2.守
◇
食虫花の屋敷で異変が起こったと聞いたのは、少年からだった。
百足というものをわたしはよく知らない。少年と共に森へと向かった時に見たことはあった。けれど、彼らがどういう生き物で、どういう性格をしているかなんて知らないままだった。
大百足と呼ばれる彼は、百足の中でも異質な存在らしい。そうは聞いても、何がどう異質なのかは分からないままだった。しかし、わたしにも分かることはあった。百足というその精霊はわたしにとっても敵だろう。なぜなら彼は、食虫花を人質にとることで彼女の屋敷に住み着いている精霊たちをおびき出して食べてしまおうとしているのだから。
食物連鎖に関して、月は自身の神としての力を使えない。その代わりに私情をかけてある程度の力で解決する手段を与えてくれるのが聖剣であるのだと聞いた。話が通じないならば、時には力を見せなくてはならない。大百足がもしもごく当たり前の精霊ならば、月の女神の力を観ただけで狩り場やその方法を変えると決めるだろう。
そう、月は出発するらしかった。
蝙蝠の王子様に求められた通り、彼女はすっかり準備を進めていたらしい。わたしはまだ直接的にその旨を伝えられていない。後回しになるのは仕方ないだろう。それにわたしには蝶がいる。今回は一人で向かうとのことで、わたしは蝶や少年たちを介して状況を何となく把握していた。
蝶は素直に待ってくれると約束したらしい。それならば、わたしも彼女に倣おう。月を信じて送り出し、帰って来るこの場所を守るのも大事な役目だ。そして、希望を持とう。月が無事に百足を追い払った後は、食虫花より直接〈月の雫〉に関して探ると言っていた。そこでいい情報が得られることを信じてみよう。
温室で着替え、わたしは蝶を待っていた。
朝餉は終わっている。しかし、もう一度顔を出すはずだ。今日は月が食虫花の屋敷へと向かう日。出発は早朝だと聞いている。そろそろ、蝶がわたしを呼びに来る頃だ。予感のようなものを抱えながら待っていると、期待通り、温室の扉がゆっくりと開かれた。
「蝶?」
振り返るとそこには確かに蝶が居た。しかし、わたしはそのまま固まってしまった。蝶だけではなかった。戸惑い気味の蝶の姿が目に映る。しかし、それよりもずっと目に留まってしまうのは、記憶の片隅にずっと居続けていたある旧友の姿だった。此処に居るはずのない、目の覚めるような輝きがいきなり目に入り、わたしは困惑してしまった。
「華、久しぶり」
金髪に輝く目。前よりもちょっと成長した美しい少女が切なげな笑みを浮かべてわたしを見つめている。蝶の手を引っ張りながら現れたその子は、間違いなくわたしの友人だった。
「日精……?」
そう、日精だ。前よりも成長してはいるけれど、さほど変わらない。
貰われていったはずの彼女がどうしてここに居るのかをぼんやりと考えていると、日精は力なく笑いながら言った。
「今はね、日華っていうの。お名前を貰ったのよ。太陽様に」
はっとした。
日精、いや、日華という名前を貰った彼女。どうしてここに居るのか。誰がここに連れて来たのか。それは何故なのか。全てが一致した瞬間、わたしは慌てて走り出した。
「華!」
蝶に呼び止められたけれど、わたしを阻むことはかなわなかったようだ。廊下に飛び出したわたしは、そのまま月のいるはずの書斎を目指して一目散に走った。この屋敷に太陽の花がいる。それはつまり、彼女の主人である太陽もいるという事。この時期、このタイミングでどうして太陽が来たのか、いくらわたしでも分からないはずがなく、休むことなく書斎へと走ったのだ。
◇
わたしはちゃんとわかっていなかった。
月を逃がすことが出来るとまだ信じていたのだ。たぶん、月もそうだっただろう。わたしの手伝いに従って、どうにかこの城を逃げ出そうと試みたに違いない。
それでも、太陽は――わたし達全体の守護女神は、万能の神に等しかった。生き物を阻む扉も、壁も、本物の神は阻まないのかもしれない。月ならば閉じ込められてしまうと逃げ出せないのに、なんて不公平なのだろう。
月をこっそり逃がすと、わたしはうまく誤魔化せた気になって、書斎の扉を開け、迎えに来た執事に月が不在だと嘘を吐いた。これでしばらく時間が稼げると信じていたのだ。しかし、一緒に応接間に向かおうとした直後、すぐに敗北の物音に気付いて立ち止まってしまった。
「いかがなされました? 華お嬢様」
長い廊下を歩いて階段を目指していたその時、執事がふとわたしの異変に気付いて振り返った。月の書斎は端っこにある。その近くにも階段があって、そこから月はこっそり降りて裏口から外に抜け出す予定だった。
けれど、わたしの耳には聞こえたのだ。届いた物音は、月が首尾よく逃げ出せた音ではない。誰かが倒れるような、倒されるような、取り乱しているような、そんな物音に聞こえたのだ。しかし、執事は気づいていない。人間には聞こえない物音だったのかもしれない。
「華お嬢様?」
非常に迷いつつも、わたしは執事の手を握ったまま振り返り、月の寝室のある方向を見つめた。
「ねえ、お客さまって誰なの?」
問いかけてみると、執事は困ったように沈黙した。だが、答えにくそうにではあるが、ちゃんと教えてくれた。
「太陽様です。まことに残念なタイミングですが、月様のご動向をよく思われていらっしゃらないご様子です。もう外に出られたのならばいいですが、戻って来たならばきっと……」
きっと、閉じ込められてしまうだろう。
わたしは唾を飲んだ。あの部屋にいるのは本当に月だけだろうか。いや、月だけのはずだ。だって、誰もいなかったもの。密室だったもの。けれど、当たり前の密室を信じてもいいのだろうか。太陽が当たり前の存在だと思ってもいいのだろうか。そんな不気味な疑問に不安を覚えながら、わたしはさらに執事に訊ねた。
「御日様は応接間でお待ちなの?」
すると、執事はしっかりと頷いた。
「ええ、日精――いいえ、日華お嬢様もお待ちですよ。蝶お嬢様はすでに応接間にいらっしゃいます。さあさ、向かいましょうか」
促されながらくるりと向きなおり、再び階段を目指して歩むことたったの数歩、ぎいと小さな物音をたてて月の寝室の扉が開かれた。そして、その異変に執事が驚いて振り返るより先に、その声は聞こえてきたのだ。
「私ならここに居るわ」
それは、月の声などではなかった。
「太陽様……いつの間に!」
執事が戸惑う中、わたしもその姿を振り返った。本当に、どうして今のタイミングなのだろう。残酷なほどに美しい太陽の女神は、長い廊下の端にいた。薄暗い中にいてもその姿は光り輝くように美しい。ああ、その部屋には月が一人でいたはずなのに、どうして、彼女の方が出てくるのだろう。
「来客だというのに応接間に素直に来てくれないこの城の主と直接会話をするためよ」
「え……で、では、月様がそちらに?」
執事は困惑してわたしの姿に目を移す。そんな彼に視線を合わせることも出来ぬまま、わたしはただ太陽を見つめていた。太陽はわたしたち二人をじっと見つめ、にこりと笑った。
「いいえ」
およそ常識では考えられない答えだった。
「月はもうこの部屋には居ない。彼女は今、私の寝台の上で眠っているはず。彼女の着替えを私の部屋に運んで。そして、皆に伝えなさい。月はしばし眠りにつく。目覚めたときから新しい器をその身に宿すための準備が始まる。今日よりこの城を取り仕切るのはこの私。これより一年の間、ここは太陽の城の一部となる。お前は長くここに仕えているから、この意味が分かるわね」
真っすぐそう言われ、執事は太陽の姿を見つめたまま動揺を深めた。
「では……月様は……」
目を見開いてそう言っていたが、やがては長く仕えた者らしく丁寧かつ深々とお辞儀をした。
「かしこまりました。ただいま」
わたしはそんな彼と手をつなぎながら、ただ恐ろしい気持ちに身を打ちひしがれていた。月はもう太陽の手の中にいる。それがどういう意味なのか。分かりたくなかった。だって、〈月の雫〉はまだ手に入っていないのに。
◇
執事の指示を受けた使用人に連れられて応接間に向かうと、そこでは蝶と日精――いや、日華が待っていた。日華はわたしを振り返ると、寂しそうな笑みを浮かべた。共に部屋にいたのは女中だ。いつかは女中頭になるのだろうと言われている彼女は、わたしの姿を見ると深々と頭を下げて、わたしを連れて来た使用人と共に退室していった。
応接間に残されたのはわたし達だけ。蝶と日華と三人でしばらくの間、とても気まずい沈黙を味わった。
「御免ね」
やがて口を開いたのはこの場でもっとも幼いはずの日華だった。金色の輝きはとても眩しいけれど、その繊細さは誰にも負けない。美しく、愛らしく、わたし達をたしかに気遣っていた。
「あまり歓迎されていないことは分かっているの。太陽様もそう言っていたわ。恨まれても仕方ない。けれどこれは世の理なのだって」
「……恨んだりはしないわ」
蝶が悲しそうにそう言った。
「あたしも、華も。そうよね、華」
愛らしい蝶の眼差しを受け、わたしは少々返答に戸惑った。もちろん、頭では分かっている。日華は何も悪くない。彼女はただ主人に連れられてきただけだ。それに、太陽も悪くはない。太陽は女神としてやらねばならないことをしているだけなのだ。
恨むとすれば何を恨むのか。いや、そもそもまだ恨む時間は来ていない。ああ、そうだ。いつまでも絶望していてはいけない。悲観するのはまだ早いのではないだろうか。
「日華、って名前になったのよね」
気持ちを表に出さぬよう、わたしはそっと彼女に声をかけた。
「さっきは御免なさい。久しぶりに貴女の顔を観ることが出来たのは嬉しいわ。きっと少年も同じでしょう。ああ、それにね、新しいお友達もいるのよ。……そのうち、貴女にも紹介できるはずだから」
しかし、いつまでも明るく振る舞えるはずもなく、俯いてしまった。
月はどうしているだろう。太陽の部屋にいると聞いたのに、わたしは会わせてもらえなかった。有無を言わさず太陽の一言でここへ連れてこられてしまったのだから。ああ、これは蝶や日華も同じなのだろう。太陽にとってわたし達は精霊。人間たちよりも更に儚い大量に生まれ消えていく命なのだから。
日華は困り果てたように立ち尽くしていた。そんな彼女に蝶はゆっくりと視線を合わせ、脅すことのないように優しく訊ねた。
「ねえ、日華。貴女は太陽様に愛されているのよね」
両肩を抱き、胡蝶の力をふんだんに使う。閉じられた応接間という密室。もしも蝶がその気になれば、わたしも日華も彼女の言うままになってしまうだろう。太陽もそんなことは分かり切っているはずだ。それとももしかして、それを期待して日華を差し出しているのではないだろうか。蝶はしかし、わたし達の蜜の香りなど動じていないように振る舞って、ただ日華に訊ねていた。
「貴女のいう事ならば、太陽様は聞いてくださるかしら」
蝶の優しい問いかけに、日華はもじもじとする。胡蝶の魅惑に抗っているのかもしれない。
「太陽様はお優しい人よ。それに、あたしを守り切る自信がおありだから、自由にさせてくれる。怒られたことも、打たれたことも、一度もないわ」
「そう。貴女はもう立派な女神の花になったのね」
蝶はにこりと笑ってそういうと、悪魔のように囁いた。
「じゃあ、日華、お願いがあるの。もしも貴女があたし達のことを今でも友人だと思ってくれているのなら――」
「駄目よ」
蝶の言葉を遮って、日華はきっぱりとそう言った。しかし、蝶はめげずに最後まで口にした。
「お願い、せめてあと一日。月の好きなようにさせてあげて欲しいの」
涙声で小さな花の少女に縋る蝶の姿は痛々しくて、わたしは近づくことも出来ずに突っ立ってしまった。
食虫花の屋敷はどうなっているだろう。月が聖剣を手に駆けつけるはずだった。それを信じて大百足と戦い続けていることだろう。しかし、聖剣は封じられた。食虫花はまだ無事だろうか。
「……御免なさい」
泣きだしそうになる蝶を前に、日華は力なく言った。
「あたしには何も言う権利がない。人工花だもの。太陽様のご命令は絶対なの」
悲しいことに、人工花のわたしには、日華の気持ちも痛いほど分かるのだ。ただ一人、胡蝶である蝶にだけは分からないかもしれない。こればかりは説明も難しいだろう。
わたしは詫びる日華を見守った。
「御免なさい、蝶、華。貴女たちは大切な友達よ。ここでお世話になったのだって忘れたりはしていないわ。それでも……それでもあたしは……」
両手で顔を覆う日華の姿に、蝶の涙も引っ込んだ。心が先に落ち着いたのは、この場でもっとも歳を重ねた蝶の方だ。彼女はすぐに日華へと近寄ると、優しくその肩に手を置いた。
「貴女が泣くことはないわ」
とても残念そうなその表情は隠せないようだった。
「事情は分かった。無理に頼んだりはしないわ。日華、これから一年、貴女たちの訪れを恨まないように努めることにする」
「どういうこと?」
思わず窺うわたしに蝶はそっと微笑みを見せた。
「どうか、あたしを信じて。華は月の心を癒すお役目をしっかり果たしてちょうだい。貴女の不安の分まで、あたしが動くから」
妙に頼もしい蝶の雰囲気がとても不気味だった。