十八話 好きですその全てが
一週間ぶりです。
「どう?気持ちいい?」
「ああ、最高だよ。」
川に手を入れて時雨がスーッと水をかいた。初めこそその冷たさに顔を少ししかめたものの、慣れてきたようだ。
「水だけじゃない。風も、太陽も、木々も、音も。私と聖を囲む全てがとても美しい。外の世界はこんなにも素晴らしいものなんだって知らなかったよ。」
そよ風が頬を撫で草木を掻き分け木々を揺らす。葉の隙間から陽の光が差し込み、時雨を照らす。小川のせせらぎが、鳴り響く蝉時雨が、風に揺れる時雨の長い髪が、とても綺麗だった。
ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。
蝉の声が心に染み入るようでどこか心地よい。
「蝉がなんで鳴くか知ってるか?」
「どうしたんだい唐突に?」
俺のなんの脈絡もない質問に時雨は首をかしげた。
「いいから、知ってるか?」
「雄から雌に対する求愛。バカにするのも大概にしてくれないかい。」
そのくらいは小学生でも知っている。だからこそ小さな頃からそんな蝉が嫌いだった。
「俺さ、蝉って嫌いだったんだ。」
「うるさいから?」
「いや、むしろ鳴き声は好きだったよ。おかしな話だろ。」
「ああ、君は変わってるよ。」
なんだかその言葉は悪い意味には聞こえなかった。褒められているようでむず痒かった。
「好きだったからこそ嫌だった。なんでたった一週間の命であるにもかかわらず、それを知らないんじゃないかってくらい必死になって鳴くんだろうって。正気の沙汰じゃない。」
「子孫繁栄のためだよ。それに、蝉の寿命は一週間じゃないよ。土の中で数年過ごしてるからね。」
「そういう事じゃないんだよな...。」
すぅっと息を吸った。澄んだ空気を肺いっぱいになるまで。ゆっくりと吐き出しながら川岸に座っている時雨の隣に腰かけた。
「でもさ、好きになっちゃった。その全てが。なんでだろうな。死ぬのがわかってるからこそ必死になるんだなって。それだけで全部好きになったよ。」
不憫なまでのその生涯を哀れむことをやめた。その美しい鳴き声に矛盾する生き様に嫌悪することをやめた。一人では気づくことさえできなかった。
「教えてくれた人がいるんだ。自分も限りある命なのに、それを見せようとしないんだ。強いなって思った。でもさ、見えないところではちゃんと鳴いてるんだ。あぁ、必死なんだなって。」
「...それは誰?」
「今は秘密だ。」
ゆっくり立ち上がり、川の真ん中へと歩いた。ザブザブと水を蹴りながら。確かに感じる流れを噛み締めながら目を瞑る。さわさわと草花が嬉しそうに風に身を任せ揺れる。未だ鳴り止まぬ蝉時雨。この世界はやっぱり美しい。
目を開き振り返ると時雨が透き通るその両の瞳をまっすぐこちらへ向けている。君はやっぱり...。
「私も蝉は好きだなぁ。効き始めた冷房と外から微かに聞こえる蝉の声だけが夏の訪れを知る数少ない手がかりだったからね。」
悲しそうな顔をしながらこちらへ手を差し出す。どうやら時雨も歩きたかったみたいだ。優しく手を掴み、体を支えながらゆっくりと立ち上がらせる。おぼつかなくとも、確かに地を踏みしめて歩いた。
「蝉は求愛のために鳴くと言ったね。」
「ああ、言ったな。」
「私は歌っていると思ってた。鳴いているんじゃなくてね。自分の伴侶を探す愛の歌。まるでラブソングみたいでときめいた。」
少しだけ時雨の頬が赤くなる。少女漫画のヒロインのように。
「人間みたいに愛してるとか、好きだとか、会いたいとか、どこにでもあるような言葉を用いたちゃちなものなんかじゃない。正真正銘の愛を歌ってると思った。」
ふふっと微笑んだ時雨につられ笑った。照れて紅潮した頬がどうかバレませんように。
ふらつく時雨がバランスを崩す。俺は左手で時雨の手を掴み、右手で腰を支えた。それはさながら社交ダンス。時折くるりと回りながら、
ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。
愛の歌の中で踊った。
書いてて楽しかったです。