5.訪問
◇
手紙のことは誰にも告げなかった。蝶にすら告げていない。だからこそ、執事も女中頭も何も知らずに私を送り出そうとしていた。早い方がいい。気持ちが急いていた。そのことは不思議に思わせたかもしれない。しかし、身支度を整え、聖剣を手にすれば、少しは落ち着いた。
私は間違ってなんかいない。太陽が訪れる前に何も知らなかったふりをしていかなくては。しかし、急き気味に準備を整える私を見つめながら、蝶は不思議そうにしていた。
「緊張しているの?」
純粋な問いに心が痛んだ。
「そう……かもね」
着替えは一人で済ませる。軽装だから誰の手伝いもいらない。ただ蝶が見ていてくれているだけでも違うものだった。
「留守番を頼むのがちょっと心配でね」
そう誤魔化すしかなかった。
蝶は寝室の長椅子に座り、切なげに私を見つめていた。しかし、私の目を見て少し微笑みを浮かべてくれた。
「一緒に行きたいけれど、あたしはちゃんと月の言いつけ通り、此処で華と留守番しているわ。華はあたしが守るから、此方のことは心配しないで」
「うん……助かる。大丈夫。日が暮れる前には戻って来るさ」
時刻は日が昇ったばかりだ。華も蝶も起きてはいるが、物事に取り掛かるには少々早すぎる時間と言えよう。そんなことへの疑問は、当然ながら蝶も抱えていたようだ。
「ずいぶん早く向かうのね。奇襲でもするの?」
「そんなところかな。百足の生活リズムなんて知らないけれど」
「……ねえ、月」
「ごめん、蝶。華を書斎に連れてきてくれるかな。あの子にも私から直接言い聞かせてあげないと」
蝶は長椅子に座ったまま私を不安げに見つめていた。しかし、しばらくすると素直に立ち上がってくれた。
「分かった。連れてくるわ。朝餉の後だけれど、たぶんもう歩けるはずよ」
そうして部屋を去っていった。
廊下へと去っていく蝶を見送りながら、私は心の重たさを感じていた。隠し事をするというのは心苦しいものだ。言わなくてはならなかったかもしれないが、言えば余計に不安を与えてしまうだろう。ならば、言わずに行く方がいい。後でなら何度でも責められるつもりだ。だから、今だけは行かせてほしかった。
着替えが終わり、書斎へと向かった。
誰もいない早朝の書斎。着替えを用意したあと、女中頭は引っ込んでしまったし、執事も訪問しては来ない。此処に来るのは蝶と蝶に連れられた華だ。三人で水入らず、しっかりと話をしなくては。幸い、華は人工花だ。主人である私の命令にむやみに背くことはない。今回の場合は特に、心配はするだろうが嫌がることはないだろう。
そんなことを考えながら、書斎から窓の外を眺めていた。昨日の夕暮れ、こうして眺めていた間に手紙は来たのだ。誰も入室していなかったというのに、本当にいつの間にあの手紙は置かれたのだろう。
ぼんやりと感傷に浸っていると、ふと廊下を走る音が聞こえてきた。蝶と華だろうか。いや、それにしては慌ただしい。華が取り乱したのだろうか。予想しているうちに、書斎の扉は乱暴に開かれた。現れたのは、華だけだ。顔が真っ赤になっている。何か文句でもいうつもりだろうか。しかし、そうではなかった。華は素早く書斎の扉を閉めると、内鍵を閉め、さらに驚く私を尻目に寝室へとつながる扉も閉めて、鍵を閉めてしまった。
息を切らせながらその場にうずくまる彼女に、私は慌てて近寄った。
「どうしたんだ、華。何故、こんなこと――」
言いかけてふと、奇妙な気配に気づいた。
華が怯えている。甘い香りと汗のにおいが混ざっている。私に抱き着きながら、華は泣き出してしまった。呼吸をどうにか整えながら、華は言う。
「月、隠れて」
「どうしたんだ、外で何が……」
「大変なの。今、蝶がもしかしたら時間を稼いでくれるかも、でも、たぶん、駄目」
「誰が来ようとしている?」
「お城を抜け出す方法を考えないと……考えないと」
「落ち着け華。誰が来ようとしているんだ?」
嫌な予感はしていた。目を覗いて訊ねてみれば、華は少しずつ呼吸を整え、私の手を握り返してきた。
「さっきまで、温室にいたの。蝶が迎えに来て、そして、一緒にこっちに来ようとしたときにね」
と、それを邪魔するように書斎の扉がノックされた。
「月様、いらっしゃいますか? 私です。此処をお開けください」
執事だ。思わず向かおうとする私を、華が必死に引き留める。
「駄目。いまは出ちゃ駄目。お願い、何処かに隠れて。隙を見てから、抜け出すの。わたしが誤魔化すから、寝室から外階段へと向かって。そこから裏口に向かえるでしょう?」
「でも、彼は」
「お願い、月。今はわたしの言うとおりにして。さっき、一階でわたしは見たの。懐かしい友達の顔。日精の姿を……」
日精。
不安が的中した。半ば信じてはいなかったが、信じるしかないだろう。日精は我が城にいた人工花だ。しかしもともとは盗品で、本来の場所に返さねばならなかった。返した先は太陽の大地。その後、彼女は正式に太陽の花として引き取られた。そんな日精が何故、この城にいるのか。
私は声を潜め、華に告げた。
「分かった。華の言うとおりにしよう」
そう囁いて、華と目配せをし、寝室と繋がる扉の鍵をそっと開けて中を窺った。こちらには誰も来ていない。華を書斎に残し、私だけ寝室へと向かうと、すぐに扉は閉めて、こちらからも鍵をし、廊下につながる側の扉の前にそっと立ってノブに手をかけた。壁を通して廊下と書斎の会話が聞こえる。
「月様、いらっしゃいますのでしょう? どうか鍵を開けてください」
執事の問いかけに鍵の開く音がする。
扉が開かれると、執事が驚いたように声を上げた。
「華お嬢様、どうしてこんなところに」
「御免なさい。ちょっと遊んでいただけなの。月は此処には居ないわ」
「え? ですが、月様は先ほど……」
「今日は森に出かけるのでしょう? もう出かけてしまったのではないかしら?」
「……そうでしょうか。それならば仕方ありませんな。華お嬢様、ちょっと私と共に応接間へと来てくださいますか。お客様がいらしています」
「ええ」
声が遠ざかっていく。足音も遠くなっていく。二人分だ。太陽は来ていなかったのだろう。もう少しだ。外の気配は感じられない。ならば、今、華の提案通り外階段を使っていけばいい。
そう判断し、扉のノブの手に力をかけようとしたその時だった。
誰もいないはずの寝室にて、背後から白い手が伸びてきたのだ。扉のノブにかけた私の手を掴む、やけに温かい手。何度もその肌の感触を味わったことがある。誰の手か見間違えるはずがなかった。
「あ……ああ……」
恐怖のあまり震える私の腹部に、彼女の腕がまわされる。
「久しぶりね、月」
「……太陽」
誰もいなかった。それがなんだろう。生き物が入れなかったとしても、彼女はいきなり現れるのだ。そもそも、無駄な抵抗だった。
「私のお手紙、読んでないとは言わせないわ」
「太陽……私は……」
「こんな格好をして、聖剣を抱えて、何処に行こうというの。本当に悪い子」
「太陽、聞いてくれ……私は……」
振り返って説得する勇気が出ない私を、太陽はさらに抱きしめる。いやに密着されたまま、私はただ聖剣を落とさぬように耐えていた。
「せっかく着替えたばかりのようだけれど、貴女にはもう一度着替えてもらう。こんな戦いに向いた服ではなく、女神に相応しい恰好をしてもらいましょうか」
「太陽、お願いだ……今日だけでも……」
「駄目よ」
無理やり振り返らされて、私はすっかり力を失った。絶対的な女神の眼光は、我が森で獲物を狩る精霊たちのように勇ましい。膝より崩れ落ちる私を逃してはくれない。聖剣はついに手から落としてしまった。
「それなら……明日でもいい。明日でもいいから、私を屋敷に行かせてくれ」
太陽の手に支えられながら、私は必死に希った。彼女だって生き神だ。どんなに長く生きていたって、不老であったって、心はある。だから、この訴えもきっと通じるはずだとそう信じた。
しかし、信じることがいかに残酷なのか、私は思い知った。太陽は私の訴えなど一切聞いてはくれなかった。
「貴女の尊厳を穢したいわけではない」
太陽はそう言った。
「けれど、貴女はもう月として完成した。この城を出ることは許さない。これより、貴女はわたしの隣に寄り添い、生まれ変わる準備をしなくてはならないの」
「……太陽」
その名を呼んでも、彼女の美しい顔に浮かぶ表情は崩れない。
太陽はもっとも生き物から遠い美しいだけの姿をして、私に語り掛けてきた。
「貴女に子を産ませる権限は私だけが持っている。時は来た。跪きなさい、月。逆らうことは許さない」
時は来てしまった。時計の針は戻らないし、砂時計の砂も戻らない。捕まってしまった以上、私を待っているのは定められた道筋だけのようだった。
◇
目が覚めると、私は見慣れぬ寝台の上にいた。
この部屋もどこなのかすぐには分からなかった。目を覚ますとすれば、そこは私の為に存在する寝室だけのはず。けれど、今は違った。ここが何処で、何故、寝かされていたのか、私はすぐに思い出せなかった。
けれど、頬に触れられてハッと気づいた。
聖剣を手に外へと向かうはずだった私は、戦いには不向きの恰好をさせられ、寝かされている。体が妙だ。妙に疲れている。重たくて、それでいて満ちているような感覚だった。何が起こったのか分からないまま起き上がろうとしたが、それは別の者に阻まれた。
私の頬を撫でた者である。
「目を覚ましたのね、月」
囁きかけてくるのは太陽だった。視線を向けると、眩いほどの女神の後光を感じる。ぼんやりとしている私を、美しい姿のその人は、獣でも宥めるように撫でていた。
「ぐっすりと眠っていたわ。でも、もう少し寝ていなさい。すぐに起きると体によくない。月の女神はいつもそうなの。苦しいのはいやでしょう?」
「太陽、私はどうなってしまったんだ」
寝台から起きることも許されないまま、私は主人の顔を見上げていた。その顔には私個人に対する慈悲なんて何処にもないのだろう。
「私は、どうなってしまう」
恐怖は常に私の傍にいる。この先、何もかも許されないまま、自分の手で奇跡を掴みに行くことも出来ないなんて。
「私は忠告したわ」
太陽は言った。
「手紙に書いたでしょう。逆らうことは許さない。この言葉一つで貴女の意思はなくなってしまう。閉じ込めるだけで足りないのなら、本物のお人形にしてしまうことだって私には許されているの。これからしばらく、貴女は私が守る。貴女が忘れかけていた私たちの関係をゆっくりと思い出してもらうわ」
体に触れられて鳥肌が立った。太陽は嘘なんてつかない。この世の理を守るためならば、私の心を先に殺してしまうことも出来るのだろう。そうしないのは、彼女の慈悲があってのこと。
主従関係は最初からある。私たちは最初から対等な女神ではない。太陽は私の主人。彼女の力によって私は守られているのだから。
「悪いわね、月。貴女を虐めたいわけではないの。けれど、今の貴女を失うわけにはいかない。貴女の命にはこの大地すべての人の生活がかかっている。貴女が愛する精霊の娘たちの未来も、貴女が後継者を残さずに死ぬだけで破滅へと向かう。そうならないために、私は貴女を守るしかない。どんな手を使ってでも」
「……太陽。私はどうなってしまうんだ」
触れられるのは怖い。けれど、不快ではなかった。まるで幼い頃にずっと求めていた母の温もりのようだった。私はもう理解していた。私は子を産む。後継者を産む。すでにその準備が始まっている。
「貴女が産まれた日を覚えている。貴女の母が生まれた日も、祖母が生まれた日も。そして貴女の娘の生まれる日も忘れることはないでしょう」
彼女の全てを知っている。全てを知りながら、見ているだけだった。見ていることしかできない。太陽が介入できることは、太陽と月の大地を守るためのこと。そこから外れる願いに関しては、力を貸してなんてくれない。
だから、だろう。太陽は私を慰めるように撫でていた。
「すべては運命に委ねるしかない。貴女が私の腕の中で生きるのか、死ぬのか、委ねることしか私にはできない」
それが我が主人の答えだった。
◇
日没前に、私はようやく蝶や華との面会を許された。
無表情を維持する女中頭に連れられて、二人は青ざめた顔で太陽の部屋へと入って来た。執事の顔は見ていない。入室は許されていないのだろう。彼を観るのはもっと先のことになりそうだ。
女中頭はすっかり怯えた様子で頭を下げ、やけに丁寧な振る舞いで退室してしまった。その恐怖の対象は、この部屋を支配している太陽のみだろう。私は長椅子に座らされていた。寝台を降りることを許されただけでもましだと思うしかない。立つことは許されていなかった。
私の顔を見て、華が走り出そうとした。だが、蝶がそれを止める。視線の先には私だけでなく、太陽にも向けられていた。太陽の強すぎる光がこの二人の精霊の繊細な魂を燃やし尽くさないか心配だった。
私は出来るだけ気持ちを落ち着かせてから、やっと声をかけた。
「二人とも、心配をかけたね」
思っていたよりも力が出なかった。私と二人の間には距離がある。その距離は太陽の眼差しのみで作られていた。愛しい我が娘たちのはずなのに、この手で触れて抱きしめることが許されていなかった。
「多分もう知っているかと思うが、屋敷へは行けなかった。絡新婦たちはどうしているだろう。期待していただろうに」
ため息を吐く私の肩に、太陽の手が置かれる。その無言の威圧に怯えが生じた。
「絡新婦たちにはもう伝わっているわ」
蝶が答えてくれた。
「御日様の訪れの噂はすっかり広がっているの。月の力を頼りに出来ないと分かって、ますます気持ちを奮い立たせているみたい。月が気に病むことはないわ。彼女たちなら食虫花を守れるはずよ」
「……そうか。それならよかった」
俯きつつそういうと、蝶に手を握られたまま華が一歩踏み出した。
「まだ諦めないで」
太陽の眼差しなど恐れずに、華は強い口調でそう言った。
「食虫花はきっと何か重要なことを知っている。〈月の雫〉はわたし達が探すから、月は此処で待っていて。ね?」
「有難う、華。……心強いよ」
笑う顔に力が出ない。そんな私を蝶と華は寂しそうに見つめている。
ああ、そんな顔をしないでほしい。惨めな気持ちになってしまうから。
「貴女たち二人にも自覚をもってもらわなくては」
そこへ太陽が口を開いた。
「月の城で寵愛される娘たちは、これまでずっと新たな月の誕生まで大人しく城で過ごしてきた。貴女たちも例外ではない。くれぐれも無茶をして月の心に負担をかけるようなことはしないように忠告させてもらいましょうか」
直接的かつ威圧的な忠告だった。
傍で聞きながら黙っていることしかできないのがもどかしい。太陽の脅すような言葉の暴力に愛しいこの二人が晒されていると思うと、悔しくて仕方ない。それでも、私は黙っていなければならなかった。なぜなら、今の私は恐ろしいほどに太陽の命じる意図が分かってしまうからだ。言葉にならなくとも、私がどうあるべきなのか、太陽の命令が頭に直接響いている。
黙ったまま俯くしかない私を前に、蝶も華も歯向かうことなく耐えてくれた。ただ、二人の眼差しに灯るその光は、かつて私がこの子たちに抱いていたか弱い印象とは程遠いほどに、強くたくましいものに見えた。