1.希
◇
月が助かるかもしれない。
そんな素晴らしい情報を運んでくれたのは、白い花のお姫様と彼女を守る蝙蝠女の王子様だった。〈月の雫〉という不可思議なその名前が何度もわたしの頭の中に響き、すとんと心に落ちてくる。
聞けば、月はもう知っているはずだという。なぜなら、王子様がいうには絡新婦が配下の胡蝶と共に食虫花に会いに行ったからだ。思い返せば昨日、この城の庭で大紫の姿を見かけた。彼女や蚕といった絡新婦の使いが月にこっそり会って話していることは知っている。わたしには到底分からない難しいお話だと思ったが、そう決めつけているだけで、本当は月に遠慮しているからわざわざ訊ねていないだけなのだ。
もしもわたしが知るべきことがあったならば、月本人の口からか、蝶を介して伝わってくる。それだけで十分だと思っていた。
この時までは。
月の城の美しい庭にて、わたしの他に野生花の名もなき少年と、白い花のお姫様と蝙蝠女の王子様は四人で向かい合って座り込んでいた。こうして雑談をすることは多々ある。王子様が同席するのはまちまちだが、今日はとっておきの話があるということでこうしていたのだ。
そうしてもたらされたのが、〈月の雫〉である。
「聞いていないってことは、隠し通すつもりだったのかもね」
王子様がだらしなく座りながらそう言った。
「心配かけたくないのだろうさ。月様のお気持ちも私にはなんとなくだが分かる気がする。責任感の強い御方なのさ」
きっと、その通りなのだろう。それでも、わたしは少し不満だった。
「でも、あんまりだわ。隠し事なんてしてほしくないのに、どうして月はそれを分かってくれないのかしら。蝶だってきっと何も知らない。ええ、そうよ、何も知らないまま月と一緒に寝ているのよ」
「月様ご自身だって説明できるほどは知らないみたいだよ」
不満をあらわにするわたしを前に口を挟んできたのは少年だった。
「僕も噂で聞いたんだ。昔、今の月様が御生まれになる前に、このお城の人たちが〈月の雫〉というものを探していたらしい。とても長く生きている樹木のおじいさんが言っていた話だよ。覚えているひとはもう少数だけれど、絡新婦もその存在を知っているってことは、本当にあるってことなんだろう」
「どうして、このお城の人たちはそれを黙っているのかしら……」
執事も女中頭も月が生まれる頃にはもうこのお城で働いていた。長く月に冷たくしているように見えたけれど、彼らが悪い人なのかと問われれば違うと言える。彼らは彼らで月を慕っているし、心配もしているということをわたしはよく知っていた。ならば、本当に〈月の雫〉について知っていたのだろうか。知っているとしたら、どうして黙っていたのだろう。
疑問に思ったまま沈黙するわたしの手を、白い花のお姫様がそっと握りしめた。
「今からおよそ三十年前に、月様は生まれ変わったのよね」
可憐なその表情にはっとした。少年のものよりも濃い色の目に見つめられると、彼女の心に宿る暗い感情が読み取れた。
お姫様は続けて言った。
「探していたけれど見つからなかった。どうせ見つからない。人間たちはそう思っているのかもしれないわ」
そうなのだろうか。それで、月に何も言わずにいたのだろうか。わたしはふとすぐそばの壁を見つめた。この壁はその頃からずっと残っている。ずっと存在する。わたしの知らない当時の世界にも存在してきた。せめて、その時の様子が何処かに残っていればいいのに、そう思いながら手を触れてみた。何も伝わってはこない。ざらざらとした感触だけだった。
「今日の午後も絡新婦は食虫花の屋敷に行くと言っていた」
王子様がそう教えてくれた。
「私もその場に立ち会ってみる。目撃者は多い方がいいからね。今すぐに行くつもりなんだ。お姫様も一緒だけれど、君たちはどうする?」
「僕も一緒に行く」
少年は即答した。しっかりとした彼の言葉は頼もしい。対するわたしは、即答できぬまま片手に感じるお姫様の掌の温もりをただ確かめていた。
「華お嬢様?」
お姫様にそっと窺われ、わたしはため息交じりに答えた。
「わたしは……一度月にお願いしてみないと……」
午後と言えばもうすぐそこだ。今日はもう間に合わないだろう。落胆するわたしの肩にお姫様と少年がほぼ同時にそっと触れてきた。
「安心して、華。僕たちが君の分まで見てくる。もしも明日も行くことがあったら、その時は一緒に行こう。月様にお願いしてきてよ」
「……うん、頼んでみる」
そう告げると少年は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、なんだか胸にぽつりと宿る灯を感じた。かつてこの城で共に過ごした日精という友人を思い出す。彼女のきらめきは日の光のものだった。わたし達には強すぎるその光は、傍にいると頼もしいほどに明るかった。何故だろう。少年はわたしと同じ月の花であるはずなのに、今のわたしには彼がとても輝いて見えたのだ。
初めて出会ったのはいつだっただろう。あの頃も彼は輝いて見えた。美しく無垢な少年は、そのまま美しく年を重ね、大人へと近づいていく。青年と呼ぶべきか迷うほどの年頃になり、わたしもわたしで気づけば大人として扱われる年頃になっていた。
わたし達はもう子供ではないのだ。
少年であり、少女である年頃が終わりを迎えつつある。けれど、わたしはまだ分からなかった。大人になるとはどういうことなのだろう。大人になり、幸せになるとはどういうことを差すのだろう。
月がわたしに言い聞かせてくれたことを思い出した。わたしはそのうちに月の決めたひとと結ばれる。結んでくれるのは蝶だから、そのひとを直接知ることはない。けれど、その後にはそのひととわたしの血を引く子供たちが生まれるらしい。それが大人の人工花の務めなのだと聞いた。蜜吸いの本当の意味をようやく知れる時が近づいてきているのだ。それは、わたしが少女ではなくなりつつあるから。しかし、大人って何だろう。
何か大切なことを隠されて、心配させないように守られているのが大人だろうか。わたしは、そうは思えなかった。
◇
日が落ちていく中、わたしは温室の天井を眺めていた。
月が蚕と何かを話していたのはあの後すぐに目撃した。きっとあれが王子様たちの言っていたことについてなのだろう。そんなわたしの予想は当たり、月は正直に教えてくれた。
やっぱり〈月の雫〉はあるのだ。それがあれば、月は死なずに済む。けれど、どうやって手に入れるのか、それがどんな姿をしているのかは、まだ分からないままだった。
絡新婦が考えているように食虫花の中に知識が眠っているのなら、わたしもそれを聞きに行きたい。花同士ならば会話だって出来る。いつも使っている口を使わない会話までも彼女が忘れてしまっているとは思えない。だって、わたし達は精霊ではないただの花や草、木々などとも少しは話をできるのだから。
ましてや、わたしはこれでも月の娘としての資格がある。刺青を体にいれたその時から、わたしには多少なりとも月の力が宿されている。この力があれば、他の人にはできないこともできてしまうかもしれない。
そう思ったのだけれど、わたしはどうやら明日も少年たちの誘いを断らなければならないらしい。
「ねえ、蝶」
夕餉の蜜吸いが緩やかに始まるなかで、わたしは寝そべったまま覆いかぶさる蝶の姿に訊ねた。
「大人になるってどういうことなの?」
すると、わたしの素肌の触り心地を確かめていた蝶は、その手をそっと止め、精霊らしい魅惑的な眼差しでわたしの顔をじっと見つめてきた。
蜜の香りでうっとりとした表情を浮かべつつも、わたしの問いの意図を探ろうとしているのか、その目に真剣さを宿している。
「何かあったの?」
優しく問いながら、蝶は再び指を動かした。肌の下で蜜が躍り、何とも言えない感覚が生まれた。
「月が言っていたの。わたしはもう大人になるのですって。いい伴侶を決めて、子供を産むの。その前に、蝶から本当の蜜吸いを教えてもらえるのだって聞いた」
「ええ、その通りよ。でも、それはもう少し先の話。あたしから見て、貴女はまだまだ子供だもの」
「でも、少年も言っていた。森ではわたしよりずっと早く大人になってしまう花の子がいるんだって。男の子なんかは自分がお父さんになっているのかもよく分からないそうよ。ねえ、蝶。お母さんやお父さんになることが、大人になるってことなの?」
わたしは蝶の過去をそんなに良くは知らない。彼女が教えてくれたことしか知らないのだ。彼女からは聞いたことがない。羽化して結構経つと思うのだけれど、彼女は卵を産んだことがあるのだろうか。
「それはどうだろう」
蝶は微笑みながらわたしの腹部に軽くキスをした。蜜は吸われていない。際どく揶揄われ、わたしの身体の根底が小さな期待と不満を漏らしている。
「体が成長し、子孫を残せるようになったら確かに大人なのかもね。けれど、大人として尊敬される者は、ただ歳を重ねただけじゃないわ。深く物事を考え、しっかりと判断できて、長く生きられる人が森では尊敬される」
「長生きできないと尊敬されないの?」
「もちろん。森ではいつ命を落とすか分からないもの。子孫を多く残せたひとが尊敬される大人。人間たちや安全な場所で美しく咲く華たちのような人工花とはちょっと違うかもしれないわね」
その言葉に、ちょっとだけ距離を感じてしまった。蝶は森で生まれて森で育った胡蝶。人の手で育てられた虫の精霊たちとも違う。こうして触れ合えているのも奇跡なのだとしたら、ずっと掴んでいたくなる。わたしが温室で育てられているように、安全な虫かごで静かに過ごしていてもらいたくなってしまう。
けれど、月はそうしない。蝶を比較的自由にさせている。わたしよりも簡単に外に出してしまうのは、彼女が森で生まれた胡蝶だからというだけではないだろう。彼女は大人なのだ。卵を産んでいようがいまいが関係ない。
「ねえ、蝶。わたしは大人になれる?」
抱擁を求めながらわたしは訊ねた。子を産むだけが大人ではないのなら、わたしはどのように大人になればいいのだろう。
すると、蝶はそんなわたしの疑問でも見透かしたように優しく訊ね返してきた。
「華はどういうのが大人だと思うの?」
髪を弄りながら訊ねられて、わたしはちょっとだけ考えてから答えた。
「月を余計に心配させずに済むことが大人かしら」
「耳が痛いご意見ね。それならあたしはまだまだ子供かも」
「蝶は大人よ。わたしの知らない世界をいっぱい知っているもの」
「そうね。じゃあ、貴女の考える大人って、自立していてたくさんのことを知っているひとのこと?」
「……うん」
「それなら、華はきっと大人になれるわ」
「ほんと?」
嬉しくなって聞き返したものの、すぐに別の感情がわいた。
「でもね、蝶、わたしは此処に居なくてはいけないの。〈月の雫〉のことについてみんな探しているのに、わたしは食虫花のお屋敷に行ってはいけないんだって」
「〈月の雫〉?」
不思議そうに問い返す彼女を見て、わたしはやっと思い出した。そうだ。蝶はきっと内緒にされていたに違いない。蜜吸いを続けようとするその手を一度握りしめて、わたしは彼女に伝えた。
「月はもしかしたら生き延びられるかもしれないの」
その瞬間、蝶の表情が変わった。
「……どういうこと?」
「〈月の雫〉について絡新婦が調べている。それがあれば月は子供を産んでも死なずに済むの。食虫花ならもっと知っていたそうよ。だから、今も彼女の身体にその知識や記憶が眠っているかもしれないって」
「……そんなこと、月は何も」
「さっき本人を問い詰めてきた。内緒にしていたのは、確証がなかったからなのよ。でも、絡新婦たちはとっくに探している。食虫花からどうにか情報を聞き出そうとしているの」
「月が……生き延びられる」
恍惚とした蝶の姿が美しかった。
涙は流れていない。ただ、その瞳は目が覚めたように引き締まっていた。わたしの身体を弄る手は完全に止まっている。
その衝撃から立ち直るには、結構な時間を要した。ため息交じりにわたしの身体の上に倒れ込み、蝶はその指先でわたしの手に触れ、戯れに蜜を吸い始めた。いつもよりもだいぶ勢いのない触れ合いだった。
「嬉しい」
蝶はぽつりと呟いた。
「月が生き延びられるかもしれない……そんな素敵なことって」
「詳しくは月に聞いてみて」
蜜を吸われる感触を耐えながら、わたしは彼女に囁いた。
「もしも駄目だったら、絡新婦でもいいわ。彼女の方がもっとよく知っているだろうから」
「ああ……華」
艶めかしい吐息と共に蝶がわたしの素肌を撫でていく。その動きに合わせて蜜が動き、呼吸がやや乱れた。
「こんな素敵なことってある? 月と、貴女と、一緒に小さな月の姫の成長を見守れるの。皆でこの城の姫の成長を喜んで、守り続ける。ああ、なんて素敵な未来なのかしら」
「……でも、蝶」
わたしは恐る恐る囁いた。
「〈月の雫〉はきっとこの城の人たちは知っていたのよ。そうでなければおかしいわ。だって少年が言っていたの。昔、人間たちが探していたことがあるって。そんな噂を聞いたのだって」
「……つまり、昔、人間たちは月が月の姫として生まれるように努力した」
蝶は唱えるようにそう言いながら、わたしの肌をなぞり続けた。
「それでも、月は月として生まれてしまった。〈月の雫〉を見つけられなかったっていうこと?」
「……たぶん」
「それで、執事や女中頭は黙っていたってこと?」
「……たぶ……ん」
蜜吸いは続けられている。わたしはどうにか耐えながら、蝶と会話を続けていた。蝶は手を休めない。容赦なく蜜を奪いながら、わたしと会話を続けていた。
「そのくらい、見つけにくいものということかしら」
その問いにはもはや答えられなかった。しかし、蝶は構わずに蜜を吸い続け、そして強い口調で宣言した。
「そんな事、どうってことないわ。過去に諦められたからと言って、どうして諦めなきゃならないの。華、貴女がお外に出られないというのなら、あたしが代わりに行く」
「……蝶」
「貴女はあの人の心を癒していなさい。それも大事な役目なのよ」
ああ、なんてことを言うのだろう。大事な役目というのなら、蝶だって同じ役目を担っているはずなのに。それでも、わたしは強く言えずにただ蝶に言われたことを受け止めるばかりだった。
蝶はわたしよりも大人。色々なことを知っている。知識ではなく、世の中の実際を目にしていることをわたしは理解している。それが、大人ということなのかもしれない。そんな大人の蝶に対して、わたしは強く出ることができないのだ。
だから、せめて甘えるように見つめながら言うしかなかった。
「蝶」
蜜を吸われながらその手を握り、命の灯ごと抱きしめながら囁いた。
「危ないことはしないで。お願いよ」
かすれた声でそういうと、蝶はふとわたしの目を見つめてきた。
「絡新婦たちが頑張っているもの」
不安なわたしの気持ちがこのひとにはどのくらい伝わるだろうか。いつもどんな気持ちでわたしや月が森へと送り出しているのか、このひとにはどのくらい伝わるだろう。
もちろん、蝶はしっかりしたひとだ。森育ちで奔放なところはあったとしても、一人で突っ走ってしまうところはあったとしても、ひとたび冷静になれば、話も十分通じるはずのひとだ。
そんな期待に応えてか、蝶はわたしを抱き起すと、じっと目を合わせてきた。その表情は何だか薄い。感情を抑えているのだろうか。わたしは考えながら彼女をじっと見つめていた。
「大丈夫よ」
そう言って蝶は優しく抱きしめてくれた。
「貴女を傷つけるようなことは、決してしないと約束する」
それは非常に曖昧で優しい愛撫のような言葉だった。