カフェオレとヒドラ
早朝6時。俺は自宅を出て直ぐにある外階段をゆっくり降りていた。蔦が絡まる鉄製の手すりに手を滑らせながら眠い目を擦る。これから下にある店の開店準備をしなければいけない。開店時間は8時。店内の掃除や食材の下準備、在庫確認と発注を終わらせ、『close』のドアプレートを『open』にするのが、2時間以内に取り組むメニューだ。
ギィ、と鈍い音を立てながら、俺は木製のドアを開けた。外階段を降りて右手に勝手口があり、その奥は厨房を兼ねたカウンターの中へと直結している。従業員は(といっても俺ともう1人だけだが)必ずここから入り、勝手口横に掛けてあるエプロンを私服の上から着用する。必ず、とは言ったがルールを決めている訳ではない。必然的にそうなってしまうのだ。カウンター内から店内へ出ることは出来ても、店内からカウンター内へ入ることは出来ないようになっているのである。いや、実際は行き来するフェンスの仕掛けを知っていれば店内からも入れるのだが、それは店長である俺しか知らない事だ。故に、もう1人の従業員も勝手口から入ることになる。そこで疑問になるのが、誰が注文を取りに行き料理を出すのか、だが、もちろん俺だ。もう1人の従業員はカウンターに座った客の話し相手として雇っている。基本的にカウンター内から出る事はない。つまり仕事という仕事は俺1人でこなしているのだ。それを苦痛だと思ったことはないし、そのために雇っているのだから文句が出るはずがない。
さて、開店準備に取り掛かる。俺は肩まで伸びた少し癖のある黒髪を1つに纏め、外にある用具入れの中からモップを取り出した。隅から隅まで丁寧に掃除し、約40分。俺は素早く手をすすぎ、黒色の腰エプロンを付けた。解凍しなければいけない食材を出し、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、その他よく使う野菜をある程度の大きさに切っておく。ここまで約1時間と少々。仕上げは在庫状況の確認だ。冷蔵庫を確認する。冷凍された魚や肉が顔を覗かせた。鮭が切れそうだ。次はカウンター下の戸棚を開け、調味料の確認。小麦粉を足しておこう。そうして俺はカウンター内をグルグルと周りながら発注書に記入し、ちらと時計に視線をやる。8時5分前。
さぁ、開店の時間だ。
***
『カフェ-ステラスナグル-』open
俺はドアプレートをひっくり返し、店内へ戻る。と、同時に勝手口のドアが鈍い音を立て、色素の薄い髪(光が当たると水色にも見える白色)を几帳面に切り揃えた男性が顔を出した。
「やぁ、おはようマスター」
「あぁ、おはよう」
彼はこの店の従業員で名をリゲルという。何処かの国からやって来たらしいが、純日本人のように流暢な日本語を話す端正な顔立ちをした青年だ。年齢は俺より3歳ほど下だが、アジア人特有の幼さを持つ俺から見れば幾分か年上に見える。落ち着いた雰囲気もプラスされているのだろう。そんな彼がこの店で客の話し相手として働いている理由は、後々語るとしよう。
俺はフェンスを開け腰エプロンを付けているリゲルの傍を通り過ぎると、カウンター内に置いている椅子に腰掛けた。この椅子は店内で唯一死角がない場所なので、客へ迅速な対応をする事が出来る。
「今夜は星が綺麗に見えそうだね」
「そうだな」
リゲルは小さく笑いながら、勝手口の近くに置いてある椅子に腰を下ろした。そんなリゲルに、俺は短く返事をする。口数が少ない方ではないと自負しているが、独特な言い回しをするリゲルに何と返していいものか分からず殆どは一言で終わらせてしまっている。たった今かけられた言葉の意味は恐らく、今日もいい天気だね、だろう。そうだな、以外の返答を思いつく者がいるのなら俺の代わりに返事をしてやってくれ。
開店から15分ばかり経った頃、チリン、と控えめなベルの音と共に入口の扉がゆっくりと開かれた。
「いらっしゃいませ」
客だ。この辺りではよく見かける若い女性だった。腰まで届く真っ直ぐな濃褐色の髪を揺らして、少しばかり腰を屈めながら店内をぐるっと見渡している。若い女性には珍しい控えめで落ち着いた身なりをしているその女性は、カツ、とヒールを鳴らし、俺を見た。髪と同じ色の瞳と視線が交わる。
あぁ、この客は。
俺は微笑むと、自分の目の前のカウンター席を手のひらで指し示した。
「どうぞこちらへ」
そう一言添えると、女性はまるでお化け屋敷にでも入るかのようにゆっくりとこちらへ歩いてきた。カツン…カツン…。服装と同じく、ヒール音も控えめだった。
俺の目の前に座った女性は、俺を恐る恐る見上げた。カウンター内は店内の中で段差が一段分高くなっている。俺は身長が180cmはあるから、よっぽど巨大な人間でない限り必然的に客を見下ろす事になる。微笑んだままの俺を見て、スッと俯いてしまった女性の視線が、今度はリゲルに移ったようだ。客が呼ばない限りその場から動かないリゲルが席を立ち、俺の横に椅子を移動させ座ったからだった。
「初めまして」
「えっ、は、初めてまして」
リゲルの仕事の時間だ。8時30分。俺は時間を確認し、リゲルと女性へ視線を戻した。
「僕を呼んでくれてありがとう」
「え?」
微笑しているリゲルの言葉に、女性はハッキリと分かるほど困惑していた。それもそうだろう。しかし女性はリゲルの言葉を追求しようとはせず、キョロキョロと自分の座席周りを見ることにしたようだ。メニューを探しているのか。
「ここにメニューは無いよ」
「え、ないんですか」
「うん、無い」
女性は再度、困惑した。手持ち無沙汰が気になりだしたのか、ソワソワと肩が動いている。
「好きなものを注文してごらん」
「は、はぁ…それじゃあ、何でもいいので飲み物を頂けますか」
「何でもいい、が君の飲みたいものなの?」
「え?」
女性の瞳が揺れた。リゲルの言葉に動揺と恐怖が入り交じったような、複雑な色に変わったのを俺は見過ごさなかった。
「君は、自分で何かを決めることに怖がっているように見えるね」
「そ、んなこと…」
「自分で決めた事によって悪いことが起こるんじゃないか、そう思ってる」
女性は反論しようと口をパクパクと動かしていたが、結局その口から言葉の息が零れることは無く肩を震わせながら顔を俯かせた。
「私は…」
「うん?」
「私は、もう、無責任な言葉で人を、傷つけたくないんです…」
女性は震える肩と同じように唇を震わせながら、か細い声でゆっくりと話し始めた。
***
私は昔から、友達を作るのが上手な人間でした。一言でも会話をすればその瞬間から私とその子は友達だと思っていて、直ぐに心を開いてしまうような子供だったからです。しかし幼い頃はその事で不自由などしたことはありませんでしたし、私の周りに常に人が溢れ私を囲んでいることに多少の優越感を覚える程でした。正直に生きている自分に誇りさえ持っていました。誰とでも平等に、対等に。そういう人間の事を、八方美人と呼びます。私は八方美人が故に、決して犯してはいけない過ちによる罪を背負うことになりました。
時は私の中学生時代に遡ります。私の学校はどこにでもある共学の公立中学校でした。1クラス40人程で1学年4クラスありましたので、全校生徒数は約480人。私が通っていた小学校と、同じ区にあるもう一つの小学校の生徒が集まっての規模でした。大きな町ではなかったのもあり、クラスには殆ど見知った顔が席を連ねていました。先でお話した通り、私は難なくクラスに溶け込むことが出来ましたし、ここでもまた私の八方美人は発揮されていました。中学に上がって3ヶ月ほど経った頃、皆がみんな、クラスに慣れはじめた頃。私はある違和感を感じていました。その時はまだ漠然とした違和感だったのですが、事件は(と言っても私の心中で起こったことですが)唐突にやって来ました。
「この間志穂がしてた髪留め、偶然店で見かけたから買ってみたんだけど、どう?」
多くの友人の1人、このたった1人の言葉で、私は違和感の正体に気付きました。志穂、というのは仮の私の名前としておきます。そう、この時初めて、私の存在は人に影響を与えるものなのだということを知りました。八方美人はいつしか神に似た存在となり、私の言動、姿勢、身の周りにある全てのものが友人達の間で崇められ、見習うものとなっていたのです。衝撃でした。その時の私は自分にも他人にも正直に生きてきましたから、自分の気持ちを優先し周囲を深く観察したことなどありません。そうですね、無関心だったと言えばそれまででしょう。いえ、だからこそ、その時はただただ自分の存在力の大きさに吃驚したのです。そして事件が起こった。
当時、私には好きな男の子がいました。私と同じように皆と仲が良く、サッカー部に入っていることもあり人気者で利発的な好青年でした。いえ、贔屓目なしで。とにかく、私はその人気者の男の子が好きだったのです。もちろん私はその子と友達で、他の人よりも多く話している自信がありました。しかしそれ以上のアプローチの仕方を、私は知りませんでした。人間観察などしたことはなく、その子が何を好きでどんな趣味を持っているのか、私は知る由もありません。そうですね、聞けばいいんです。簡単なこと。ですが私は恐怖しました。"こんなに話しているのにそんな事も知らないのか" そう、問われることが恐かったのです。呆れられてしまうのが怖かったのです。初めてでした。そんな感情を持つ自分がいること、自分や他人に嘘をついて気持ちを隠したこと。だからこそ、コントロールが下手くそになっていたのでしょう。結論から言いますと、彼に彼女が出来ました。仮の名を真理としておきましょう。真理は彼と同じサッカー部のマネージャーで、クラスは違いましたが私も話をしたことがあり、私の友人の1人でした。特別可愛いとは言えませんが、愛嬌で人徳を得ている。そんな子でした。クラスの男子たちにからかわれる彼は少し怒りながらも、幸せそうに笑っていました。悔しい、悲しい。当たり前の感情が溢れてきたと同時に、彼女が憎いとも思いました。私では聞けなかった質問を、ごく普通に尋ねている彼女が。なぜ、なぜ。憎い、あぁ憎い。どす黒い感情が私の心の中を渦巻き、取り込み、私の最も大事なことを隠していきました。
「真理さ、浮気してるっぽいよ」
昼食時、私は甘い卵焼きをつつきながら、数いる友人の1人にボソッと話しました。当然、彼女が浮気をしているなんてことはなく、彼女を陥れる為に意図的に発した言葉です。友人はえっ、と小さく声を漏らし、暫く沈黙した後「かわいそう…」と呟きました。それからはもう、あっという間の出来事です。友人はまた違う友人に、違う友人はまた違う友人に。そうして広まった噂は彼女に届き、そして彼の耳にも届きました。真理は否定しましたが、比較的男性の友人が多かった真理の話に彼は耳を貸すことなく、そのまま別れてしまいました。その時の私はさぞ愉快な気持ちになっていた事でしょう。悪戯が成功した子供のような、純粋な悪意。しかし伴うものは決して優しいものではありません。その後、彼は二度と女性を愛することは無くなり、真理は一部の過激な女子生徒からぶりっ子だなんだと罵られ苛められ、クラスで殆ど孤立した状態になりました。そしてある日から卒業まで1度も学校に登校する事は無くなったのです。幸い、噂の根源は誰であるかという詮索は行われませんでした。ただ事実のみが残ってしまったが為に、罪悪という気持ちが友人達を縛っていたのでしょう。私もまた、同じ気持ちでした。
自分がどれほど他人に影響を及ぼしているのか、自覚し理解していながらそれを利用したのですから。
私はそれ以降、自分の気持ちを話すことはなくなりました。私に選択肢はなく、当たり障りのない返事をし、同調するだけ。会話することに恐怖し、自分の言葉に震えている。
それが、私です。
***
長細いクリーム色のカウンターを挟んで目の前に座る女性は、震える肩を抱きながら同じように震える唇で自分の過去を静かに語り終えた。女性の口調はまるで俺とリゲルを神父に見立てて懺悔しているような、痛々しいくらい重たいものだった。主よ、と聞こえそうなほどに。ポツリポツリと、自分の罪を改めて認識しながら必死に赦しを得ようと言葉を繋ぐように。
俺は時計を確認する。9時16分。そろそろ客が1人2人やって来そうだ。
「マスター、この人にカフェオレを頼めるかな?」
リゲルは変わらぬ笑顔を俺に向け、小さく小首をかしげた。その声を聞き、女性が顔を上げる。女性の視線に合わせたリゲルが柔らかく目を細めた。女性は俺に視線を移す。目尻が少し赤く色づいていた。俺は女性に微笑み、「少々お待ち下さい」とリゲルへの返事も込めた言葉を残してくるりと回れ右をする。小さな手鍋を2つ取り、1つに水を入れる。もう1つはミルク。ガスコンロに備え付けてあるダイヤルを二つ同時に回す。一つは中火で、水入りの手鍋を。もう一つは弱火で、ミルク入りを。と、ここまで準備した俺の左斜め後ろでリゲルと女性の会話が再度始まった。
「この世界はね、大きく見えるものも本当は小さかったり、同じように見えても中身は全然違うものだったりするんだ」
「それ、は、分かります。でも私の、罪は、誰が見たって小さく、ありません」
まるで絵本を読み聞かせているような優しくゆったりとしたリゲルの口調に、女性は嗚咽を我慢するようにグッグッ、と息を止めながらゆっくりと返す。
「言葉は魔法のように予想もしない出来事を生み出すものさ。付き合ってほしい、と言ったら、何処に?と返されるようにね」
「違い、ます。私の言葉はまるで、呪いです…」
「その呪いにかかっているのは、君のこと?」
「えっ…」
俺は2人の会話を聞きながら頭上の食器棚から筒状のマグカップを取り出し、コーヒーフィルターをそっと乗せた。足元の戸棚から小さな布袋を手に取り、すり潰したブレンド白を少しずつ、慎重にフィルターの中へと入れる。
「自分の言葉は呪いなんだと、呪われている」
「でも、これは事実で…」
「その呪いにかかっているのは君なのに、君以外の人に呪いをかけるなんて出来ないよ?」
「でも、でも、私の言葉は呪うように、友人達を侵食したんです!」
「友だちは、みんな自分の言葉で自分を呪ったんだよ」
自己を肯定し続けるリゲルの言葉に興奮気味の女性は、やはりリゲルの言葉によって今度は青ざめたように押し黙った。俺はコンロの火を2つ共止めると、沸騰されたお湯をフィルターの中へコポコポと注いだ。熱で溶けた珈琲豆が、ぽたぽたとマグカップへ落ちていく。
「君も、友だちも、みんな同じ。自分の言葉で自分を呪ったんだ」
「そ、んなこと…」
「自分を呪う言葉は毒のようだね。そう、まるで」
9時30分。俺はチラと時間を確認しながらマグカップに温まったミルクを入れ終える。と、リゲルは不自然に言葉を切った。いや、切れたと言った方が正しいか。カチリ。どこかで音が鳴った。
カフェオレの珈琲とミルクの比率は、5対5が理想だ。苦味が少ないドリップコーヒーには、ミルクのほどよい酸味と甘みが対等なのだ。しかし、よく違いが分からないとされるカフェラテは8対2が丁度いいだろう。何故なら、カフェラテの珈琲は苦味が多いエスプレッソを使っているからだ。苦味が多いというのはつまり、珈琲豆の味が濃いということ。だからミルクを多めに入れマイルドに仕上げる。一見すると同じに見えるもの、似ているものは、蓋を開けてみると全く別の工程を踏んだ別のものが多いのだ。
では彼女の場合はどうだろう?自分は影響を与えるほど大きな存在だと言っている。一目見ると、彼女の周りは彼女以外、殆ど同じ大きさの星だ。だからこそ際立つ彼女という大きな大きな星。蛇の形をした巨大な星座。正解だ。彼女、志穂という存在は確かに、他よりも軍を抜いて大きいと言える。ふ、と靄がかかった。濃い白色に視界を奪われた。何も分からない。志穂が見つからない。視界の端で、何かが光った気がした。志穂だろうか?そう思うと、見つけた光の周りから靄が消えた。しかしそれは志穂ではなかった。こんなに強く光る星を、志穂は持っていない。また別の光が見えた。今度こそ。しかしこれも違う。この輝きも志穂の星には見覚えがない。徐々に晴れていく視界の中、志穂の星は一向に見つからない。ふと、小さな星が目に入った。弱々しく光る小さな星。これは、確かに志穂の星座の星だ。殆ど靄が取れた頃、ようやく他と変わらない強い光をした志穂の星を見つけた。
あぁそうか。周りが小さいからと一際大きく見えても、本当は他と変わらない。星は周りによってその大きさを変えることはない。星は一つの星。一見すると違うように見えるものも、蓋を開けてみると同じだという事もある。
他と変わらない光を放つ彼女の星は、蛇の形をした星座のちょうど心臓があるだろう位置にあった。
カチリ。遠くで音が鳴った。湯気が立つカフェオレが、キラキラと輝いている。
「ウミヘビの毒。麻痺やしびれで感覚を奪って、やがて呼吸も心臓も止めてしまう神経毒。自分を呪っている言葉の毒は、やがて自分を殺してしまう恐ろしいものなんだよ。あぁ、カフェオレが出来たみたいだね」
リゲルは俺の方へ向き、そっと目を閉じた。カフェオレの香りを楽しんでいるのだろう。俺は小さく頷き、マグカップをそっと彼女の前に置いた。
彼女は目を伏せていた。先ほどと同じように肩と唇を震わせながら。先ほどとは違う、伏せた目から頬を伝う涙を見せながら。
チリンチリン、と鳴るベルの音と共に入口の扉が開かれた。中から女性2人が顔を出す。客だ。9時32分。俺の読みは当たったらしい。「いらっしゃいませ」と声を掛けながら俺はカウンター内から店内へ出るためフェンスを開けた。チラと女性を…志穂を見ると、マグカップを両手で包むように持ちながら喉を小さく鳴らしている。
客を2人席へ案内し終えカウンター内へ戻った時、リゲルは最初と同じ位置に椅子を戻し腰を下ろしていた。死角がない俺が立っているこの場所は、心地いい客の話し声も運んでくれる。
「さっき見てきたあの店のネックレス、ヒドラがモチーフって結構変わってるよね」
「あぁ、神話では怪物なんだっけ? でも体の大きさの割に心臓は1つなんだから結局私たちと何も変わらないよね」
「健康もみんな平等ってこと?」
「きっとそういうことでしょ。じゃ、うみへび座の健康運に祈って乾杯しよ! あれ、そういえばメニューは?」