3.訴
◇
太陽が月の城に現れたという事実は、蝶が蚕だか大紫だかに教えたらしい。彼らを通じ、その知らせは食虫花の屋敷で戦う絡新婦たちにもしっかりと伝わったようだ。それならば自分たちで何とかするしかない。そう意気込んでいるようだけれど、不安でいっぱいだった。
わたしは温室に閉じ込められていた。太陽の命令だった。日華は自由に放されているというのに、わたしだけは女中の一人に手を繋がれて温室へと追いやられてしまった。それもこれも、わたしがこっそり月を逃がそうとした罰なのだろう。蝶は罰を受けていない。しかし、自由に森へと向かおうとしたならば、きっとわたしのようにされてしまうだろう。
鍵がかけられてしまった温室の中で、わたしは一人座り込んだ。
月は太陽の部屋にいるらしい。昏睡状態なのだと女中にこっそり教えられた。太陽の接触によるものだから、正常な反応なのだと付け加えられたが、その正常な反応が怖かった。
すべては太陽の計画通りに事が運んでいる。
わたしがここを出ていいのは、月が目覚めたときだと言われた。その後で、わたしは月に購入された人工花としての意識を学ばねばならないらしい。それがどんなものであれ、今のわたしが素直に納得できるものだとはとても思えない。
「ああ……月……」
弱々しく嘆くことしかできない自分が悲しかった。
美しく整えられた庭のように、わたしも月も蝶も絶対的な女神によって管理されてしまうのだろうか。
それでも、人工花ならば当然だと思ってきた。月がわたしの将来を見据えて相手を探しているのだと告白してくれた時だって、そういうものなのだと理解した。それなのに、今は悲しかった。
相手が月じゃないからだろうか。太陽に管理されることが不満だった。それが月の今後にかかわることだと思うと、尚更だ。
「〈月の雫〉を……見つけなきゃ……」
『華!』
その時だった。
温室の中で落ち込んでいたわたしの名を呼ぶ声が、頭の中で響き渡った。見れば、いつの間にか硝子の壁の向こうに少年がいた。雪色の髪に昨日よりもさらにたくましくなった気がする顔立ち。薄紅色の目と同じくらい紅潮した顔で、息遣い荒く硝子に手をついていた。
きっと走ってきたのだろう。
『華、聞いたよ。御日様が……』
『ええ、そうなの』
わたしはため息交じりに答えた。
『月が閉じ込められてしまった。今は気を失っているらしい』
『……らしい?』
『わたしもまだ会わせてもらっていないの。太陽の部屋にいるそうよ。今日からしばらく、御日様のすぐそばにいなくてはならないのですって』
『そんな……じゃあ、外には行けないんだね?』
『月は出してもらえないでしょうね』
百足との戦いはどうなっているだろう。何にせよ、わたしや蝶にそれがどうにかなるとは思えなかった。食虫花を枯らされでもすれば大変だ。せめて、そうなる前に此処を抜け出して、彼女から聞けることを全て聞き出さねば。
そうは思っても、閉じ込められてしまってはどうしようもない。
少年は硝子に手をついて小さく唸った。
『百足との戦いはとても苦しい状況なんだ。あっちは一人。こっちは複数。それでも、あいつはおかしい。おかしな力で僕たちを惑わしてくる。食虫花を封印されて力が弱まった蝙蝠男や、そもそも魔女ですらない蝙蝠の王子様じゃあ……』
『絡新婦は?』
『うん、彼女が唯一まともにやり合えるかな。でも、彼女だけじゃ辛いのは変わらない。彼女の古い知り合いに助けを求めているが、あまり期待はできないらしい』
『……聖剣があれば、そんな状況も変えられるのかしら』
呟けば、少年ははっと顔を上げた。
その薄紅色の目にむかって、わたしは訊ねた。
『わたしの身体には月の印がある。これは単なる印ではない。月の力をわずかにでも使える証なのだと教えられたわ。つまり、あの聖剣はわたしにも使える』
『――だめ、危険だよ』
少年は真っ先にそう言った。
『相手は百足なんだ。花とは力が違いすぎる』
『わたしはただの花じゃないわ。月の力を使える。あの聖剣を使うことだってできるのよ』
『でも……』
そう言いかけたものの、少年はふと何かを考えだした。
『……たしかに、聖剣を使えるという〈事実〉は武器にもなる』
そう呟いたかと思うと、彼は主張を一転させた。
『そうだ。聖剣だ。剣の輝きはこの森の生き物ならば誰もが恐れる』
『それって……?』
『華、僕に考えがある。月様の聖剣をお借りして外に出ることは出来る?』
『もちろん頼んでみるわ。駄目だったら盗んででも』
『出来れば許可をもらいたいところだけれど、聖剣が必要だ。君は機会を見て太陽様か月様に訴えてほしい。君でもいいし、蝶でもいい。とにかく、聖剣を扱える者をお借りしたいんだ』
『借りてどうするの? 戦うの?』
怖いけれども、わたしは覚悟を決めて訊ねた。しかし、少年は首を横に振った。
『違う。脅すんだ。この大地を穢そうというのならば、誰だって月様の力は怖いものだ。食虫花だってかつてはそうだった。この大地に居ながら月様の意思に歯向かうことは普通の生き物ならば怖がるはず。それならば、本物の聖剣を扱える者が来ただけでも百足は戦う意思を削がれるはずなんだ』
『つまり、わたしか蝶が聖剣をもって駆けつけるだけでも、それなりの効果が期待できるっていうわけね?』
少年は強く頷いた。
なるほど。やはり我が友人であり恩人でもある名もなき野生花の少年はとても頭がいい。頼りになる彼の姿が妙に美しく見えた。月が出来なかったことがわたしや蝶にも出来るかもしれない。蝶に頼ることはない。駆けつけるだけならばわたしにだってできるはず。わたしは月の花なのだ。その意味は聖剣の輝きでより強調されるだろう。
問題は聖剣をどうやって借りるかである。
『太陽様にお訊ねしてみるわ』
不安な気持ちはぬぐえなかった。
しかし、やれるだけやってみよう。強い志を抱きながらそう宣言すると、少年もまた安心したように頷いた。
◇
温室の扉が開かれる時刻をわたしは知っていた。
日華が帰って来た時か、蝶が蜜を吸いに来た時のはずだ。暮れなずむ外の景色を感じながら、わたしはじっと変化を待った。
そしてその時は訪れた。沈黙が運ぶのは足音。それに話し声も聞こえてきた。おそらく蝶だろう。その予想は当たった。施錠が解かれたその瞬間、わたしは立ち上がり、走り出した。
女中の誰かが扉を開けるその力を利用して、思いっきり逃げ道を開くと、わたしはそのまま廊下へと飛び出した。思わぬ行動に女中も蝶も目を丸くしていたようだ。呼び止める声があがったのは随分後だった。その頃にはわたしはすでに階段へと向かい、太陽の部屋を目指していた。
通りすがりの人間たちが不思議そうにわたしを見送る。とにかく走り、とにかく急いだ。そして誰にも掴まることなく太陽の部屋へとたどり着くと、息を整える暇も置かずに扉を思いっきり開けようとした。
しかし、その直前で扉はひとりでに開かれた。太陽の部屋は月の部屋と対照的に作られている。わたしが開けようとしたのは書斎である。そこに月の姿はなく、代わりにこの部屋の支配者である美しく眩い女神がすぐ目の前に立っていた。
太陽。どうしてこの人はこんなに輝かしいのに、冷たい目をしているのだろう。
「入りなさい」
一言だけ呟くと、あっという間に部屋へと引き込まれた。
一瞬だけ蝶の声が聞こえた気がした。追いついたのだろうか。しかし、確認する暇はなく、扉は閉められてしまった。
太陽の部屋に二人きり。その緊張感に体が震えそうになる。必死に気を強く保ちながら、わたしは太陽へと訊ねた。
「月は……どうしているの?」
振り返ると、太陽は無表情のままわたしを見つめていた。
脅しているわけではないだろうに、どうしてこんなに恐ろしいのだろう。
「まだ寝ているわ。意識を失ったまま、ゆっくりと準備を整えている。まるで羽化する前の胡蝶のように眠りながら、胎に新しい器を宿すの」
「それで、目は覚ますの?」
「準備が整ったら。胎生の生き物の母が我が子を育むようにその時を待つ。娘を出産すると人間たちは表現するけれど、厳密にはそうではない。月はただ分裂するだけよ。今までの記憶と引き換えにね」
「でも、〈月の雫〉があれば、月の姫がお生まれになるのでしょう?」
訊ねるわたしの頭を太陽はそっと撫でた。温かな手はわたしの身体には馴染まない。それでも、この人は月の主人だ。そう思うと静かに受け入れる気持ちにはなれた。
「そういうことを聞きたくて、貴女はここに来たの?」
訊ねられて、はっとした。
もちろん、違う。わたしは身を正して、覚悟を決めた。
「御日様に許可をいただきたくて参りました」
目を逸らしてはいけない。まっすぐ太陽の顔を見つめ、わたしは誠実な気持ちで向かい合った。
「お願いします。月の聖剣をしばらくお貸しください。そして食虫花の屋敷に向かう許可も」
「それを得て大百足を脅し、〈蝕〉に解放された食虫花を守り切り、〈月の雫〉に関する知識を得よう、そういうわけね」
言い当てられて怯えてはいけない。相手は月よりも上位の女神なのだ。人工花の一人に過ぎないわたしの想像の範疇を越えた存在だ。それだけを認識していれば、必要以上に恐れることもなかった。
震えをこらえながら見つめるわたしを前に、太陽は手を放した。
「あの聖剣は過ぎ去り日に私が月に与えたものよ」
そのままじっと月が寝ているのであろう寝室の方向へと目を向ける。
「その日のことを今の月は覚えていない。思い出すことはもう二度とない。それでも、その時の私の気持ちは今もこもっている」
「……貴女の気持ち?」
「月を守り、生まれ変わりを手伝うのは私の役目でもある。けれど、私にもかつては感情があった。長い時の中で擦れてしまったかもしれないけれど、聖剣を与えた私はもっと情動的に月と向き合っていた」
なぜだろう。とても寂しそうだった。
わたしには想像できない。ちっぽけな花に過ぎないわたしには、この偉大な女神の苦悩の大きさなんて想像もできない。
それでも、彼女の横顔は、十分悲しそうに見えたのだ。
「……それならば、わたしのお気持ちがお分かりになられますか?」
わたしは太陽へ訴えた。
「わたしは月の力になりたいのです。食虫花を助けるのは月の判断でした。彼女を外に出せないのなら、せめて聖剣をお貸しください。わたしが駄目ならば、蝶だっているわ」
「胡蝶に人工花。百足から見れば、どちらもちっぽけな存在でしょう」
「それでも、わたし達は月の娘なのです。お願いです、太陽様、お許しください。わたしは月のことを諦めたくないんです」
精一杯の気持ちを込めたつもりだった。
相手は神様だけれど、月と同じ生き神と呼ばれる存在。生きている神様にはちゃんとした心がある。それは、わたし達のような精霊と同じようなものだと教わったことがあった。だから、期待した。だからこそ、期待した。
しかし、わたしを見つめる太陽の視線は、正直言えば、とても心があるようには見えないものだった。
「華」
短くわたしの名を呼ぶ太陽の姿は、月よりも確かな主人のようで、わたしは思わず跪きそうになった。
「貴女は人工花。月に買われた美しい精霊の娘。そんな貴女の役割は剣を手に取り戦う事ではない。この意味が分かるかしら」
「……太陽様」
消え入りそうな自分の声が情けなかった。けれど、どうしようもなかった。どうしようもないほど、太陽の姿が怖かった。
「貴女が此処へ導かれたのは、月を救うためではない。彼女の心を癒し、支え、傍を離れず、蝶に栄養を与えることこそ貴女に課せられた役目の全て。それ以上のことは求めていない」
「でも!」
「戻りなさい、華。蝶を飢えさせたくないのなら。私の言葉に納得できないならば、明日の午後、一人で月に会わせてあげましょう。そこで直接掛け合ってみなさいな。主人の許しの方が、貴女にも重たいでしょうから」
もはや何も言えなかった。
太陽はこれ以上、わたしの訴えを聞いてくれない。
しかし、約束は手に入れた。明日の午後、直接月に会える。月の許しを得るチャンスが巡って来る。それならば、そこで手に入れようじゃないか。
「分かりました。明日の午後、出直してきます」
悔しさがあったが、わたしは強くそう言った。
◇
温室へと戻り、わたしは蝶に抱かれていた。
心は焦燥感に満ちている。しかし、早く蜜を吸われたいのではなく、明日のことばかりで頭がいっぱいだった。
どんな言葉で月に訴えればいいのか。どんな頼み方をするべきなのか。
分からないことばかりだからこそ、焦りはどんどん生まれてしまう。
「華、どうしたの?」
反応の鈍さが気になったのだろう。蝶が訊ねてきた。
「食虫花のお屋敷に行かなきゃ……」
呟くように答えると、蝶はじっとわたしの顔を覗き込んできた。
「貴女が?」
そう訊ねられ、わたしは目を逸らした。
「ひ弱なのは分かっているわ。花のわたしは百足なんかに敵わないでしょう。でも、聖剣があれば違う。少年が言っていたの。脅せばいいんだって」
「――だとしても、貴女が行くことないのよ」
「分かっているわ。でも……」
反論しようとするわたしの唇を、蝶が奪っていった。蜜を吸われ、倦怠感に包まれる。力を失うわたしの身体を、蝶は優しく床に寝かせてくれた。幼い子供を寝かしつけるように宥めながら、蝶は言った。
「聖剣を手に脅す、か。月の力が使えるということは、確かにいい脅しになるでしょうね」
「本当は太陽にお願いしたの。でも、駄目だって。わたしの役目は戦う事じゃないって、そう言ったの」
「でしょうね。誰だって人工花に戦わせたくない。あたしだってそうよ。野生花でさえも本来は戦う種族じゃないと思うくらいだもの。蛮勇は命取りにしかならない。貴女に何かあれば、あたしや月の心は大きく傷つくことになるの」
「……蝶」
あまりに寂しそうに言うものだから、わたしの心も少しだけ落ち着いた。見上げれば蝶はそっと微笑み、わたしの身体に身を寄せてきた。
「約束したのなら、ありのままの気持ちを月に訴えるといいわ。そのうえで、どうするのか決めたら、まずはあたしに教えてくれる?」
「もちろん。蝶に聞いてもらう……だから」
言い終わらぬうちに、蝶の手の動きが体内の蜜を掻き乱した。吸われたがっている。日が落ちるまでの時間がやたらと長く感じた。焦りは別の種類のものへと変わり始め、蝶を見つめる目が潤んでいるのが自分でもわかった。
「蝶……」
耐え切れずに懇願するも、蝶は素直に応じてくれなかった。
わたしの身体を撫でながら、くすりと笑う。
「大丈夫よ」
いつの間にか震えていたわたしの身体をただ撫でながら、蜜の流れを存分に狂わせた状態で蝶は優しく語り掛けてくれた。
「大丈夫よ、華。あたしが付いているもの」
つま先までじっくりと触れて、蜜を狂わせきったあとになって、蝶はようやくわたしに口づけをくれた。
何故だか、その夕暮れは、狂おしいほどに蜜を吸われた気がした。