ」
「黒って、魔素を生成できる精霊を作りたいの?」
「そうみたい。それも精霊神の規模で」
エーベルの肯定に、ジルケは唖然とした。
精霊である彼女達は、本質として各々が属性を有している。
それは色で表されて、ジルケであれば赤、エーベルであれば金だった。
属性自体に優劣は存在せず、単に性質が異なるだけだが、強いて挙げれば特異点で暴れている紫は2属性で発現が難しいとされている。
また暗黒物質やダークエネルギーの属性となる黒は理論上の性質で、ジルケも実際に目にした事は無い。
黒が生まれれば、1つの宇宙という規模で、無限に続く循環型の箱庭を創造できるとされる。つまり、安定した宇宙を1つ作れる。被創造物が、創造主を上回る事になるのだ。
そのような非現実的な夢に向かって邁進する紫の精霊神に対して、ジルケは呆れ果てた。
「なんだ。効率主義じゃなくて、夢想家だったのね」
ジルケが見つめる彼方、一方的に周囲を蹂躙していた紫の渦に向かって、僅かに青色の残る白銀の霧が、数多の首を持つ白竜に変身して迫っていった。
「これからは、邪霊神マレーネ様とお呼びしなければいけないわね」
「ごめんね」
ジルケが謝り、エーベルが首を横に振る。
2人が意識を向ける遥か先では、数多の首が別々の紫の渦に伸びて、噛み付き、宇宙の特異点で力尽くの引き摺り合いを始めていた。
宇宙が軋み、断末魔を響かせていく。
「相互変換が釣り合ったみたいね。それじゃあ、次の宇宙で会いましょう。今よりも広がって、純度が落ちて、可能性も下がった宇宙でしょうけれど」
最期の言葉を発したエーベルは、僅かに残っていた金の輝きを散らせるように、全身を砕け散らせた。
散り散りになった金色の輝きは、白色に変色してから再び集い、短剣の姿を作り出す。短剣の周囲には、先程まで精霊だったエーベルの姿をした白い女が、ぼんやりと浮かび上がった。
再誕したエーベルは、かつて閉ざしていた瞼をゆっくりと開いて真っ赤な瞳を見開くと、短剣を掴み、全身を霧のように霞ませていった。
霧となったエーベルは、急激に膨れ上がり、やがて水竜へと変化して、宇宙の特異点に向かって泳ぎ出した。
宙域を掻き分けて進む水竜は、周囲の瘴気を取り込み、周辺の精霊を切り裂いて喰らい、狂騒の宙域へと身を投じていく。
その様を見届けたジルケは、自らも瞳を閉じて呟いた。
「どうしてマリエルの邪魔をしたのかな。それさえ無ければ、辿り着いていたのに。滅びなかったのに。だから低次元生命体なんて、大嫌いだよ」
ジルケの脳裏に、境界を越えた少女の姿が過ぎって消えていった。直後、ジルケが掴んでいた水晶の剣が砕け散った。
ジルケが握っていた剣の柄が伸びて、錫杖へと変わり、砕けた水晶は錫杖の先端に纏わり付いた。
錫杖を掴むジルケは、白い修道服のような衣に灰色のマントを羽織って、額飾りを付けた、赤紫の瞳を持つ色褪せた髪の女へと変貌していた。
再誕した邪霊帝ジルケは、霧のように溶けていき、やがて甲殻と刺に覆われた蛇竜のような姿となって、特異点に向かって静かに泳ぎ始めた。