第三話 謙一のドキドキ人生初デート?
土曜日の朝、午前十一時頃。柏岡宅玄関先。
「伸ちゃんの今日の衣装、とってもかわいいわね」
「ありがとうございます、聡美ちゃん」
伸英は鶯色の夏用ワンピースを身に着けて、謙一を呼びに来ていた。
「謙一、伸ちゃんとのデート、思いっきり楽しんで来なさいよ」
「姉ちゃん、デートじゃないって」
謙一は照れくさそうに否定する。彼はデニムのジーパンに、グレーと白の縞柄セーターという格好だった。
「じゃあ行こう、謙一くん」
「うっ、うん。今日は晴れてよかったね」
それほど派手な服装ではないそんな二人は聡美に見送られ、最寄りのJR芦屋駅へと向かって歩いていき、
「ここに謙一くんと二人きりで来たのは初めてだね」
「確かに、そうなるね。今までは俺の母さんか姉ちゃんか、伸英ちゃんの母さんに連れられてたから」
新快速電車を乗り継いで県庁所在地神戸の中心地、三宮へ。
改札出口を抜けた二人はお昼ご飯を食べるため、地下街、通称さんちかへ向かった。
「あそこの喫茶店で食べよう」
「えっ、あそこ?」
「うん!」
「なんか、内装が可愛らし過ぎて、男の俺には入り辛いよ」
ガラス窓から店内を覗いてみて、謙一はこんな面持ちになった。
「そんなこと言わずに。男の子にも人気のお店だよ」
「わっ、分かった」
しかし伸英に手を引っ張られ、謙一は強引に入店させられたのだ。
「二名様ですね。こちらへどうぞ」
ウェイトレスに二人掛けテーブル席へと案内された。向かい合って座ると、伸英がメニュー表を手に取り、
「謙一くん、一緒にこれ食べよう。ここのお店の新作メニューだよ」
迷わず抹茶パスタを指差した。
「同じのにするの?」
「うん。カップル割引になってお得だもん」
「カップルって……」
謙一は思わず顔を引き攣らせた。
伸英は嬉しそうにそのメニューを二つ、ウェイトレスに注文する。
「お待たせしました。抹茶パスタでございます。ではごゆっくりどうぞ」
それから五分ほどしてウェイトレスが運んで来てくれ、二人のランチタイムが始まる。
「謙一くん、はい、あーん」
伸英は謙一側の抹茶パスタの一片をフォークに巻き付け、謙一の口元へ近づけた。
「いや、いいよ。自分で食べるから」
謙一は左手を振りかざし、拒否した。彼は照れ隠しをするように、おまけで付いて来た紅茶に口を付けた。
「謙一くん、かわいい」
伸英はにっこり微笑みながら、その様子を眺める。
傍から見ると、謙一と伸英は本当のカップルのようだった。
お昼ご飯を食べ終えた二人は、すぐ近くの映画館へと向かっていく。
「やっほー謙一、伸ちゃんとのデート、楽しんでる?」
「ねっ、姉ちゃん! なんで、ここに……?」
映画館入口前でばったり出会い、謙一はかなり驚いた。
「あっ、聡美ちゃん、一時間振りくらいですね」
伸英はにこやかな表情で挨拶する。
「心配だったから、こっそりついて来ちゃった♪」
聡美はてへっと笑って舌をぺろりと出す。
「ついて来るなよ」
謙一は呆れ顔だったが、
「それじゃ、三人一緒に見よう! 映画は三人で見るとより一層楽しめるもんね」
伸英はけっこう嬉しがっていた。
「うち、映画見るの久し振り。高校の頃は学校帰りに、特にテスト期間中で昼までで終わった時とか、映画館よく寄ってたよ」
聡美はにっこり微笑みながら打ち明けた。
「姉ちゃん、それはダメだろ」
謙一はさらに呆れてしまう。
「過去のことなんだしいいじゃない。伸ちゃんは、どの映画が見たいのかな?」
「あれです。聡美ちゃん」
聡美に尋ねられると、伸英はいくつか壁に貼られてあるポスターのうち対象のものを指差す。
「えっ! あっ、あれを見るの?」
謙一は動揺した。
「よかったわね、謙一が好きそうなやつで」
聡美はにこっと微笑む。
「謙一くん、かわいい女の子が大活躍するアニメ大好きでしょう?」
「いや、俺は、べつに。貢と久晃が好きなだけで……」
「私も大好きなの。でもさすがに私一人だと見に行きにくかったから、謙一くんと聡美ちゃんと見れてちょうど良かったよ」
謙一が伝えようとする前に、伸英はとても嬉しそうに主張する。
それは、ゴールデンウィークに公開されたばかりの女児向けアニメだった。
チケット売り場にて伸英と謙一は持っていたペアチケットをかざす。伸英がお目当ての映画を伝えると、受付の人がその入場券と共に入場者全員についてくるオマケのおもちゃセットをプレゼントしてくれた。聡美は学生証をかざし学割料金で同じ入場券を購入。おもちゃセットももちろん貰えた。
「二人とも映画が始まるまでに、おトイレ済ませておきましょうね」
「そうですね、聡美ちゃん。映画一時間以上あるし。お気遣いありがとうございます」
伸英は嬉しそうにそう言って、女子トイレへ。
「言われなくても分かってるよ、姉ちゃん」
謙一はかなり迷惑がった。
「謙一、小学生の頃、ド○えもんの映画一緒に見に行った時、途中でおしっこ行きたくなったのに我慢して漏らしたでしょ」
聡美はにっこり微笑みかける。
「姉ちゃん、思い出せるなよ。俺も、行って来るよ」
謙一は頬を火照らせた。決まり悪そうに男子トイレへと向かっていく。
(謙一ったら、かわいいなぁ)
聡美はその様子を見てにこにこ微笑んでいた。
二人ともトイレから戻ってくると、
「はいどうぞ。落とさないように気を付けてね」
「ありがとうございます。聡美ちゃん」
「……俺はべつに、いらなかったんだけど」
聡美はチケット売り場向かいにある売店でドリンク&ポップコーンを買ってあげた。
こうして三人、大型スクリーンのある劇場内へ。薄暗い中を前へ前へと進んでいく。
「伸英ちゃん。なんか周り、幼い女の子ばっかりだから、やめない?」
「まあまあ謙一くん。気にしなくてもいいじゃない。たまには童心に帰ろう」
謙一は否応無く、伸英に右手をぐいぐい引っ張られていく。
「昔と一緒の光景ね」
聡美はその様子を微笑ましく眺めていた。
真ん中より少し前の列の席で、謙一は聡美と伸英に挟まれるようにようにして座った。座席指定なのでそうなってしまった。
(視線を感じる)
謙一は落ち着かない様子だった。
七〇人くらいいた他の客、七割くらいは小学校に入る前であろう女の子とその保護者であったからだ。
上映時間八〇分ほどの映画を見終えて、
「とっても面白かった。オマケのおもちゃももらえたし。歩未ちゃんと真優子ちゃん誘ってまた見に行こう」
伸英は大満足な様子で劇場内から出て来た。
「思ったよりも良質な映画だったわ。謙一もそう思うでしょ?」
聡美もお気に召されたようだ。
「まあ、思ったよりは……子どもの騒ぎ声がうるさかったけど」
「謙一も昔はあんな感じだったのよ。伸ちゃんは大人しく見てたけど」
「そうだったかな?」
聡美に突っ込まれ、謙一はちょっぴり照れた。
「私、子ども向けアニメ大好き。アン○ンマンとかド○えもん、今でも毎週欠かさず録画もして見てるもん」
「うちも子ども向けのアニメ今でもけっこう好きよ。そろそろ三時ね。あそこの喫茶店でデザート奢ってあげるよ」
聡美は携帯電話の時計を眺め、二人を気遣ってあげる。
喫茶店へ入った三人、三人掛けの円形テーブル席に座り、伸英は抹茶パフェ、謙一はわらび餅、聡美は餡蜜を注文した。
「謙一くん、はい、あーん」
伸英は抹茶パフェに飾られていた白玉をスプーンで掬い、謙一の口元へ近づけた。
「いや、いいよ」
謙一はお昼ご飯時にされた時と同じように左手を振りかざし、拒否した。彼はまたも照れ隠しをするように、おまけで付いて来たミルクコーヒーに口を付けた。
「謙一くん、本当にかわいいよ」
伸英はにこっと微笑みかける。
「謙一、そんなに照れなくても」
聡美も餡蜜を美味しそうに味わいつつ、謙一をにっこり微笑みながら眺めていた。
「あのう、聡美ちゃん、大学生活は楽しいですか?」
伸英は唐突にこんな質問をする。
「うん。とっても楽しいわよ。高校の時と比べていろいろ自由だし。レポート課題はけっこう大変だけど。夏休みはすごく楽しみ。二ヶ月くらいあるからね」
生き生きとした表情で答えた聡美を眺め、
「そうですか。私も二年後に楽しい大学生活が送れるよう、お勉強しっかり頑張らなきゃ」
伸英は羨ましそうにしていた。
三人は喫茶店から出た後、伸英の希望により近くの大型書店を訪れた。高校生向け学習参考書コーナーへ。
「まさかまたこのコーナーへ立ち寄ることがあるとは思わなかったわ」
本棚を眺めて、聡美は懐かしさに浸る。
「俺、数学の参考書買おうかな? 学校で使ってるのはハイレベル過ぎて分かり辛いし」
謙一は数学の参考書類がたくさん並べられてある場所で足を止め、一応眺めてみる。
「参考書って、同じ科目でも迷うくらいたくさんあるよね。聡美ちゃん、私、物理と化学の参考書を買おうと思うのですが、何か、お勧めの参考書はありますか?」
困った表情で物理・化学の参考書類を眺めていた伸英からされた質問に、
「ごめんね伸ちゃん。うち、典型的な文系だから受験で物理と化学は使ってないの。どれがいいのかよく分からないわ。それに参考書どれがいいのかは、人によって違うから、パラッと立ち読みしてみて自分に合うものを選ぶのがベストよ」
聡美は申し訳なさそうに答えた。
「そうですか。大変ためになるアドバイスありがとうございました」
伸英はぺこんとお辞儀して礼を言う。
「いやぁ、どういたしまして。うちのアドバイスなんて頼りにならないよ。ところで伸ちゃんは、どうして京大を志望するようになったのかな?」
聡美は気になって尋ねてみた。
「真優子ちゃんが目指してるから。幼稚園から今までずっと一緒だったし、大学も一緒がいいし。私が京大目指すようになってから、歩未ちゃんもじゃあワタシも京大目指すって言い出したよ。三人一緒に合格したいな」
「そっか。友人付き合いは大事だもんね。まあ、うちも同じような理由で大学選んだよ」
「そうでしたか。私は、他にも理由あるよ。京都が大好きだからというのも理由の一つです。京都は抹茶も和菓子もすごく美味しいし、有名な観光名所がいっぱいあるし。それからもう一つの理由として、秀樹お爺様の期待にも応えたいですし。私にも京大を受験して欲しいみたいなことをおっしゃってました」
伸英は満面の笑みを浮かべながら伝える。
「伸ちゃん、やっぱりお爺ちゃんにも影響受けたのね」
「秀樹爺ちゃん、京大のことしか眼中に無いもんな」
聡美と謙一は苦笑いを浮かべた。
「伸ちゃんはお肌も白いし、京都って雰囲気の子ね。京美人って感じ」
「聡美ちゃん、なんか恥ずかしいです」
伸英は照れくささからちょっぴり俯いてしまう。そんな彼女は結局、自分の意思で気に入った物理と化学の参考書を一冊ずつ選び、購入したのであった。
三人は本屋さんから出ると、あまり長居はせずにデパートから出て、暗くなる前にまっすぐおウチへと帰っていった。
その日の夜、柏岡宅。
「聡美よ、仮面浪人して、もう一度京大を目指してみてくれんかのう」
「嫌っ。うち、今の大学でじゅうぶん満足してるもん」
「聡美ぃ、もっと目標は高く持たんといかんぞ」
「お爺ちゃん、うち、お爺ちゃんが勝手に京大に願書出したこと、まだ怨んでるよ。予想通り二段階選抜で足切りに遭っちゃったし。うち、センターの自己採点結果見て、国立は滋賀大か大教大受けるつもりだったのに。そこでも合格は難しいかなぁっと思ったくらいなのよ」
「京大は二次の配点の方がずいぶん高いから、センターの点が悪くても二次で挽回すれば理論上は合格出来ると僕は思ったのじゃ。聡美なら受かると確信しておったぞ」
「センターが悪かったら二次なんかもっと点数取れないに決まってるでしょ」
リビングでの聡美と秀樹爺ちゃんとのやり取り。険悪モードではなく二人ともほんわかとした雰囲気だった。
「父さん、べつにそこまで京大に拘らなくてもいいじゃないか。自分に合った大学へ進むのがベストだろう」
振一郎はにこにこ笑いながら秀樹爺ちゃんに意見してあげる。
「そうだよねーお父さん。というか、お爺ちゃんが受験して入ればいいじゃない。大学入学に年齢制限はないんだし。うちと同じ学科にも八〇近いお婆ちゃん女子大生がいるよ」
聡美は大いに同意し、秀樹爺ちゃんにこう勧めてみる。
「……そうしたいのはやまやまなのじゃが、僕、もう年じゃから脳の衰えがな。若い頃ですら無理じゃったし」
秀樹爺ちゃんはそう呟くとリビングを後にし、二階へと上がっていった。
「ぅおーい、謙一ぃぃぃ。絶対、京大に受かってくれぇぇぇ。我が家で、京大に受かりそうなのはおまえしかいないんじゃぁぁぁー」
そして謙一の自室に上がり込み、悲しげな表情で頼み込む。
「はいはい」
机に向かって英語の宿題をしていた謙一は呆れ顔で生返事し椅子から立ち上がり、秀樹爺ちゃんの背中を押して廊下へと追い出した。
こういったことはわりとよくあることなので、謙一も対応に慣れていたのだ。
柏岡家の夜は、今日も平和に過ぎていく。
☆
週明け月曜日、まもなく午前八時を迎えようという頃。
「ぅおーい、謙一ぃ。前のやつよりもDHAとEPAをたっぷり含ませたぞう。脳の働きを活性化させる糖分も豊富じゃ」
「いらねえ。秀樹爺ちゃん、食べ物を粗末に扱っちゃダメだろ」
平日普段通りの時間に目覚めた今朝は、謙一はやはり秀樹爺ちゃんから特製メニュー(今日はタラとニシンとサケとイワシのすり身をチョコレートにブレンドさせたもの)を振舞われ、即効生ゴミ入れに捨てる。秀樹爺ちゃんの研究意欲ますます高まる。
「おはよう謙一くん、昨日はけっこう寒かったよね?」
「うん、一日中雨だったもんね。久し振りに厚めのセーター出したよ。近頃寒暖の差が大きいから、風邪引かないようにしないと」
そのあとほどなくして伸英が迎えに来て、二人はほぼいつも通りの時刻に登校。
淳和台高校二年二組では、今日の一時限目は体育が組まれてあった。
男女別、四組文系特進クラスとの二クラス合同。今のカリキュラムはグラウンドで男子はサッカー、女子はソフトボールを行うことになっている。
体操服も制服と同じく移行期間中。ジャージ姿の冬用の生徒、半袖クールネックシャツ&ハーフパンツの組み合わせの夏用の生徒、併用している生徒、どれも同じくらいの割合だ。
男子が準備運動として腕立て伏せをしていた際、
「先生、笹内さんが急にバタッて倒れましたーっ!」
女子生徒の一人がこう叫んだ。
(えっ!)
謙一は視線を女子のいる方へとちらりと向ける。
本当に、伸英がうつ伏せに倒れこんでしまっていた。
一周二百メートルのトラックを走っている最中だったらしい。
「伸英さん、大丈夫? 頭打ってない?」
並走していた真優子は中腰姿勢になり、伸英の顔色を心配そうに見つめる。頬が少し赤みを帯びていた。
「あっ……真優子、ちゃん」
伸英は幸い、すぐに意識を取り戻した。
「大丈夫?」
真優子は心配そうに話しかけてあげる。
「熱中症?」
「貧血だよね」
「笹内さん、大丈夫か?」
二人のすぐ近くにいたクラスメート達、女子体育担当教官も近寄ってくる。その声が十数メートル離れた謙一達の耳元にもしっかり飛び込んで来た。
「ノブエちゃぁん! 大丈夫?」
すでにノルマの三周走り終え素振りをして待機していた歩未もバットを投げ捨て、すごい勢いで伸英の側に駆け寄って来た。とても心配そうに話しかけてあげる。
「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから」
伸英はこう答えて、すぐに立ち上がった。
「よっ、よかったぁ。ノブエちゃん、お熱があるんじゃない? お顔赤いよ」
「そういえば、私、なんか熱っぽいかも……」
「伸英さん、本当にお熱あるわよ」
真優子はおでこにそっと手を当ててみた。
「ワタシが保健室へ連れて行くよ。あの、ノブエちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」
歩未は心配そうに伸英に話しかける。
「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうね」
伸英は元気なさそうな声で伝えた。
(伸英ちゃん、熱出したのか。大丈夫かな?)
謙一は伸英のことを少し心配しながら、準備運動を進めていた。
「しっかり掴まってね」
歩未は伸英の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。
「ごめんね、歩未ちゃん」
伸英は申し訳なさそうに礼を言い、歩未の両肩にしがみ付いた。
「――っしょ」
歩未は一呼吸置いてから、伸英の体をふわっと浮かせる。
(おっ、重ぉい)
途端にそう感じたが、もちろん黙っておいた。
「歩未ちゃん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」
「べっ、べつにいいよ、気にしないで」
(なっ、なんか、胸が――ノブエちゃん、いつの間に、こんなに大きく……一年生の頃はぺったんこだったのに)
むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。
伸英のおっぱいの感触が薄い夏用体操服越しに、歩未の背中に伝わってくるのだ。
(急がなきゃ)
同性でありながらも、なんとなく罪悪感に駆られた歩未は早足で歩こうとする。けれども足がふらついてしまう。
「あっ、とっとっと」
「歩未さん、危ないよ」
その様子を見て、真優子が心配そうに叫んだ。
次の瞬間、
ズシャッ。
という音が響き渡った。
「いたたたぁっ」
歩未がバランスを崩し、前のめりにずっこけてしまったのだ。
「無理もないよ。体の大きさが全然違うんだから」
真優子は困惑顔で二人を眺める。
「だっ、大丈夫? 歩未ちゃん。すぐに退くね」
伸英が歩未の背中に覆い被さる形になってしまっていた。伸英は慌てて立ち上がり、歩未の体から離れてあげる。
「だっ、大丈夫……いたたたぁっ」
歩未は自力で立ち上がったものの、苦々しい表情をしていた。
「あっ、歩未ちゃん、お膝から血が出てるよ」
伸英が顔をこわばらせながら指摘する。
「ほっ、本当だ。擦り剥いちゃってる」
歩未は視線を下に向け、自分の両膝を見つめる。
「あっ、あの、怪我させちゃって、ごめんね、歩未ちゃん」
伸英は自責の念に駆られていた。
「いいの、いいの、気にしないで。ノブエちゃんに落ち度は全く無いよ。ワタシも保健室に行って手当てしてもらわなくっちゃ……あっ、あのう、ケンちゃん、ワタシを抱っこしてーっ!」
歩未は伸英に向かって優しく言い、謙一のいる方に向かって大声で呼びかけた。
「えっ、おっ、俺!?」
謙一はビクッ! と反応した。
「うん。ケンちゃん、小学六年生の時、保健委員だったでしょ?」
「そっ、そうだけど、今は全く関係ないし」
「これは体育の評定平均を上げる絶好のチャンスだよ! ケンちゃん体育の成績いつも悪いでしょ?」
歩未は強く言う。
「俺、推薦AOなんて考えてないから。秀樹爺ちゃんもあれは邪道だって言ってるし」
謙一は非常に迷惑がるが、
「柏岡ぁ、頼まれとるんやから、おまえが行ってやれ」
男子担当の金剛寺先生からも頼まれた。
「はい。それじゃ、仕方なくやります」
謙一はそう言って、しぶしぶ歩未の側へ駆け寄る。
「お姫様抱っこして」
歩未はこんなお願いをすると、地面にぺたんとお尻を付けて両膝を立て、体育座りの姿勢となった。
「えー」
「だって普通におんぶしたらお膝痛いもん」
「わっ、分かったよ」
謙一は中腰姿勢になると歩未の膝の内側に左腕を挟み、右腕を背中に回してふわりと持ち上げた。
瞬間、
(重たいなぁ、思ったより)
謙一は反射的にこう感じてしまった。もちろんそんなことは口に出さない。
(歩未さん、わがままね。少し擦り剥いただけなんだから自分で歩けるでしょ)
真優子の今の心境。
二人が今いる場所から保健室出入口までは、距離にして七〇メートルほど離れていた。謙一は歩未を落とさないように、早足でありながらも慎重に進んでいく。
(柏岡君、心優しいですね。ボクには絶対出来ないよん)
(謙一殿、かなりきつそうだな)
久晃と貢に、謙一のことを羨ましいなと思う気持ちは微塵も芽生えなかったようである。
「謙一くん、頑張って。あともう少しで着くよ」
伸英は二人の数メートル前を歩き、先に保健室へと入っていった。
「ここで傷口をしっかり洗ってね」
謙一は保健室手前の手洗い場まで辿り着くと、歩未をそーっと下ろしてあげる。
「ありがとう、ケンちゃん」
歩未はにっこり微笑んでくれた。
「じゃあ、俺はこれで」
謙一は少し照れくさそうに、そそくさと元いた場所へ戻っていった。
「うー、しみるぅ」
歩未は運動靴と靴下を脱いで蛇口を捻り、両膝の傷口を丁寧に洗ってから、
「失礼します。三田先生」
保健室の、グラウンド側の扉を引いて小声で叫び、入室する。
「いらっしゃい」
養護教諭、三田先生は歩未を笑顔で迎えてくれた。小さな細い瞳に、鶏の卵形のお顔。黒い髪の毛は黄色いリボンで束ねている、三〇歳くらいの女性だ。
「歩未ちゃん、さっきはごめんね。すごく痛かったでしょう?」
伸英はソファに腰掛け、体温計をわきに挟んで熱を測っていた。
今保健室には、この三人以外には誰もいなかった。
「いやいや、気にしないで。そんなに痛くはないから」
歩未もソファにゆっくりと腰掛ける。
「坂東さん、傷口が乾かないように、この絆創膏を貼るね」
三田先生は棚の中から液体絆創膏を二枚取り出した。
「あのう、三田先生。私が貼ります。歩未ちゃんに、さっきのお詫びをしたいので」
「ノブエちゃん、本当に優しい子だなぁ」
歩未は頬をちょっぴり赤らめる。
「はーい、出来たよ」
伸英は三田先生から受け取ると、歩未の傷口に二枚とも貼ってあげた。
「ありがとう、ノブエちゃん」
歩未は照れくさそうに、ぺこりと頭を下げる。
「どういたしまして」
伸英は深々と頭を下げる。
「二人ともとっても仲良しね。笹内さん、体温計床に落としてるわよ」
三田先生は微笑みながら指摘する。
「あっ、いっけなーい」
伸英は慌てて拾い上げると、再びわきに挟んで計り直す。
一分ほど後、ピピピピッと体温計が鳴った。取り出すとそのまま三田先生に手渡す。
「三八度一分ね。最近暑かったり寒かったりで、気温の差が激しいからね。笹内さん、今日は早退しておウチでゆっくり休みなさい」
「大丈夫です。私、頑張れます!」
「ダメよ。今は微熱だけど、無理すると酷くなっちゃうわよ」
「ノブエちゃん、三田先生の言う通り今日は早退してじっくり休んだ方が絶対いいよ」
「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」
三田先生と歩未の助言に、伸英は困惑顔を浮かべる。
「それならワタシのノート、後で写させてあげるから心配しないで」
歩未は優しく微笑みかけた。
「歩未ちゃんに任せて、大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だって。ワタシ、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」
「本当?」
「うん、本当」
「坂東さん、心配されてるのね」
三田先生はにこっと微笑む。
「まあ、ワタシ、普段授業中いつの間にか寝てしまうことが多いですし」
歩未は照れ笑いする。
「歩未ちゃんのノート、すごく言い辛いんだけど……文字の羅列になってて、色分けもほとんどされてないから、どこが要点なのか分かりにくいし、その字も、読みにくくて……あの、気に障ること言ってごめんね」
伸英は大変申し訳なさそうに言った。
「いやいやぁ、全然気にしてないよ、紛れも無い事実だから。提出した時いつもCか良くてB評価で返って来てたから、ワタシも反省しなきゃって思ってるし」
歩未はまた照れ笑いする。
ちょうどその時、
「じゃあわたしのノートを、写させてあげるわ」
ガラッとグラウンド側の扉が開かれる音と共に、こんな声。
「あっ、真優子ちゃん。どうもありがとう」
「どういたしまして」
「そうした方がワタシもいいと思う」
真優子の計らいに、歩未は苦笑いした。真優子のノートはどの教科もいつも最良のS評価だったのだ。伸英も同じである。
「ところで新免さん、何か用事でも?」
三田先生は尋ねる。
「わたしもさっき、バットを振った時に左膝に思いっきりぶつけちゃいまして。冷やしてもらいに来ました」
「それじゃ、湿布を貼るから、ズボンを捲り上げてね」
「はい」
真優子はソファに腰掛けると三田先生から言われた通り、ジャージのズボンを捲り上げる。
「少し蒼くなってるわね。はい、出来たよ」
「ありがとうございます。冷たくて気持ちいいです」
真優子は礼を言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「では三田先生、私、今日は早退しまーす」
伸英はついに意志を固める。
「ワタシも早退しようかなぁ。二時限目の英語も三時限目の物理も、四時限目の数Ⅱもめっちゃだるいし」
「歩未さん、膝をちょっと擦り剥いたくらいで授業を休むのは甘え過ぎよ」
真優子は呆れ顔で言う。
「冗談、冗談」
歩未はてへりと笑った。
二時限目が始まってすぐ、伸英は担任の西脇先生に早退の旨を伝え、荷物を持っておウチへ帰っていったのであった。




