2.記録
◇
「〈月の雫〉?」
いつも森の胡蝶の訪れがある出窓の部屋にて、私はそう尋ね返した。庭にて私と接しているのは胡蝶の娘。その名前は大紫という。森の何処かで隠れ住む絡新婦という魔女の隷属であり、同じ立場の胡蝶の青年、蚕と共に主人の言伝を運んでくる。
大紫は深々と頭を下げながら、頷いた。
「はい〈月の雫〉で御座います」
蝶よりも羽化した時期が数年遅い。けれど、彼女は大人びた胡蝶だ。森で暮らしている為なのか、元からそういう性質なのかは分からない。だが、彼女の妹だという鳳という胡蝶を思い出してみれば、生まれつきの性質なのかもしれないと感じた。
大紫は実に優雅な雰囲気をまとい、私を見上げてきた。
「絡新婦様がお母様より魔術と共に受け継いだ言い伝えで御座います。『偉大なる魔女が月の雫を生み出したならば、月の姫が生まれるだろう。魔女は月の輝きを忘れるな。月の雫はお前たちにしか生み出せないのだから』という詩です。聞くところによれば、これは真実を表しているとのこと。つまり、〈月の雫〉があれば、貴女様は月の姫をお産みになる、と絡新婦様はお考えです」
「〈月の雫〉なんて聞いたことがない」
「しかし、このお話を知っているのは絡新婦様だけでは御座いません。実を言えば、食虫花も知っているのではと絡新婦様は申しておりました。そうです。もっと言えば、このお城にも記録が残されているはずなのです」
「この城の記録……」
大紫に言われて、私はふと城の上階へと思いをはせた。
この城で紡がれた膨大な記憶は記録となり、書庫に眠らされている。以前も度々そこを訪れ、あらゆる知識や記録を確認してきたものだった。そう、月の姫のことだってそうだ。三十で出産し、私が死ななければ子は月の姫となる。最初は知識人によって知らされた事実だったが、彼に促されて訪れた書庫でも同様の記録を見つけることが出来た。さて、そこに〈月の雫〉なんて単語があっただろうか。思い出せない。なぜなら、記録というものは回りくどい表現が多用されているものなのだ。賛美や比喩のひとつとして理解してしまったかもしれない。
何にせよ、もう一度確認するに越したことはない。
「現在、蚕が食虫花の屋敷に向かっております。そちらで彼女の隷属達と協力し、ただの花とかしたかの魔女の意思を汲み取ろうとしております。彼女に一番かわいがられていた鳳の力をもってしても難しいようですが、時間の問題でしょう」
「私ならばもっと強い力で聞けるかもしれない」
聖剣を手に屋敷へ向かうと言い出しても、もう誰も止めたりはしないだろう。その気になれば、いつだって準備はできる。
「……それでしたら、どうぞ蚕の報せをお待ちください。明日、もしくは明後日、蚕は我らのもとに戻ってきます。それまでにどうぞ、〈月の雫〉にまつわるお話が残っていないか、月様にもお探し願えたら非常に有り難いのです」
「分かった。探してみよう。大紫、絡新婦や蚕にも伝えてほしい。このことは、くれぐれも――」
「隠密に、でしょうか」
紫色の眼差しが私へと向く。蜘蛛に愛されながら生きる雅な胡蝶もまた、怪しげな魅惑を周囲に放つのだ。
「特に、蝶には黙っていてほしい」
「蝶お嬢様は貴女様の為なら無茶をなさる御方。分かりました。お言葉通り、このことは蝶お嬢様や華お嬢様の耳に入らぬように留意するよう皆に伝えておきましょう」
しっかりとした彼女の言葉に、私はほっとした。頼みは聞いてくれる人物だ。特に絡新婦もまた蝶を大事に思っている。理解してくれるだろう。
「有難う」
そっと礼を言えば、大紫は静かにその場を去った。
◇
書斎に向かえば、やはり仕事は殆どなかった。
執事は机の前に立ち、昨日よりもさらに老いたような気のする顔でそっと私を窺っている。ここ最近、彼は長く仕えた忠臣のように振る舞っているものだから、私の方も以前から彼が穏やかな老爺であるような気がしてしまうのだ。
書類を手に取り、私は言った。
「私には誰がいいのだかさっぱりだ」
議題は昨日と同じこと。華の相手についてだった。華がそれでいいと言った以上、私にとっても迷いなんてなかった。人工花の幸せなんて分からない。分からないが、私が勝手に判断していい話でもない。私の命令には誰も逆らえないのだ。華を守るならば、確実に守られる道を残すのみだ。
とはいえ、私自身は人工花について最低限の知識しか持たない。血統をこうして並べられても、どの花が華にとっていい組み合わせとなるのか分からない。どうせ、二人の間を介すのは蝶だ。この際、蝶の意見も聞きたいところなのだが、胡蝶の意見を参考にするのは人間にとってあまり良くないことだと執事は教えてくれた。何がどうよくないのか、聞いたところで納得できる答えは得られないだろう。
「難しいお話ではありませんよ」
執事は妙に優しい口調で言った。
「プロフィールに書かれている内容で気に入ったところに注目するのです。それに、焦らずともご安心を。最低限絞っていただければそれでいいのですから」
数名からさらに候補を絞るだけだ。
銀髪に赤い目。輝かしい髪はそれだけ価値のあるものであるし、目の色も赤みが濃ければ濃いほど良いとされている。華の目は深紅であるし、髪の色も素晴らしい光沢がある。つまり、これが人間たちの求める美なのだ。美しいのは確かだが、私は森に遊びに来る華の友人二人の柔らかな白と薄まった紅色の目も嫌いではない。それでも、このプロフィールに並ぶ少年――いや、青年と呼ぶべきかもしれない――の特徴には、そういった者は一人もいない。
「知識が必要でしたら少しだけ」
執事は身を正して言った。促せば、彼は嬉々として教えてくれた。
「花売りの家系にもわずかながら相性というものがあります。たとえば、華お嬢様のご実家は白銀と呼ばれる家で、昔から銀髪と深紅の目を持つ質のいい人工花の血を守っております。もちろん、こうしたスタイルは何処の家も同じなのですが、たとえば、こちらの青年」
と、執事は一人の書類を示した。
「彼の実家は純白といって、初めて月下美人の精霊たちを集めて血統管理をし、人工花の基礎を作り上げたとされる花売りの家です。彼の血筋はもっとも古く、より純粋な月の花の血を受け継いでおります。人工花の年頃の青年の中でも、価値の高い人物と言えるでしょう」
一方、と執事は別の者の書類も示した。
「こちらの青年の実家は舶来と呼ばれ、その名の通り、他所の大地の花の血も取り入れているのです。ですから、銀髪に深紅の目といっても、顔立ちの記述が何処か特徴的でございましょう」
「言われてみれば、確かに」
「こういった特性に対しての評価は賛否あります。一つは先祖返りを心配する声。要するに、生まれてくる子供の中に深紅の目も銀髪も持たない子供が生まれることを危惧した声。もう一つは健康です。ご存知かと思いますが血の多様性は近年重要視されております。偏った血筋ですと持病のある子が増え、次世代を残すことが出来ずに途絶えてしまう危険もあります。だからこそ、白い花と他所の大地の血筋をうまく交えられる舶来の家の才知は価値があるのだと、そう言われてもおります」
なるほど。他の者たちもこうした特徴があるのだろう。極端な二人を紹介され、私はやっとこの似通った書類にも興味が持てた。
「個人的には華が生む子は健康だと嬉しいな」
そう言ってみると、執事はふと私の顔をまじまじと見つめた。
怒りもせず、笑いもせず、ただぽかんと見つめてくるその様子が気になった。
「どうした?」
「いえ、その……かつて先代様も同じことを言われたので」
そして、朗らかな笑みを浮かべると頭を下げてきた。
「では、舶来の家の青年に絞っておきましょうか」
「……その他にも、華と血筋が遠い者……無理のない健康な組み合わせになりそうなものにしてほしい。私からの希望はそのくらいだ」
「かしこまりました」
書類を渡し、それを受け取る執事を見つめながら、私はふと亡き母を思った。同じことを言った。母が。いや、彼らの信仰ならば私自身なのだろう。でも、私にとっては亡き母だ。そうか。母もあの人を愛していたのだ。私が華を大切に思っているように。
「それで、月様。お話というのは?」
促され、私は我に返った。
「あ、ああ。書庫を使いたい。鍵を開けてほしいのだけれど」
「書庫で御座いますか。でしたら、必要な書類を持ってくるように使用人に言いつけておきますが」
「いや、自分で探すよ。最近はすっかり暇になったからね」
さっぱりとした机の上。すでに読んでしまった手紙。誰も来ないものだから、応接間も寂しく閉ざされたままだ。仄かな切なさを感じていると、執事は書類を胸に持ったまま、恐る恐る訊ねてきた。
「もしかして、月の姫様に関することでしょうか?」
ため息交じりに頭を抱え、私は小声で彼に訊ね返してみた。
「〈月の雫〉というものを聞いたことがあるか?」
「……〈月の雫〉ですか」
「絡新婦の使いから聞いたのだ。魔女に伝わる話に出てくる言葉。偉大な魔女が産み、それがあれば月の姫が生まれるらしい」
沈黙する執事が少し気になって目を向けてみれば、彼は視線を落としたまま口を結んでいた。何を考えているか窺おうにもその目はよく見えない。
「とにかく、〈月の雫〉に関する記録を探してみる。鍵を開けてほしい」
「……かしこまりました。すぐに」
なぜだか元気がない。私の姿がそんなに痛々しいだろうか。期待してはいけないという雰囲気はよく伝わってきた。なぜなら、期待して抗おうとした母は死んでしまったからだ。執事も女中頭も学んだのだろう。これまで、あれほど口煩かったこの二人が、こんなにも日々優しいと逆に辛い。
「頼んだ」
短く言えば、執事は無言で頭を下げて去っていった。
日は傾き始めている。今日は少しだけ充実した一日となりそうだ。
◇
書庫に眠る記録は膨大なものだ。此処で過ごし、死んでいった歴代の月たちの記録がたくさん残されている。記録は記録した者の心ともいえる。古ければ古いほど、その客観性には欠け、物語でも読んでいるかのような印象を受けるものもある。見つけ出せた中で一番古い月の姫に関する記録はそういったものだった。
月の姫の誕生。太陽の訪問。人間たちの書いた空想物語のセリフ回しのような会話記録。その中で、〈月の雫〉という単語そのものを見つけることは出来なかったが、ふと私は気づいた。
この当時、月は懐妊によって太陽の部屋にこもっていた。出産すれば死んでしまう。しかし、それ以前に、身ごもった月を狙った悪魔のようなものが月の森に巣食っていた。
悪魔とは何だろう。私には食虫花に宿った〈蝕〉のことのように思えた。違うかもしれないが、私にとってはそうだった。当時は太陽にも日の輪の力はなかったのだろうか。それとも、日の輪を凌駕するほどの悪魔だったのだろうか。月の城は脅かされ、太陽の指示のもと動物や精霊、人間たちが戦うことで月は守られていた。その中で、太陽によって月の聖剣を貸し出されていた人間の青年は、月への信仰と愛慕を込めて戦い、ついには悪魔を打ち破り、悪魔の返り血を浴びたらしい。
平和の訪れた月の世界にて、太陽は彼を称賛し、閉じ込められ寝台の上で死の時を待つ月の女神に面会することを許された。その席で、彼は月の女神と口づけを交わしたと記録されている。命をかけて戦った勇者だからこそ特別に許された口づけだった。しかし、その後、不思議なことが起こった。出産した月が死ななかったのだ。生まれた姫は〈月の姫〉と名付けられ、太陽はその真意を自分よりも上位の神に訊ねた。その答えは絆のみが知る。
これが〈月の姫〉誕生に関する最古の記録だ。この中に、〈月の雫〉に関するヒントが隠されているかもしれない。だが、月に口づけをした勇者の記録も、倒された悪魔の詳細も、太陽が訊ねて得た答えとやらも、なにもかも曖昧だった。
太陽はその当時すべてを知っている。しかし、彼女に訊ねるということは現実的ではない。彼女はいつだって運命に抗おうとしない。そして、教えるべきこと以外は教えてくれない。今更聞こうにも、聞かせてくれる暇などないだろう。それに、次に彼女と再会できるときは、私が懐妊するとき。外に出してもらえるはずもなく、手遅れでしかない。
太陽が来る前に気づかねば。知らねばならないのだ。
逸る心を抑えながら、私は別の記録も探し出し、並べ、そして落胆した。こんなにもたくさんの月が生まれ、死んでいったというのに、たったのこれだけしか月の姫の例がないなんて。机に並べた記録の少なさに愕然としたのだ。
しかし、諦める理由にはならない。母だってきっと諦めたりしなかっただろう。諦めずにいたけれど、諦めるしかない状況になったのだろう。
「……母、か」
そこでふと疑問に思った。
母だってもしも諦めたりしなかったのならば、〈月の雫〉という言葉を耳にしなかったのだろうか。そうだ。何なら、傍にいた執事や女中頭だって。そんな疑問をふと抱えながら、私は別の記録に次々と目を通していった。二つ目は一つ目とあまり変わらない。だが、三つ目以降から、私はその単語を見つけるようになった。恐らく、かつては何気なく記憶に留めなかった言葉の羅列。〈月の雫〉を口にして、〈月の雫〉の口づけをして。〈月の雫〉さえあったならば。そう、その単語は確かに書かれていたのだ。
「……執事は知っていたのではないのか」
そう思いつつ、私は記録をまとめた。
気づけばもう遅い時間だ。明日以降、この記録はよく読むとして、そろそろここを去らなくては。ついでに私の母を知るすべての者から、聞き出さなくてはならないことを胸に秘めながら、私は書庫を後にした。