3.知識
◇
相変わらず仕事はない。蝶は何処かへ遊びに行き、華はいつも通り友人たちと遊んでいる。そして私の方は、昨日、大紫を迎えたあの場で話を聞いていた。今日、私の元に来たのは蚕の方だった。大紫は絡新婦と共に食虫花の屋敷にいるらしい。
たった一回の接触で全てを聞き出せるわけもなく、彼が持ってきたのはあくまでも現状報告のみだった。具体的には、絡新婦と食虫花の交流の記録だ。絡新婦自身の伝言だけではなく、その目で実際に見たという記憶も教えてくれた。
「絡新婦様のお力でも、いまの食虫花から言葉を引き出すのは困難のようです」
彼は言った。
「食虫花はいまやただの花と変わりません。彼女の隷属達であっても主人との交流は単純な感情のみを介しているようです。絡新婦様は魔女同士ならば少しはと期待したようですが、一筋縄ではいかぬよう。それでも、少しは聞けました。どうやら食虫花の持つ知識は期待しているよりも膨大のようです」
「膨大?」
「はい。食虫花はかつて月の森で暮らす魔女たちを捕らえ、素直に従わぬ者は食べてしまうことで力を得ていました。魔女同士の捕食は全てを支配するということなのだと絡新婦様は言っていました。食い殺した魔女たちの記憶と力と知識はそのまま食虫花に宿ったのです。つまり彼女はもはや生まれたときの彼女ではなく、あらゆる魔女たちと融合した存在ともいえるのです。物言わぬ花となった今、彼女の力は封印されました。でも、膨大な知識や記憶は眠ったままなのです」
食虫花が月の森を荒らしていたのは確かだ。絡新婦と初めて会った時も、食虫花は私と戦う絡新婦が傷つき弱るのを期待していた。連れ去ったのも、彼女を食べるつもりだったからだろう。最後の戦いとなったあの時も、私たちに力を貸そうとしていた絡新婦の友人が食い殺されたと聞いている。
魔女同士の食い合いはただの食物連鎖とは違う。それに関してはあまり詳しくはないが、多くの悲鳴と絶望で大地が穢された結果、私の望む知識が一つの花として宿っているというのは何とも皮肉なことに思えた。
「その中に〈月の雫〉に関することも?」
「ある、と絡新婦様は考えていらっしゃいます。私もその場で聞きました。特に食虫花は貴女様を狙っていたため、月の女神に関する詩文に興味を持っていたようです。力ある魔女を積極的に捕えていたのもそのためでしょう。少しだけ得られたものがあります。お聞きになりますか?」
「頼む」
短く促すと、蚕は身を正して答えた。
「『女神の慈愛を受けし者、その体は器となり、月の雫を産むだろう。月の雫を月に飲ませよ。さすれば死は月を諦め立ち去るだろう』」
「女神の慈愛……器……」
噛みしめつつも、頭が重たくなった。
いや、重たいのは死という言葉のせいだろう。その詩文によれば、私は死に攫われる。生まれ変わるのではない。間違いなく死ぬといっているのだ。その直接的な表現に体が震えた。
「この詩文が具体的に誰のものなのかはわかりません。しかし、絡新婦様の問いかけに対して、食虫花の身体からどうにか聞き取れた言葉がこれでした」
「そうか……」
動揺を隠しながら、私は改めて新しい詩文に向き合った。長くはないが短くもない。その中に重要な要素はいくつもある。月の雫は偉大な魔女が産むと絡新婦の覚えていた言葉にはあったが、こちらでは女神の慈愛を受けた者とされている。そして月の雫を飲むようにと言われている。具体的な情報なのだろう。
「この詩文の『女神』と『月』という表現については、まだ確かなことが言えません。それについて、絡新婦様はもう少し詳しく聞いてみるとのこと」
「なるほど……苦労を掛けてすまない」
「いえ。私どもは絡新婦様ともども助けていただいた身です。苦労などとは思いません」
「そうかな。君たちには助けた以上に役に立ってもらっている気がするよ」
思い出せば昨日のようにも思えるし、遥か昔のことのようでもある。絡新婦も蚕も初めは敵のようなものだった。可愛い蝶を奪っていった不届き者。それでも、共通の敵を前に私は彼女を救い、それからずっと彼女たちは私に尽くしてくれた。
奇妙なほどの恍惚にぼんやりとしていると、蚕がふと見上げてきた。
「月様」
その声かけに我に返る。
「すまない。感傷に浸ってしまった」
「いいえ。ただ月様、諦めないでください。せめて、その時が来るまでは――」
言いかけたものの蚕は口ごもった。そして、力無く地面へと視線を落とし、消え入りそうな声で詫びてきた。
「……申し訳ありません」
男性であっても胡蝶らしくしおらしいその姿に、何故だかほっとした。
「いいんだ。有難う」
礼を言っても蚕は俯いたままだった。
◇
蚕との話が終わり廊下を歩いていると、華がいた。友人たちは何処へ行ったのだろう。彼女は一人きりで廊下に立ち、私を見つめていた。薄暗い空間に目立つ白色。近づいて行けば、華は一歩も動かずに私を見つめていた。そして、すぐ近くまで行ったときにやっと、彼女は口を開いた。
「蚕と何を話していたの?」
庭から見ていたのだろうか。立ち止まり、ため息をついてわたしは華に視線を合わせた。
成長したと言っても背は小さい。これ以上伸びないのかもしれない。成長したと言っても顔立ちも子供っぽい。そもそも、そういう顔なのかもしれない。それでも、私にはどうしても華がまだ少女だからなのだと思えてしまう。実際、人間の十五、六なんてまだ子供だ。体の成長も整ってなんかいない。しかし、華は人間ではない。愛らしい外見の人工花なのだ。
昔の華だったら、蚕と私の会話になんて興味を持たなかったかもしれない。持ったとしても、こんな顔をして訊ねてくるようなことはなかっただろう。そのくらい、華は真剣に訊ねてきていた。
私はどう向き合うべきか。
「森であったことを聞いていた」
「王子様とお姫様が言っていたの。昨日、絡新婦が食虫花のお屋敷に向かったのですって」
王子様とお姫様。どちらも本物などではない。王子様は蝙蝠の女性、お姫様は白い花の少女。どちらもこの城にたびたびやってくる精霊たちだ。私と食虫花の戦いに味方し、力を貸してくれた。今では、華の遊び相手でもある。
「絡新婦は食虫花の知識を聞き出していた。王子様もそれに立ち会ったのですって。その内容は、この大地の女神に関すること」
華の深紅の目が私を捕らえている。こんなにも愛らしいのに、その心はしっかりと成長したものだとしみじみ思った。
「わたしにも教えて、月。わたしはもう大人なのでしょう?」
「それは……そうだけれど」
「ねえ、月。貴女はわたしのご主人様よ。貴女の命令なら、わたしは何だって聞く。そうするのが人工花のあり方なのだって学んできたもの。けれど、月、貴女ならもう分かっているわよね。わたしはあまりお行儀が良くないの。でも、それは理由があってのことよ」
本当に愛らしい子だ。私にしがみついて必死に訴えてくる。
「わたしにも、知っていることをきちんと教えてほしいの。〈月の雫〉のこと。それがあれば、月は死なずに済むのよね。見つけることが出来たら、これからもずっと月と一緒にいられるのでしょう?」
真っすぐな目だった。宝石のようなこの赤は人間たちが虜になった輝き。その中に黒真珠のような瞳がはめられている。この子を造ると決めた神は本当にいい感性を持っている。そんな美しい花の子の主人であることが、今になって不思議なほどに誇らしく思えた。
「ねえ、月。まだ希望は残っているのでしょう。じゃあ、どうして貴女はそんなにも諦めたような顔をしているの?」
華に抱き着かれながら、私はただその背を支えていた。華の純粋な言葉が突き刺さる。私だって諦めてはいないつもりなのだ。それでも、心のどこかであまり期待してはいけないという声が響くのだ。これはきっと長い間ここで過ごしながら私の身体に染みついた先人の知恵の声なのだろう。
先代の月は存命を期待された。その事実は私も知っている。執事も女中頭も、私の母の存命を期待した。それならば〈月の雫〉に関して何も知らないのは不自然だ。それでも、彼らは私にそんなことを一切言わなかった。何故か。分かっている。理解している。同情もしている。彼らは期待しすぎた。〈月の雫〉さえ手に入れればいいと分かったのだろう。しかし、母は死んだ。私として生まれ変わったとされるが、そんな言葉は気休めだ。母は死んだのだ。私は母ではない。そのうちに私が産む娘が私ではないように。
そんな空気をずっと吸ってきたからこそ、私は期待を抱き過ぎるのを恐れているのだ。沈黙のままに一つの理解へとたどり着き、一人だけ納得していた。しかし、目の前のこの子が分かるはずもないだろう。黙ったままの私に抱き着き、涙など流さぬ私の代わりに大粒の涙を浮かべはじめたのだ。
「泣かないで、華」
私はそっと囁いた。
「諦めてなんていないさ。だからこそ、情報を集めている。私も生まれ変わりたいわけじゃない。華や蝶と過ごした日々を忘れてしまうのは嫌だからね」
死んでしまう、そんなネガティブな言葉は飲み込んでしまった。
脅したって何にもならない。
「可愛い華。知りたいのならば、ちゃんと話すよ。〈月の雫〉について、蚕が今日教えてくれた。〈月の雫〉は女神の慈愛を受けた者が生み出すらしい。それを月が飲めば、死なずに済む。そういう話を食虫花が知っていたらしい」
「食虫花が……」
「ただの花と化しても心が死んでしまったわけではないからね。記憶は彼女の中に封印されている。それをどうにか引きずり出しているらしい」
「花の心を読もうとしているのね」
「そのようだね」
すると、華は私の手をぐっと掴んできた。真っ白な手だが、力強い。ひ弱に見えても華はいたって健康的な乙女だ。それを感じて、ちょっと安心した。
「ねえ、月。わたし、明日ちょっと遠出をしてきてもいい?」
「外に出るのはいい。でも、城の周りを少年たちと歩く程度だ」
「……食虫花のお屋敷に行きたいの」
はっきりとした主張にため息が漏れた。分かっていた。彼女がこんな要望を出すのは予想済みだった。それでも、許可は出来ない。食虫花の屋敷はとても遠いのだ。一緒に行ったこともあるし、少年と二人で駆けてつけて来たことだってあった。それでも、安易に許可するには遠すぎる。月の森は彼女にとって危険すぎる場所でもある。どんな愛らしい理由があったとしても、私はそれを許可することが出来なかった。
「華が行くことはない。彼女のお屋敷は少し遠い。……私のことを本気で思ってくれるのなら、華にはこの城の中で遊んでいてほしい」
「……月」
自分でも思ってみなかったほどの弱音のような言葉が漏れたせいか、華が驚いたように私を見上げてきた。諦めないで、と彼女は願った。それでも、私はつい言葉や態度の端々に、虚無感を含んでしまうのだ。
これは今まで私が無意識に癖としていたらしい、気だるさを隠さない態度とは違うだろう。疲れているのではない。このところずっと、なんだか心が重いのだ。生まれ変わったら、私の心は何処へ消えてしまうのだろう。怖くて仕方なかった。
「御免なさい」
華は言った。
「御免なさい、月。わたし、貴女の傍にいるわ」
私は恵まれている。恵まれているのだ。こんなにも優しい花に思われて、癒しをもらっているのだから。
だから、私は不幸なんかではない。
死を恐れてはならない。希望を持ちすぎてはならない。諦めないことと現実から目を逸らすことは違う。私は許された時間の範囲で、出来る限りのことをしなければ。
震える華を慰めながら、私はそんな思いを固めていた。
◇
窓を閉めて夜風を遮るだけでも、空間は狭まるものだ。同じベッドで身を寄せ合う蝶の温もりも、その分増しているような気がした。ベッドに横になりながら、私は今日のことを振り返っていた。
調べ物は難航している。この城に残された記録では、確かなことが分からない。月の雫は何故生まれたのか。誰が産んだのか。どのような背景があったのか。よく分からないまま、ただどんな者が持ってきて、どのように月に与えられたかばかりが記されている。
魔物を倒した勇者の話もそうだ。返り血を浴びた彼が口づけをし、その月は自分自身ではなく姫を産んだ。では、その返り血が〈月の雫〉だろうか。しかし、そこで引っかかるのは「女神の慈愛を受けた者」という食虫花の知っていた表現である。慈愛を受けた者が森を荒らしたのだろうか。それとも、魔物の返り血は全く関係がないのだろうか。
他の記録もよく分からない。しかし共通点は見つけた。月の姫が生まれた時代は、誰かが月の懐妊後に聖剣を手に森へと向かっている。それは月自身の時もあったし、第三者のこともある。そして第三者の場合は、月と接触しているのだ。ああ、ここに〈月の雫〉のやり取りの秘密が隠されているのだろう。
分かったのは此処までだった。いくら分かったとしても、私自身の今の状況に照らし合わせなければ意味がない。
「華はますますしっかりした子になったわね」
仰向けに寝ていると、ふと横にいた蝶が私に体を寄せながらそう言った。魅惑的なその眼差しが私の顔をじっと見つめている。一瞬でその魔力に絡めとられながら、私は静かに受け入れた。それを見て、蝶は私の身体の上に覆いかぶさってきた。
「夕餉の時に言っていた。月から直接、〈月の雫〉のことを聞いたのですってね」
「君も聞いたのか」
ため息を吐くと、蝶は怪しげに笑いながら抱き着いてきた。
「貴女のことだから隠そうとしていたのかしら。強すぎる期待は怖いものね。でも、蚕や大紫に何を言ったところで、別の伝手があるだけ。それに、絡新婦は貴女への忠誠心も強いけれど、あたしにはとても甘いのよ」
寝そべる私の胸元に耳を当てながら、蝶は言った。悩ましいその声。このやり口でいつも花を捕まえているのかと思うと、蜜を持つ花に生まれなくてよかったと心底感じた。その反面、蝶になら好きにされてもいいとも思ってしまうのだから面白いものだ。
「絡新婦に甘える必要はないさ」
私は言った。出来る限り感情を抑えて。
「君の知りたいことも、私が直接教えてあげる」
「本当に?」
疑わしく見つめてくるつぶらな瞳を見つめ、私はその頬に手を添えた。こうして私を支配しているつもりかもしれない。それでも、少し手を伸ばしてしまうだけで、彼女はもう動きを止めてしまう。
胡蝶の魅力の一つだ。こういう時もまた、私は思うのだ。胡蝶を食べて生きる精霊に生まれなくてよかった。ただ純粋に彼女を喜ばせるだけの存在でいられることが、なんて幸せなのだろうと。
手の動きだけで蝶の動きを支配してしまうと、私は囁いた。
「本当だよ」
唇と唇がすぐそばまでくる。蝶の身体から力が抜けている。でも、精霊の身体はちっとも重たくない。
瑞々しい吐息を感じていると、蝶は私に訊ねてきた。
「いつ、教えてくれるの?」
期待を不安の入り混じる目をしていた。怯えているような表情がたまらなく愛おしい。そんな彼女に私は答えた。
「この後で」
そして、今宵もその唇をいただいたのだった。