1.日常
◇
怯えてはならない。私は月の女神なのだから。
埃一つない物置部屋にて、美しく飾られた二つの肖像画を眺めながら、私はそんな言葉で自分を励ましていた。
壁に掛けられた絵は幼い頃から同じ姿をしている。それなのに、ここ数か月は全く違う印象を抱くようになっていた。
銀髪の美しい髪と深紅の目を持つ美しい少女と、月の光の色の髪と夜色の目をした威厳漂う女性。ここでかつて可愛がられていた人工花と、先代の月の女神の姿である。
彼らはもう何処にもいない。死んでしまったから。少女は二十歳で死んだ。蝙蝠の仕業だ。蝕という狂気に取り憑かれた魔女のしもべが、その忠誠心から手を染めた凶行である。だが、その罪は祓われた。もう誰も彼を罰することはない。彼にそこまでさせた程の魔女は、もういないのだ。ただの花として、多くの者の命の源として存在するのみ。
食虫花を許し、蝙蝠を許した私の選択は間違ってはいなかったはずだ。
いざという時の私の選択はいつも太陽の意図に支配されたものらしい。そう教えられてきた。信じてはいないが、この際は信じておこう。そうすれば、少しは自信が持てた。
愛しい花を殺した蝙蝠を許したことに対して、先代の月がどう思っているか。これについては、私にも分からない。そもそも、壁に掛けられた先代――私の母は、私の前世でもある。おかしな話だが、母より生まれた私は母の生まれ変わりらしい。月として生まれたのだから、そうなのだと太陽は言っていた。
ならば、これでよかったのかもしれない。
すべては太陽の導きであり、延いては運命を定めた神の導きでもある。だから、私が迷う必要はなく、同時に恐れる必要もないのだと、私の主人は言っていた。
――では、怯えることはやめようじゃないか。
何度言い聞かせたか分からないけれど、この静かな物置部屋に来るたびに、私は自分自身の心を抱きしめ、恐怖に耐えていた。
かねがね言われていたとおりだ。月の女神は生まれて三十年で子を産む。その子は多くの場合、自分自身の生まれ変わりであり、古い器となった母体は死んでしまう。例外はほんの少数。月の姫が産まれぬ限り、私は死んでしまうらしい。
――いや、違う。生まれ変わるだけだ。
言い聞かせないと恐ろしくなるのは、やはり、私が私の母であった頃の記憶が全くないからだろう。この絵の中で微笑む母の見てきた光景も、その隣で愛らしく描かれた少女への愛しさも、何もかも分からない。
本当に私は生まれ変わるだけなのかもしれない。
だが、それが何なのだろう。
生まれ変われば私は全てを忘れてしまう。この城で私の孤独を癒してくれる愛らしい娘たち――蝶や華のことを忘れてしまうのだ。
あの子たちを残して死ぬ。生まれ変わった私はあの子たちを守ることなどできない。ならば、どうすればいいか。そんなことは分かり切っている。
「怯えてはいけない。しっかりしなくては。私は月の女神なのだから」
寂しい物置部屋の中で、私は何度も言い聞かせた。
◇
最近、仕事が随分と減った。
月の女神には本来あらゆる役目があるものだ。月の名を持つ大地を通る人間は、そこで命を狩るのならば月の女神の許しがいる。人間独自の単なる信仰なのかもしれないが、古から残る風習でもあるし、太陽からの命令もあって無下にすることは出来ないため、私もそれに付き合わなくてはならない。他にも、あらゆる神の訪問があり、連絡があるものだった。神の中には大地を持たず、放浪している者もいる。そうした者が我が大地を訪れる時は、必ずこの城に来ることになっている。そうするのが礼儀であるためだ。
しかし、今年になってから、その訪問の約束はすっかり減ってしまった。多い時には毎日といっていいほど訪問があったのに、今では十日に一度あればいい方だ。手紙も少ない。お陰で、いやというほど暇な時間が増えた。
なぜこんなにも暇なのか、私は理解していた。この城で働く人間たちも同じだ。だから、彼らは平然としている。平然としながら、何処か切なげな眼差しで私に仕えている。それは、長年ここで働き、私の誕生も覚えている執事も同じだった。
かつてはあんなにも厳しかったのに、ここ数か月は妙に優しい。
「この中から選べ、と」
書斎にて机につきながら書類を眺めて呟く私を前に、執事は姿勢を正して穏やかに肯いた。
「ええ、選りすぐりの人工花たちです。『華お嬢様との年齢も近く、血統も確か。無理のない配合ですので、心配もありません』とのことです」
説明を聞いて、重たいため息が漏れだした。
書類に書かれているのは彼の言う通り、複数の人工花のプロフィールだった。全て雄花であり、傷一つない容姿を誇るという。ただし、買い取るためのカタログではなく、あくまでも貸し出すだけの存在。
要は華の婿選びだった。先代もやったという子返しという風習の時が近づいてきていたのだ。つまり、華に子供を産ませ、実家の花売りのもとに子供たちのみを引き渡さなくてはならないのだ。
「まだ早い気もするが……」
「いえいえ、そんなことはありません。これは人工花を買い取った者の義務なのです。花売りの業界では華お嬢様の血筋を待ち望まれております。先代様もあの子が十七になる時には子を産ませるようにと言い残されて、我々がその通りにしたのですよ」
「……そうか」
母も行ったと言われれば、文句も言えない。
それでも、私は気が進まなかった。理由は二つある。一つは、華があまりに幼く見えるため、子を産ませるなんて考えられないことだ。そしてもう一つは、華が毎日のように遊んでいる野生花の存在だった。名もなき少年――もうそろそろ青年と呼ぶべきかもしれない――は、時折、華と小さき恋人なのだろうかと思うくらい仲睦まじい。引き離すようなことをしていいのだろうかと心配になる。
しかし、執事は言った。
「月様が御心苦しい気持ちも分かりますとも。しかし、決めなくてはなりません。私はぜひ、貴女様に決めていただきたい。それが貴女様に出来る、あの子への最期の愛でもあるのですよ」
「華への愛、か」
人工花としての華の価値を守ってやることは、華を一生保護するために必要なことでもある。万が一、この城で華を養えないようなことがあったとしても、月の都にある華の実家に避難させることが出来るためだ。もちろん、華の実家ならば、もしも華が傷物になってしまったとしても、受け入れてくれるだろう。しかし問題は、華の実家が何らかの理由で無くなってしまった場合だ。華が確かな人工花であるという事は、別の花売りの家で彼女を保護してもらう正当な理由となる。いかに月の城の権威があったとしても、人工花を匿うのに相応しい場所は花売りの家でしかない。華を確実に守るためにも、花売りとの繋がりは勝手に途絶えさせてはならないのだ。
ああ、分かっているとも。
華への罪悪感が正しいとは限らない。どうせならば少年とくっつけばいいと思うのは、無責任な思い付きと言われても仕方ないのだ。それでも、私は月の森で自由に生きる精霊たちのことをよく知っている。華も先祖をたどれば野生花の一味だ。いつも遊んでいる名もなき少年と何も変わらない。そんなことを考えだしてしまうと、どうしても気が進まなくなってしまうのだ。
「すまない」
私は執事に謝った。
「この件、ちょっとだけ寝かしておいていいだろうか」
「月様……?」
「すまない。無理を言っているのは分かっている。だが、このことについてちょっと華と話してみたいんだ」
真っすぐ目を向けて、私は執事に言った。
長くここに仕えてきた彼。つい最近までは、母を崇拝し、私を認めていないようにすら思っていた。だが、彼はもの言いたげにしつつも、最終的には顔を赤くして怒るようなこともなく、非常に丁寧に頭を下げたのだ。
「分かりました。月様のお言葉に従いましょう。しかし、お忘れなきよう。寝かせられるのはほんの二、三日ですよ」
「ああ、有難う」
ほっとして礼を言ったものの、執事の反応は何処か素っ気ないものだった。
◇
城の者たちが寝静まる夜、寝室の長椅子より窓の外を眺め、美しくも残酷な月の森の様子を確かめていた。
わずかに開けた窓からは夜風が吹き込み、私の髪を揺らしていく。その心地良さに身を浸していると、背後から甘いため息が聞こえてきた。
「――華は受け入れたのね」
振り返るとすぐに愛らしい姿が目に入る。
私の寝台の上で寝そべり、悩ましい魅惑を宿す胡蝶と呼ばれる精霊。傷跡だらけの身体を寝巻きで隠しているが、その顔、その瞳は女神の私すらぞくぞくさせるほどに美しい。
彼女の名前は蝶。私の妾として寝台を共にするようになって久しい娘である。窓を閉め、長椅子から降り、彼女の眠る寝台へと上れば、すぐにその手を伸ばしてきた。可愛い娘の甘えに応じ、私は答えた。
「ずいぶんとあっさりしていた。華はどうして私が申し訳なさそうに聞くのか分からないようだった。少年のことについてそれとなく訊ねてみても、理解できているのかいないのか」
すると蝶もまた私の手を掴み、怪しげに笑った。
「当然といえば当然よ。だって花だもの。恋はしてもそれは人恋しいから。花同士は蜜を吸う者との蜜吸いで生殖する。つまり、彼女たちは虫によって子を宿すの。華の場合はあたし。誰の種がつくのかなんて、普通の花はあまり気にしない」
「そのようだね。人間としか過ごしてこなかったから、どうも理解できていなかったらしい」
蝶は私の胸元に顔をうずめ、そしてため息をついた。
「けれど、少年はどう思うかしら。彼は華に恋をしている。雄花にとって子供というものは少し遠い存在だけれど、それでも恋する相手が自分の子供を育てているとすると、それはとても幸せなことだと聞いたことがあるの」
「蝶は華と少年がくっ付けばいいと、そう思うか?」
優しく問いかけてみれば、蝶はしばし考えてから答えた。
「分からないわ。あたしは胡蝶だもの。考えなしに花同士をくっつけるだけの存在。何が彼らの幸せなのか、あたしには分からないの」
「そうか。……それなら」
私は蝶と目線を合わせ、言い聞かせるように言った。
「華のことをどうか守ってあげて欲しい」
思い残すことがないように、この温もりを忘れてしまったとしても、この二人への愛が途絶えないように。
強い想いを一言に込めると、蝶は私の顔を見つめたまま恐る恐る頷いた。
「分かったわ。あの子を守る……貴女の分まで、生まれ変わった貴女の――」
しかし、言いかけたところで彼女は泣き出してしまった。
「いや!」
強い力で抱き着いてくる彼女に抵抗する気が起きなかった。
「そんなのいや!」
蝶の小さな悲鳴のような声が身に沁みる。
「どうしてあたしに頼まなくてはならないの。どうして、どうして……」
かつて、恐ろしい記憶に囚われていた頃の蝶のように、彼女は私に抱き着いたまま泣き叫ぶ。
その姿を見つめているうちに、私の頬を何かが伝っていった。
ここ最近、ずっと、私は自分の死後のことばかりを考えていた。残される蝶と華はどうなるのか。どうすれば、彼女たちの幸せが守られるのか。そんなことばかりを考え、怯えを誤魔化すことしかできていなかった。
そんな私の代わりに、彼女は泣いているのだろうか。
ふと、蝶が私の顔を見上げ、はっと気づいた。
「月、泣いているの?」
その問いに、私もまた蝶の顔を見つめた。美しい目をしている。多くの精霊が胡蝶の魅惑に勝てないという。胡蝶より弱きものならば、胡蝶の思うままに支配され、胡蝶より強きものならば生まれ持った残虐性に支配され胡蝶を手に入れようとする。命の危機に瀕していたこの子は、奇妙なほどの魅惑に満ちていた。拾ったのも、助けてやったのも、きっと欲しいと思ってしまったからだろう。
そんな胡蝶が私を見つめて心配している。そのなんと愛らしいことか。
「何でもない」
蝶の頭を撫で、私は言った。
「何でもないんだ、蝶」
そして、彼女の意識が定まるより先に、その唇の味を確かめた。