三十二の掟 マリオンの夢の中
二人を担いでヤドリギの魔女の元にアーシャが到着したのは日がかわる前だった。あきちゃんの力で自分たちの体の防御も完璧にできたおかげで、いつもよりも飛行速度をかなり上げられた結果だ。
「おババ様」
「おお、お帰り。二人はこちらにお寄越し」
魔女ミストは彼女の手から二人の体を浮き上がらせ、家の中に運んでいく。入ってすぐの暖炉のある部屋は、二人を受け入れるために片付けられ、ソファの代わりに大きなベッドが運び込まれている。
二人を横たえ、別々に毛布をかけると魔女は弟子を振り返った。
「どんな塩梅だい?」
「そんなことより、おババ様。精神毒の解毒の方法を教えて下さい」
マントも脱がずにアーシャが言うと、魔女は目を見開いた。
「マリオン殿下の部屋はのぞき見出来なかったんだよ。何があったのか、きちんと説明しておくれ。ほら、そこにおすわり」
弟子の手を引き、暖炉の前に置かれたソファに導くと、魔女は指を鳴らした。奥からティーセットがふわふわと浮きながら運ばれてくる。
「お前の好きなシナモン入りミルクティーだ。お飲み。体があたたまる」
「ありがとう、ございます」
手を伸ばした時に自分の手が震えているのに気がついて、アーシャは左手で自分の右手を押さえた。
「二人を抱えてここまで弾丸飛行してきたんだろう? とにかくそれを飲んで、落ち着きな」
弟子の肩を優しく叩き、魔女は二人の眠るベッドに歩み寄った。マリオンの額と胸に手を当て、呪をつぶやくのを見ながら、アーシャはこぼれないようにゆっくりカップに唇をつけた。すでに砂糖がたっぷり入っていて、甘い紅茶が体の内側から温めてくれるのを感じる。カップが空になる頃には、手の震えもすっかり消えていた。
手首にまとわりついた自分とあきちゃん――縮んでしまったメイザリー姉様をつなぐ赤い鎖を無意識でさすりながら、ようやくアーシャは唇を開いた。
「なるほど、麻痺と精神毒か。あやつもえげつないのう」
眉根を寄せ、魔女はマリオンを見下ろす。確かに精神毒は彼の精神を侵食していた。時折マリオンの顔が歪むのは、そのせいでひどい悪夢を見るせいなのだろう。
「麻痺はたやすく解除できるのですが、精神毒はわたしでは……おババ様、解除の呪をお教えください。クロード様にも早く施術をしなければ」
「マリオンのほうが先じゃ。一昼夜この毒に晒されておったのだろう? 身動きも出来ずずっと夢の中で苛まれれば、十三歳の幼子の精神では持つまいよ」
その言葉にアーシャは唇を噛んだ。
「それに精神毒は魂に絡みついて離さない。一つずつきちんと切り離して行かねば魂に傷が残る。ただの一つでも変わらぬ心を持っていれば、完全に侵食されることはない。クロードは大丈夫じゃろう。あやつは五年以上も彼女を思い続けておるからのう」
ふぉっふぉっと笑い、魔女は弟子の手に己の手を重ねた。
「一休みしたら着替えておいで。……夢渡りをする。お前にはこの婆の体を見守ってもらわねばならんでの」
「夢渡り……分かりました。支度をしてまいります」
アーシャが奥へ引っ込むと魔女はマリオンの上にかがみ込んだ。三つのリップ痕で吸い取られていく体力と魔力を確認して、ため息をつく。
「なるほど、ギリギリまで吸い上げておるのう」
このまま放置すれば、回復しない体力と魔力を完全に吸い上げられてしまう。城では魔力の注入を定期的に行っていたとアーシャは言っていた。あきちゃんの魔力をマリオンに流し込むとも言っていたが、弾丸飛行の最中にその施術は出来なかったのだろう。あきちゃんの腕から伸びる赤い鎖はアーシャが戻って来るとくっきりと浮かび上がった。
「手をお出し」
素直に差し出された手に魔女は魔法陣を描くとそのままマリオンの額に押し当てた。アーシャは自分の手からマリオンへ力が流れ込んで行くのを感じ取る。
「これでよかろう。この子の力をお前を通してマリオンに流すようにした。マリオンの命をつなぎとめるには、お前はここから離れられぬ」
「おババ様! それではクロード様を見捨てることになります! これを解いて! 行かせてください」
アーシャはマリオンの額から手を離して懇願する。が、魔女は首を振った。
「この子はどうする。お前とこの赤い鎖によって魔力を共有しておるのであろう? 離れればどうなるか分かったものではない。それに、マリオンに残る三つのリップ痕を消すにはこの子の力が必要なのであろう?」
「それは……そうですが、でもっ」
「お前が守るべきはこの子とマリオンじゃ。クロードのことは心配せずともよい。……準備はもうよいか?」
「はい……」
魔女はマリオンの額と心臓の上に手を置く。
「では、わしの体は預けるぞ」
そう言うなり魔女は目を閉じてベッドによりかかるように体を預けた。
幼子の夢の中は歪んでいた。空があるはずの場所には木の根のように黒い亀裂が走っている。そのうちの二本、太い幹が地面まで伸びて食い込んでいる。
そこは王城の入り口だった。後ろ手に縛られ追い立てられていく黒い直立猫に、マリオンが泣き叫びながら追いすがろうとしている。
「クロードなんだろう? なんで出ていくなんてっ!」
振り向かない直立猫はそのまま王城を出ていく。崩折れたマリオンに容赦のない叱責が飛ぶ。両親や兄弟、侍従頭たちの声だろう。
悔しそうに唇を噛み、拳を握りしめて落涙する少年の姿がゆらりと消えたかと思うと再び同じシーンが繰り返される。
これが、精神毒が見せている彼にとっての最悪の悪夢なのだ、と魔女は気がついた。
クロードが罪を犯して追放されて五年。十三年しか生きていない彼にとってそれは、未だに最も辛い別れの記憶なのだ。
「そんなにあいつに執着してるようには見えなかったけどねえ……」
手を振り払って空に走る細い根を一本ずつ切り、魔女はうずくまるマリオンを見下ろす。
「お前さん、なんでそんなに自信がないんだい?」
「だって……僕は姉様に次いで強い力を持っているはずなのに、ちゃんと使いこなせなくて……。クロードが出ていったのは、僕に愛想を尽かしたからなんだって聞いたんだ。クロードは姉様の教育係もしてたし、姉様に比べたら全然……だからっ」
ぼろぼろと泣き崩れる少年に、魔女はため息をついた。
「クロードが出ていったのはお前さんには関係ないね。あれは、ただの恋に狂った男だよ」
「こい……?」
首を傾げて見上げてくる少年に、魔女は苦笑した。
「子供のお前さんにはまだ縁のない話だがね。あの男はね、お前の姉に懸想したんだ。手に入らないならいっそ、と彼女を攫ったのさ。だから勤めを首になった。ただそれだけだよ」
「姉様に……? じゃあ、いずれクロードは姉様と結婚するの? クロードは兄様になるのか?」
目を見開いていた少年は、そう理解すると破顔した。そして立ち上がると魔女に抱きついた。
「ありがとう、おばあちゃん。クロードが兄様になるんならいいや」
ふわっと笑う少年の笑顔とともに、空に走っていた太い幹の一本が消失する。それを見て魔女は少年の頭を撫でた。
「そうか。……お前さん、クロードが大好きだったんじゃのう」
「うん。みんな僕は姉様に何かあった時の代わりとしか見なかった。でもクロードは、僕自身を見てくれたんだ。だから、僕がもっと強くなって力を使いこなせるようになったら、クロードが帰ってくると思って……」
「なるほどの。それがお前さんを縛っていたのか」
「縛る……?」
「そうじゃ。お前さん、魔女に喧嘩を売ったじゃろう?」
途端に少年は目を伏せ、俯いた。
「それは、内外的に魔女を倒せる己が力を示すことで、クロードを呼び戻そうと思った結果じゃな?」
「それは……」
違う、と俯いたまま少年は小さな声でつぶやいた。
「違う? では何故じゃ?」
「……言われたんだ。姉様ならお前の年には魔女退治で十分な働きをしていた、と」
魔女は眉根を寄せた。ミストルティの再来と言われたメイザリー姫が幼い頃からその力を遺憾なく発揮し、五年前の時点で国内の魔女騒動では率先して動いていたことは確かに事実だ。
だが、それがどうしたというのだ。
「誰に」
母様、とやはり小さな声で少年は答える。その答えに魔女は呻いた。
何より子を思い、守るべきであろう母親が、子を追い詰めてしまったのか。だが、この国の王も王妃もそういうことを子に言うようには思えぬほど温和で優しい。
「王妃が言っていたと誰かに言われたのだな?」
再び少年はうなずいた。
「……よく聞きな、坊や。それは確かに事実じゃ。メイザリー姫は確かに幼い頃から頭角を現し、姫にもかかわらずに前線に飛び出してきては危険なことばかりしておったそうじゃ。王も王妃もそんな姫をたしなめた。一国の姫が最前線で魔女と一線交えるなど、危険極まりない、と。……分かるか?」
少年は首を横に振る。
「つまり、じゃ。王も王妃も、年端も行かぬ坊やにメイザリー姫と同じように最前線に出て戦ってこいとは言わぬお方じゃ、ということじゃよ。お前さんが女であれ男であれ、それは変わらん。誰から聞いたか知らんが、王妃をよく知らぬ者が勝手に言うたことじゃ」
「でも、僕が手柄を上げれば母様は喜んでくれたよ?」
「それは人前で報告した時のことじゃろ? そんな場所で手柄を立てた息子を叱責するなどできるはずもない。事がすべて終わったら、王妃に聞いてみると良い。王族だろうが平民だろうが母親は子供の心配をするものじゃ」
「……はい」
二つ目の幹が消えていく。他に残る根がないかを確認して、魔女はうなずいた。
「今のお前さんの状況は分かっておらぬであろうな。……目が覚めればここでわしと話したことも忘れるじゃろう。が、忘れてはならんぞ。お前さんは誰かのスペアでなく、お前自身だということ。それから、人づてに聞いた話は安易に信用せぬこと。クロードの話も王妃の話も、人づてに聞いた話であろう? 本人に確認しようと思えば出来たはずじゃ。そんなに安易に人の言葉を信用してはならん。お前さんは曲がりなりにも王族じゃ。他の人に比べれば影響も大きい。人の言葉には裏があると思い、慎重に行動せよ。よいな」
マリオンはうなずき、顔を上げた。
「おばあさん、名前聞いてもいい?」
「おばあさんと言わねば教えてやらんでもない」
魔女の言葉にマリオンは唇を尖らせて少し考えた後、口を開いた。
「じゃあ、魔女のお姉さん」
その言葉に魔女はマリオンの頭に手をやり、柔らかい髪の毛を手で梳いた。
「よかろう。教えて進ぜよう。我が名はヤドリギの魔女ミスト。お前の慕うクロードの師匠じゃ」
「ヤドリギの魔女ミスト……ねえ、魔女のお姉さん」
「なんじゃ?」
「ミストルティって名前。ヤドリギのことでしょ?」
「……ほう。よく知っておるな」
魔女は目を細め、口元をゆるめた。魔女の回答に少年は破顔した。
「前にクロードから教えてもらったから」
「そうか。……わしはもう行く。お前さんも眠れ。心配せずとも良い。お前もクロードも守ってやる」
「……うん、ありがとう。ミスト。ごめんなさい」
その謝罪はどれに向けたものか。光に溶ける少年の笑みに、魔女は久しぶりににっこりと微笑んだ。




