4.異変
◇
応接間が久しぶりに使われることになった。忘れかけられていたこの部屋は、心なしか輝いて見える。だが、私は昨日よりも更に重たい心で長椅子に座っていた。目の前で頭を下げる女は人間でも神でもない。彼女もまた精霊だ。漆黒の姿は彼女の思い通りに変化する。空を飛ぶことも出来る彼女は蝙蝠の女。華たちに王子様と呼ばれる彼女が正式な形で城を訪れていた。
それは突然の訪問だった。いや、正確には珍しくもなんともない。彼女はいつだってこの城に来る。その姿を見ることは珍しくもなんともない。それでも、こんな形での訪れは珍しいとしか言えない。私だけではなく、女中頭や執事さえも驚いていた。
「一体何があったんだ」
取り乱した様子だと言っていたのは執事だった。庭に来るのは自由だが、客人としての面会を要求するのはよほどの限りない。それは月の森に棲む者ならば分かっていることで、彼女もそうだった。しかし、今はそれどころではない様子だ。怯えているように見えるのは気のせいではないのだろう。
たぶん、私にとっても悪いことである。そんな気がした。
「屋敷が……」
あまり聞きたくはないが、そうもいかない。
「食虫花の屋敷が襲われました」
「襲われた……いったい何に?」
「百足です」
蝙蝠の彼女はじっと私を見つめて言った。
「百足?」
「大食いの百足の精霊です。昔から潜んではいましたが、何故だかあの屋敷に目を付けた。ただの花なんて食べないはずなのに、彼は食虫花を狙っているのです。それだけではなく、彼女の隷属全ても。絡新婦たちが追い払おうとしていますが、不思議なほどに手ごわい。単なる百足のはずなのに、今では自らを大百足と名乗り、周囲にそう呼ばせている。魔女相手にも引けを取らない手ごわさです」
「そんな者が食虫花を……何故……」
「それは分かりませんが……。百足の精霊は肉を食べます。花なんて食べません。しかし、食虫花を狙えば隷属が慌てて守ろうと現れます。もしかしたら、それを狙ってのことなのかもしれません」
「狩りの為に食虫花を……」
なるほど、大いにあり得るだろう。あの場所にはたくさんの精霊たちが身を寄せあっている。その弱点がか弱い花であるとすれば、付け入るのはとても簡単なことだろう。
何にせよ、放っておくわけにはいかない。食虫花を枯らされればあの場所の生き物がたくさん死んでしまう。それに、私情だが彼女は〈月の花〉に関する知識を持ったまま咲いているのだ。
「現に怪我をした者もいるようです。大した怪我にはなっておりませんが、そのうちに本当に食べられてしまうものもいるかも。もしくは、食虫花が枯らされることだって……」
「まずいな。どうにか追い払わないと」
「ひとまず絡新婦が百足に勝てるような魔女や魔法使いに協力を仰いでいます。しかし、あまりいいお返事が得られなくて……。私もささやかながら彼らと共に戦います。今日はその間、情報が滞ることをお伝えに参ったのです」
なるほど。ならば、絡新婦の使い達はいまも屋敷にいるのだ。代わりに出てきたのが食虫花の隷属でもなく、絡新婦の隷属でもない、自由な身分の蝙蝠の王子様。彼女が報せに来たという事は、実はなかなか厄介な状況に追いやられているということなのではないだろうか。
「今日、執事と女中頭に話をする」
私は静かに言った。
「聖剣を手に現場へ向かってみよう。明日まで持ちこたえられるか?」
「ああ、月様! 有難うございます」
素直に喜ぶ蝙蝠の彼女に向かって、私は付け加えた。
「だが、万が一も考えておいてほしい。出来るだけ二人を説得するし、出来なかったとしても強引に駆けつけよう。しかし、人間というものは侮れなくてね。下手をすれば閉じ込められてしまう可能性もある」
「分かりました。絡新婦にもしっかり伝えておきます」
深々と頭を下げる蝙蝠の王子様は、女性らしい見た目をしていながらも本当に王子様のようだった。
そんな彼女に向かって、私は一言だけ授けた。
「幸運を祈る」
この言葉がせめて彼女を介して屋敷の者たちに届くように。
◇
書斎で並んで立つ二人を見比べてみれば、少々年を取ったのがよく分かる。執事はここしばらく毎日のようにじっと顔を合わせたが、女中頭の顔をまじまじと見るのは久しぶりかもしれない。さすがに老けたように思う。だが、年の割には若い見た目かもしれない。
この部屋の壁には鞘に収まったままの聖剣がかけられている。手を伸ばすのは、勿論、明日ということで話を着けようとしていた。これが私に出来る最大の譲歩だった。
「食虫花を守るのには意味がある。彼女の隷属は非常に多い。あの場所で一気に隷属が死ぬようなことがあれば、大地の不浄にも関わる。食物連鎖は介入できずとも、そのような不自然な死は止めなくては」
「ええ、それは……分かるのですが」
執事が唸りながら呟きだす。それ以降を言わせぬためにも、私は続けた。
「それ以外の理由は私情かもしれない。だが、食虫花は〈月の雫〉というものについて知っている様子だ。〈月の雫〉だ。二人とも、その名を聞いたことがあるか」
強い眼差しでその顔を見つめてみれば、執事は俯き、女中頭もまたやや目を逸らしてしまった。ああ、やっぱりそうだ。そうでないわけがなかった。
「沈黙は、肯定と判断するが」
二人とも嘘をつけるような人物ではない。それでも、何も言えず、言葉も見つけ出せないまま、ただ黙っていた。
先代の女神つまり私の母の存命を願っていたのならば、あの記録のことぐらい分かっていただろう。あらゆる手を尽くそうとしたとも聞いている。
分かっていた。この二人はずっと知っていたのだ。
「申し訳ありません」
女中頭が目を逸らしたまま言った。
「その言葉は封印したのです。最初からなかったものとして」
「なぜだ、理由を言え」
淡々とした彼女の言葉に、思わず強い口調で強請ってしまった。
「なぜ、私に黙っていた。なぜ、封印したんだ。それがあれば、私は生き延びられるのだろう?」
「月様はいつの時代も月様そのひとです」
執事が俯きながら言った。
「ご出産を経て記憶はなくなるでしょう。しかし、新しい体で成長していくのは確かに貴女様であられるはずなのです」
「そういう話は聞き飽きた。頼む、教えてくれ。どうしてお前たちは〈月の雫〉について黙っていたんだ」
二人とも沈黙してしまった。怒っているわけではなく、青ざめた顔をしていた。この二人がどういう意図をしているのか、私はこの目で見分けなくてはならない。だが、その一方で信じてもいた。なぜなら、この二人は太陽に認められた人物である。もしも、私に害をなすとすれば、太陽がこの二人を好きにさせるわけがないからだ。
その信頼通り、二人は実に人間らしく観念したのだ。
「申し訳ありません」
そう言ったのはやはり女中頭だった。
「しかし、私共は……私は……」
言いかけて、口を閉じてしまった。私は気づいた。泣くのを我慢しているのだ。そんな彼女を庇うように、執事の方が続きを述べた。
「月様のご指摘通り、私共は存じておりました。しかし……」
執事はふと聖剣へと目を向けた。
「しかし、私共は運命に敗北しました。〈月の雫〉を求めたところで、我々の前には現れなかった。どうしても、たどり着けなかったのです。その結果、時は来て、貴女様は生まれ変わった。当時の我々にとって悪魔のような響きでした。期待をさせられた分、私共とお嬢様の悲しみがどれだけのものだったか……貴女様は覚えていらっしゃらないのでしょう」
淡々と語る彼は、心を失っているようだった。
お嬢様。真っ白な人工花の肖像画を思い出す。華によく似た彼女。私の記憶には微かにしか残っていない。私を庇った結果、殺されてしまった。殺した蝙蝠を私は許した。だが、母の記憶が残っていたとして、そんなことが出来ただろうか。いかに女神とはいえ、私情に振り回されるのが生き神というものなのに。
私は母ではない。生まれ変わりという建前で人々の悲しみを誤魔化しているだけなのだろう。魂が同じだったとしてそれが何だというのだ。母の時代を一切思い出せないのならば、それはもう死んでしまったのと同じ。
私にはそれ以上、二人を責めることが出来なかった。
「申し訳ありません、月様」
震えた声で女中頭が言った。
「私共は怯えていたのです。貴女様がお生まれになったその時、また同じことが繰り返されるのかと思えば恐ろしかった。そもそも、太陽様にもどうすることも出来ないと分かっていたはずなのに……。だからこそ、〈月の雫〉という言葉がもたらした傷に苦しんだのです。申し訳ありません、本当に……」
老いた女中頭が堪えながらも流す涙を見つめ、私はすっかり怒りをひっこめてしまっていた。この二人は人間なのだ。心が宿り、物事を考え、傷つきもする生き物なのだ。そのことをしっかりと受け入れ、私はため息交じりに口を開いた。
「こちらこそすまなかった。やや感情的になってしまったようだ」
机を指で叩き、しかし言葉を探りながら私は二人に告げた。
「だが、私は諦めるつもりはない。ぎりぎりまで〈月の雫〉とやらの存在を探るつもりだ。それには食虫花の身体に眠る記憶と知識が必要なんだ」
二人とも沈黙したまま聞き入れている。そんな側近を見つめ、私は畳みかけるように言った。
「明日、私は聖剣を手に食虫花の屋敷に向かう。留守を預かってもらうぞ」
二人とも、異論はないようだった。
◇
夕暮れ時、書斎から窓の外を眺めれば、ちょうど蝶が森から戻ってくる姿を見つけた。蜜を吸いに行っていたのだろうけれど、私は少々心配だった。遠出をするなと言いつけても遠出をするのが彼女である。蜜を吸うための狩りだけではなく、その行先には絡新婦の住まいや時には食虫花の屋敷まで候補にあがっていると聞いている。彼女は決して話さないが、私には筒抜けだ。
今日も無事に戻って来た。それを感謝しつつも、不安はいつも同じだった。しかし、心配のあまり閉じ込めてしまうのはやはり違うと思った。結局、明日も外に出たいと言われれば、私は外に出してしまうのだろう。我が子を信じて外へ遊びに行かせる母親もこんな気持ちになることはあるのだろうか。
――蝶にはなんと言おう。
聖剣を手に屋敷へ向かう。しかし、蝶と華には留守を預かってもらうつもりだった。自由に過ごしていて構わないが、危険な屋敷には連れていけない。心配するかもしれないが、相手は食虫花ではないのだ。心配させずにうまく留守を預かってもらうよう説得するにはどんな言葉を並べるべきか。
それにはまず、胡蝶の魅了に取り憑かれないように気を付けるべきだろう。
――何にせよ、まずは蝶に。
と、窓辺から振り返ったその時、私は背後に奇妙な変化を感じた。誰もいない室内。誰かが入った形跡なんてない。私はしばらく一人でこの部屋にいた。ならば、変化など私が起こしたもの以外に起こりえない。それなのに、私は気づいたのだ。やけに片付いた机の上。仕分けられた手紙とは別に、見覚えのない新しい手紙が置かれていたのだ。
「これは……」
恐る恐る近づいていき、その姿を、その封蝋を、しっかりと確認してもなお、私は手に取ることも躊躇ってしまった。
手紙の宛名にはいつものようにこう書かれている。「愛しの月へ」その言葉が呪われているかのようで、私はそのまましばらく立ち尽くしてしまった。開けるのが非常に怖かった。手に取ることすら出来なかった。それでも、読まなければならないことは分かっている。
これは主人の命令だ。私は太陽に逆らえない。
「愛しの月へ」
乾ききった空気を吸うのはつらい。
「貴女の勇敢な姿を常に見ていた。しかし、残念なことに時計の針は進むもの。貴女に聖剣は握らせない。あの百足を追い払うのは今の貴女には危険すぎる。食虫花の命運も、貴女の命運も、全ては定めに従うのみ。これは忠告。愛する貴女への忠告であり警告でもある。もしも籠の鳥になりたくないのならば、明日以降もこの城で大人しく過ごしなさい」
太陽。あの人からの手紙だ。忠告であり、警告。私が食虫花の屋敷へと向かうことを禁じている。聖剣を持たせ、あんなにも危険な戦いに身を投じてきても閉じ込めたりはしなかったのに、どうしてなのか。
分かっていた。時計の針は進むものなのだ。
時間がすぐそこまで来ている。太陽がここに訪れる時、私の全てが運命に委ねられてしまう。
しかし、あと少し。あと少し待ってほしい。手紙を握りしめたまま、私は動揺を隠しきれぬまま立ち尽くしていた。一人でよかった。こんな姿を城の者たち、ましてや華や蝶になんて見せられない。
「忠告であり、警告でもある」
無視すればどうなるだろう。
しかし、私の気持ちを抑えるには鎖が必要だ。そんな鎖は生憎持っていない。ならば、この手紙は読まなかったことにするしかない。明日、太陽が訪れるより前に、私は屋敷へと向かう。城さえ出てしまえば太陽には阻まれないはず。百足を追い払い、食虫花を守り、〈月の雫〉の情報を手に入れてから甘んじて受け入れよう。
太陽は怖い。しかし、恐れてばかりはいられなかった。やはり私は死にたくないのだから。