116話 猛禽類とハリネズミ
以前ハルトは、ユーナの上級精霊シャロンから例え話を聞いた。曰く、精霊王と上級精霊との力の差は、太陽と木星であるらしい。
2つの星は、大きさでは10倍、質量では1000倍の差がある。
シャロンが語った力の差について、ハルトは過大な表現だとは思わない。
精霊王は、恒星系に高次元との界を繋げ、此方のエネルギーを取り込み、上級精霊が活動可能な精霊結晶すらも生み出す。上級精霊と比べて、明らかに隔絶した力を持っている。
それでは精霊王と精霊帝では、一体どれ程の差があるのか。
精霊帝を誕生させるには、精霊王3体分のエネルギーが必要と思われる。
精霊神の結晶体1割は、マヤを精霊王級の力で誕生させたエネルギー量である。
そして精霊神の精霊結晶から2割ずつのエネルギーと、火星の半分ずつを使って、ルルとマヤは精霊帝に昇格した。
従って精霊帝に至るには、精霊王のエネルギー3体分が必要だというのが、ハルトの計算だ。
もっとも精霊帝の力が、精霊王3体分の足し算だとは限らない。世の中には、掛け算や、化学反応も存在する。
(精霊王と精霊帝の力の差も、太陽と木星くらい有るのか)
そんな精霊帝から次の階位に到るには、どれ程のエネルギー量が必要なのだろうか。
精霊王3体分のエネルギーで精霊帝に至れるのであれば、精霊帝3体分のエネルギーで、次の段階に至れるのだろうか。
力が化学反応だとすれば、昇格自体に要するエネルギーは少ない可能性もある。精霊帝の後が精霊神なのか、それとも間に他の階位を挟むのか、それすらもハルトは知らないが。
そんな風に妄想するハルトの眼前で、黒の精霊帝マヤは、屠った邪霊帝を吸収し尽くした。
『お待たせしました。それでは逃げましょう』
逃げなければならない事は、ハルトも理解していた。
マヤが邪霊帝を吸収する間、ハルトは要塞周囲の敵味方残存戦力を算出させつつ、白の精霊帝ルルがアポロン星系に再接続した転移門から、要塞の偵察艦を報告に送り出している。
ヘラクレス星系に展開していた味方戦闘艇は、邪霊帝が行った自爆のような道連れに巻き込まれて全滅しており、敵は2億艇が残っている。本国にはイスラフェル6000万艇が残っているが、敵側も天都星系に部隊を残しているはずで、勝ち切れるのかは微妙な状況になっている。
そして戦力以前の問題として、ヘラクレスから見える周辺宙域の星の光が、要塞に記録されている天の川銀河のものとは全く異なっている。
このままヘラクレス星系を領域化するのと、撤退するのと、果たしてどちらが良いのかとハルトが悩む間、ヘラクレス星系に邪霊側の転移門が出現したとの報告が上がった。
「天都からの増援か?」
倒した邪霊帝の代わりに、領域を展開した邪霊王が、天都との転移門を繋いだのか。
そのように常識的な思考を行ったハルトに対して、マヤは無慈悲に否定した。
『あの転移門は、こちらの銀河にある領域と繋がっています』
『アンドロメダ銀河に存在する、人類とは発祥が異なる文明の集団ですね』
マヤに続いて、ルルが衝撃的な補足をした直後、転移門から多数の物体が飛び出してきた。
それらは、全長800メートル程の物体が数百個、全長5000メートル程の物体が8個であり、ヘラクレス星系に飛び出すと直ぐにシールドが消えて、邪霊の反応を示す1隻を除くと魔素変換反応を示さないままに、星系内を航行し始めた。
『ヘラクレス星系を新たに領域化した邪霊王は特異で、しかも邪霊帝に昇格しましたから、転移門の妨害は無理ですよ。新しい邪霊の軍艦は、パパ達よりも進んだ技術で動いていますから、王国軍の増援を呼んでもパパ達が負けます』
「要塞、至急反転しろ。友軍は全滅している。当星系から、最大船速で離脱しろ」
司令部の要員達に向かって叫んだ直後、ハルトはケルビエル要塞の魔素機関へ魔力を送り込んで、要塞の出力を一気に引き上げた。
「ルル、最後にもう一度転移門を繋いで、偵察艦をアポロン星系に出してくれ。クラウディア、攻略作戦中止を本国に連絡しろ。邪霊と組む先進異星文明と遭遇、状況が変化したと伝えるんだ」
『それくらいなら大丈夫です』
「はい、了解しました」
精霊帝ルルが、星系を支配した新たな邪霊帝の干渉を妨害しながら転移門を開き、クラウディアが要塞から発進させた偵察艦をアポロン星系に送り出した。その間に精霊帝マヤは、推進機関とシールドの出力を補助して急加速を始める。
精霊帝2体で来て良かったと心底思ったハルトは、姉妹に追加で依頼した。
「逃げ切れなければ、邪霊帝の領域内でもワープしてくれ。精霊神のエネルギー結晶体も使って良い」
『分かりました。引っ張られた時の知覚では、この銀河には、1割から2割ほどの範囲に邪霊が広がっているようでしたから、反対側に逃げますね。でも直ぐに艦隊が飛んでくるのは、それが必要な証拠ですから、対抗勢力もあるはずです。パパ、それで良いですか?』
「そうしてくれ」
一瞬だけ逡巡したハルトは、直後にはルルの提案を全肯定した。
判断の決め手は、ハルトを精霊化させて長く付き合いたいと望むルルが、わざわざ恨まれる真似をするはずが無いという特殊な事情だった。
総参謀長以下が慌ただしく指示を飛ばす中、ハルトは改めて、ルルの発言に思考を巡らせた。
アンドロメダ銀河は、円盤部を含めれば直径が26万光年に及ぶ。その1割が進出領域だとしても、邪霊を有する文明の版図は、直径2万6000光年に及ぶ。
対する天の川銀河の人類は、直径2000光年の範囲に進出している。
従って遭遇したアンドロメダ銀河の文明は、人類の13倍も版図が広がっている事になるのだが、これを単純計算で13倍だと考えてはならない。
直径が13倍の球体であれば、体積は約2200倍になる。円盤状の銀河では球体状に広がれないが、それでも数百倍の恒星系は支配する超文明と考えなければならない。
(人類が、直径2万6000光年の宇宙で暮らすようになるには、何千年掛かる?)
それは人類の国家数や国家形態、他国家との関係性、恒星間航行技術の進歩によって変化する。
その中でも、互角の星間国家同士の戦争は、星間進出に重大な悪影響を及ぼす。
戦争中は、全てのリソースが敵と潰し合うエネルギーに変わるために、進出が大きく妨げられるのだ。
王国と連合との戦争再開前、人類は21個の居住可能星系に進出していた。
だが戦争再開から6年で、旧連合4星系、天華4星系、共和国3星系が破壊された。新たに進出したヘルメス星系を足しても、人類の居住可能星系は11個に減っている。
さらに総人口は、ヘラクレス星人を除いて3分の1以上が失われている。
自滅すら疑うほど甚大な犠牲を出した人類が、直径2万6000光年の範囲にまで満遍なく進出するには、数千年では済まされない時間を要するのではないか。
それを踏まえると、2万6000光年にまで広がった相手文明は、人類とは隔絶した遥か未来の技術を有していると考えられた。
「アンドロメダ銀河には、精霊と契約する文明は無いのか」
『ありませんよ』
ルルの断言に、ハルトは最悪の事態を想像した。
それは邪霊を有するアンドロメダ銀河の勢力が、ヘラクレス星系の転移門から天都星系の転移門を通過して、天の川銀河にまで押し寄せてくる未来だ。
版図が直径2000光年と2万6000光年の文明間では、技術レベルが違い過ぎて勝負にならない。
辛うじて差す光明は、王国の8星系が精霊帝と精霊王で領域化している点だ。
ヘラクレス星系の邪霊帝が行ったように、領域の支配者達は不遜な侵入者を弾き出してくれるかもしれない。
だが恒星系の周囲を超文明の軍隊に囲まれれば、人類の未来は鳥籠の中の鳥である。
だからこそ本来は干渉しない精霊のルルが、邪霊の対抗勢力に接触しろと踏み込んで勧めたのだ、と、ハルトはようやく理解した。
「早く邪霊の対抗勢力に接触して、技術情報を得ないといけないな。邪霊の脅威があるのなら、こちらから出す対価は、精霊結晶になるのか。理解するのが遅くて、すまなかったな」
ハルトは右手を伸ばして、ルルの白い頭を優しく撫でた。
するとルルは、猫のように頭を伸ばしてハルトの右手に押し付けながら、僅かに目を細めた。
特異な精霊帝には、集団行動の逸脱が可能だからか。それともハルトが、精霊帝の父親であるとか、将来の精霊化に前向きであるとか、尋常ならざる特殊な条件を満たしたからか。
あるいは他の何が理由であるにせよ、ハルト達は訳も分からないままに、先行文明から鏖殺される未来を回避した。
もっとも最初の危機を回避したからと言って、危機が過ぎ去ったわけでは無い。
ケルビエル要塞が発した多次元魔素変換観測波は、敵の異常反応を察知していた。
転移門を飛び出した物体の1つに観測されていた魔素反応が、恒星ヘラクレス付近で2つに増えた後、そのうち1つの反応が、ケルビエル要塞側に向かった360隻のうち1隻に、一瞬で跳んだのだ。
それは星系内でワープでも行ったような突然の現象だった。
『あっ、邪霊の反応が跳びましたね』
『契約者が量子化した身体を光速で移して、それに邪霊が付いていったのでしょうか』
『きっとそうですよ。でもそうすると、魔力を基に契約出来ませんから、艦に瘴気を発する生命体を乗せて、エネルギー供給源にしているとかでしょう。邪霊特有ですね』
ルルとマヤが索敵しており、確信を以て邪霊が跳んだと断言する以上、契約者と邪霊が軍艦を乗り移ったと考えるべきだった。
思考しなければならない事が次々と増えていく。
だが優先すべきは離脱であると考えたハルトは、司令官席の背もたれに身体を預けながら、睡眠が不要になる薬物を投与するタイミングを計り始めた。
一方でベルトラン以下の司令部要員も、契約精霊に向けたハルトの言葉から、事態を概ね推察していた。
すなわち現宙域がアンドロメダ銀河であり、当該銀河を発祥とする複数の先進文明が存在する。
そのうち最低でも1文明が邪霊を有しており、ヘラクレス星系にある邪霊の転移門を使って出現して、ケルビエル要塞を追撃してきた。
「敵の追撃速度、時速10億キロ以上に上昇。光速の90%を超えております。魔素機関とは全く異なる出力機関で航行しているものと思われます」
司令部が受けた衝撃は、とてつもなく大きかった。
ハルトのように、戦闘指揮を行えるほどの精神的な復調を果たした者は極小だったが、それでも将兵は、条件反射的に対応を始めた。
現在のヘラクレス星系には、推定10億艇もの戦闘艇が、無数の残骸と化して吹き荒れている。
それら残骸は魔素反応を発していないために、多次元魔素変換観測波でも調べる事は出来ない。
そんなミサイル群が飛び交う機雷原のような危険宙域をものともせず、光速の90%以上という爆速で突き進んでくる相手は、人類よりも遥かに高い技術力を持つと考えざるを得ない。
進行方向に向かって常時砲撃を行い、障害物を排除しながら進んでいるのか。
それとも障害物を光速で探知した後、10%の差分で回避できる能力なのか。
あるいは人類が作った戦闘艇の密度と質量では、艦体に損傷を受けないのか。
ハルトが採った対抗手段は、同じく速度を上げる事だった。
「当要塞の速度も、時速10億キロまで上げろ。それと追撃隊と敵の戦闘艇に向けて、核融合弾を継続発射、機雷も撒け。上下左右には無人艇を飛ばして、敵が少しでも分散しないか試してみろ」
ハルトは、ケルビエル要塞の速度を上げさせる命令を出した。
2億艇近くも無防備に浮いている天華の戦闘艇に向けて核融合弾を撃ち、敵の優先順位を変えられないかと試みた。
敵に向かって撃たせる核融合弾と機雷は足止めだ。追撃目標を増やして、攪乱するために、無人艇も発進させた。
ベルトランは命令の全てに応じながら、速度を上げる危険性を警告する。
「元帥閣下、脱出方向に何か巨大な障害物があれば、当要塞が損壊してしまいます」
宇宙漂流物には魔素反応が無いために、速度を出しすぎれば、障害物を発見しても回避できない。
ケルビエル要塞の脱出方向には、戦闘艇の残骸は無いが、万が一のまぐれ当たりでケルビエル要塞は容易に損壊する。それでもハルトは、速度の上昇を命じた。
「今の我々は、空から急降下してきた猛禽類から逃げるネズミだ。掴まればどうなる。全力で走れ」
人類に対しては強力無比なケルビエル要塞も、先進文明に対してはネズミでしか無かった。
ネズミの走行速度は遅く、空も飛べない。視界が狭く、活動範囲も限られる。前方に小石が有れば躓くだろうが、それでも全力で逃げなければ、確実な死が待っている。
但しケルビエル要塞は、単なるネズミではなく、身を守る針を全身に生やした巨大なハリネズミだ。
巨大なハリネズミは追撃者達に向かって、数千万発の核融合弾を継続的に撃ち放った。そして置き土産とばかりに、機雷群を展開していく。
やがてヘラクレス星系から離れるケルビエル要塞の背後に、巨大な光点が次々と現れた。
「核融合弾、敵の追撃隊と接触した模様。ですが、追撃隊に確認されている魔素機関の反応は消えません。発生した衝撃波によって、追撃速度は若干鈍ったようです。なお敵戦闘艇に向けて撃った核融合弾と、分離した無人艇には、全く反応を示しておりません」
「だったら敵は直進してくる。進路が分かっているのだから、そこに向かって撃ち続けろ」
追撃隊の反応から、ハルトは相手の優先順位が、ケルビエル要塞の魔素反応にあると理解した。
ハルトにとって相手が未知の存在であるように、相手にとってもケルビエル要塞は未知のはずである。
それが適切に追撃してくるのであるから、相応の状況判断力を備えているか、天華ヘラクレス同盟と追撃者との邪霊同士で情報共有が行われたか、いずれにせよ騙せない相手である事が明らかとなった。
それでも辛うじて距離だけは縮められず、ハルト達はヘラクレス星系に展開された邪霊帝の領域から離脱が叶った。
『パパ、ワープ可能宙域に入りましたよ。もう邪魔はされていません』
『しつこかったから、伸ばしてきた手を叩きました』
ルルに続いたマヤの報告に、チキンレースで神経をすり減らしていたハルトは呆気にとられた。
ケルビエル要塞と追撃隊が争う間、精霊帝と邪霊帝も何かしらの争いを行っていたらしい。
「叩いた相手は、どうなった?」
『痛がって、手を引っ込めました』
真面目な様子で答えたマヤに、ハルトは思わず噴き出した。
「偉いぞマヤ、よくやった。それじゃあ、離脱してくれ」
司令官が笑って契約精霊の頭を撫でる中、ケルビエル要塞は白い輝きに包まれながら、高次元空間に飛び込んでいった。