her side
静まり返った校舎、薄暗い教室。足元からじわじわと冷気が上がってくる。
「寒い・・・」
部活にも入らず、毎朝、朝礼開始十分前登校を心掛け、どんな時にも冷静に行動してきたはずなのに。
七時二分。校舎の壁に設置された時計を見た時、気が遠くなった。恨むのは、止まっていた我が家の時計と、ベッドの下に(たぶん)あるだろう(昨夜、寝る前に見当たらなくなった)携帯。そして、勘違いしたまま、脇目も振らずにダッシュしてきた自分だ。特別教室の入ったA棟と、クラス棟を繋ぐ渡り廊下で、私はため息をついた。一度帰るには半端だし、時間を潰せそうな図書室には、まだ鍵がかかっていた。教室は嫌いだ。
窓の外を見ると、灰色の空から、ひらひらと雪が降ってきた。ゴミのようだな、と思っていたら、どんどん勢いを増して、四方を校舎に囲まれた中庭が、あっという間に白く覆われていく。
このまま。
止まってしまえばいい。
違う。
終わってしまえばいい。
早く。早く。
通り過ぎてしまえばいいのに。
こんな時間。こんな毎日。こんな私は。
いらないのに。
何を模しているのか分からない石のかたまりと、作り物のような松の木が、白いゴミで埋め尽くされていくのを見つめていると、自分が凍っていくような気がして、咄嗟に手を握りしめた。
ここから落ちたら、この重苦しいからだもなにもかも、真っ白に溶けてしまえるのだろうか。
それでもいい。どれでもいい。
昨日と同じ今日じゃなければどこでもいいから。早く。はやく。
こみあげてくる何かを、いつものようにきつく抑え込んで、再びA棟へと向かう。屋上に続く階段は、夏は暑くて、冬は寒い。一年を通して、近づく生徒は滅多にいないと聞いたのは、入学して一か月が経った頃だった。こんな時にまでひとりになりたがる私は、やはり変わり者なのだと、どこか他人事のように思いながら階段を上っていると、上から、声が落ちてきた。
「オハヨウゴザイマス?」
窓の外から見える雪よりも美しく、透き通った声の持ち主は、缶コーヒーを片手に綺麗に笑った。
なぜか、ウサミミパーカー着用で。
なにこれ。
「こんな時間に、ココに来るヤツがいるとは思わなかったわ~。あ、これ飲む?もう一本あるから、どーぞ」
「・・・ありがとうございます」
なにこれ。なにこれ。
「あはは。棒読み」
ふざけた格好をした男から、缶コーヒーを受け取る。訂正。ウサミミパーカーを着た変な男から、缶コーヒーを押し付けられた。
「遠慮しないでイイからね」
屋上に出るための扉に背を向けて、最上段に座っているウサギ男から数段離れて腰を下ろした私は、出来るだけ目線を合わせないように、彼を観察した。
白い肌に、色素の薄い髪。フードで隠れてよく見えないけれど、たぶん、瞳の色も。シューズのラインは・・・同学年か。
「あったまるよ~?」
ありえない間抜けを犯して途方に暮れていたことが、吹き飛んでしまうくらいの脱力感を覚えた。
「てか、なんでココに?部活禁止期間だし、試験勉強とか?まだ、教室に暖房入ってないよ?」
本当のことなんか、言えるわけがない。受け取った缶コーヒーを開けず、手に持ったまま俯いていると、「どうしたの~?」と、ウサギ男が、顔を覗き込んでくる。きょとんとした顔なんかするなよ、男子高生が。距離を取るために更に数段下がる。いくら私が同学年だとすぐに分かるとしても、初対面の人間にいきなり馴れ馴れしくしてくる種類の人間というのは、やはり苦手だ。どこにでもありそうな濃いグレーのパーカーから、だらりとぶら下がるウサギの耳。どんな顔して買ったのだ、そんなの。
「カワイイっしょ?」
視線に気づいたウサギ男が、両耳をつかんで、首をかしげてみせる。そのしぐさが妙に似合っていて、苛ついた。ぎゅ、と缶を握りしめると、温かさを通り越して、びりびりと痛い。
「あの、私・・・」
「大丈夫。俺が、ガッコウ楽しんじゃってる系のヤツなら、こんな時間にココには居ないよ」
立ち上がろうと足に力を入れていたから、バランスを崩して手をついた。思わず、ウサギ男を見上げる。へらへら笑っているのに、どこか寂しそうな顔をしていた。
「そんなんじゃないから、ココにいるんだよ」
座りなよ、と促されて、私は体勢を整えた。逃げることも出来たのに、ウサギ男から目が離せない。
「周りのヤツらがさ、フツーに高校生やってんの見ると、尊敬するよね。よく環境の変化にすぐ対応できるよなって。カンシンしてる間に、もう春から半年以上経ってるし。完全に置いていかれた感じ、するよね。今から追いつこうとするのも、なんか手遅れっぽい気がするし」
コーヒーを床に置き、ゆっくりとした動作で腕を組みながら、「まぁ、ぼーっとしてた俺が悪いんだけどさ」とウサギ男は言った。さっきの表情は、もう消えてしまっている。
「それなりにクラスのヤツらとも話すけど、すでに出来上がっちゃってる空気に馴染めなくてさぁ。ホラ、うちの学校って、俺らの年から共学になったじゃん?なんか二、三年の先輩達って、独特な感じするし。だからかなぁ、一年生の間でさ、みんなで仲良くしようぜ、みたいな雰囲気って、ない?」
問いかけているのに、私の返事を待たず、ウサギ男は続けた。
「なんとか周りに合わせようと頑張ってるけど。毎朝、ココで気合入れてから、教室行くことにしてるんだよね。まぁ、キミは逆みたいだけど」
コーヒーを一口飲んで、ウサギ男は言った。
「よく、ギリギリに教室に入って行くのを見るよ」
「え」
「まぁ、俺もここから教室に行くのは、その位の時間なんだけどね~」
「・・・私的には、ギリギリじゃないのだけど」
違う。言いたいのはそんなことじゃない。
「私を知っているの?」
「つまり、キミ的に、我慢して校内に滞在できる時間を逆算すると、あの時間の登校になるわけだよね」
「なんで・・・そんなことが分かるの」
「廊下ですれ違った時に、落とした教科書を拾ってもらったぐらいの接点はあるよ。覚えてない?」
会話がずれていることは分かるのに、頭がついていかなかった。ぼんやりとした視界にウサギのシルエットだけが映る。
「どうしたの?」
「そんなの、接点、とは、言わないわ」
かすれた声が出て、私は唇をかみしめた。ウサギ男に出会ってから、いつもの調子が出ない。誰とも深く関わらずに、一人でいようと決めていたのに。時間の感覚と一緒に、他人との距離感まで掴めなくなってしまったようだ。
「やまないね」
数分間の沈黙の後、窓を見上げてウサギ男が言った。
「雪。このまま時間が止まってしまえばいいのにって、思わない?」
「思わないわ」
私は、即答した。
「どうしてさ」
「止まってしまったら、ずっとこのままってことじゃない」
このまま、雪で覆われた朝の世界に、閉じこもってしまおうか。確かに、ここに来る前、中庭を見下ろしながら一瞬考えた。でも、それでは違うのだ。私が求めているのは。
「ここに居ることも、ここに居る私自身も嫌いなのに、それがずっと続くなんて、それこそ、耐えられないわ」
一息に言ってから、正直に答えてしまったことに驚く。その一方で、私は自分の考えに、妙に納得をしていた。
「もし、時間を自由に操れるなら、私は、逆がいい。早く終わってしまえばいいのだわ」
「強いね」
「強い?どこがよ。現実から逃げようとしているだけだっていうのは、自分でも分かっているわ」
「今が嫌いでも、その先には期待しているってことでしょ?俺は無理だからさ。そういうの」
その先。
「そんなの、無いわ。」
期待できる“先”なんて。
「私は、望んじゃいけないのよ」
私が“今”を嫌うのは、私の存在で傷つく人がいるからだ。時が過ぎて、“今”が“過去”になってしまえば、彼女も少しは楽になれる。
「誰かのために、自分の“今”を捨てようとしているんだね」
見透かされた。
「どうして・・・」
「言っただろ。俺の周りは、仲良し大好き、なヤツばかりだって。クラスが違っても、いつも一人で行動している子は、目立つよ」
「言っとくけど、別に私は・・・」
「いじめとかじゃないのは、分かってるから。てか、別にチクったりしないし。安心して」
ウサギ男が、変な正義感をかざすようなタイプじゃないことは分かるけれど、面倒を起こされたら堪らない。
「ねぇ、ココで吐き出していかない?」
「・・・吐き出す?」
「キミの中に溜まっている色々なこと。少しは気が楽になるかもしれないし、ね。実はさ、何度かキミを見かけるたびに、俺らって似てるんじゃないかなって、ひそかに思ってたんだ」
「似てる?」
「ガッコウ楽しんじゃってる系じゃないってこと」
ウサギ男は、パーカーのポケットからホッカイロを取り出して、両手で挟んだ。拝むようなポーズで「やっぱ、寒いな」と呟く。
「ちょっとお話していきませんか、アリスさん?」
「・・・あなたを追いかけてきた覚えはないのだけれど」
睨みつけると、ウサギ男がハハッと笑った。
「俺らは、お互いの名前も知らないし、たとえこの後クラス棟で会ったとしても、キミは俺に手を振ったりはしないでしょ?」
「当たり前じゃない」
「俺もそう。今は素の状態だからこんなんだけど、教室での俺は物静かな草食系だよ。他クラスの女子に声をかけたりなんか、出来ないから」
「・・・あなたは?」
「うん?」
「あなたは、なんで馴染めなかったの」
この世界に。
そう問うと、ウサギ男は、寄りかかっていた壁を、慈しむように、するりと撫でた。
「本当は、スッゲー楽しい生活が待ってるはずだったんだよね。ココで」
そのまま、額を壁に押し付ける。
「・・・コイビトっていうか、両想いのヒトがいたんだけどさ。同じ高校行きたいって話してて、勉強教えてもらったり、休みの日に遊びに行ったりしてさ、結構いい感じだったんだ。だから、入学したらちゃんと告白して、正式に付き合おうと・・・付き合えると、思ってた」
それから、私の方に体を向けた。「でも、ダメになっちゃった」
「どこか、別の学校に転校したみたい。入学式の次の日に、教室に会いに行ってもいなくてさ」
「転校・・・」
「呆然としてる間に、周りの環境が出来上がっていっててさ、気づいたら、取り残されてた。初めは、クラスの奴らも、何とか俺を引き込もうとしてくれてたみたいだけど、さすがに、心ココにあらずです、みたいな人間を
どうにかすることはできなかったみたいだね。俺も、正直どうでもいいと思ってたし。つまりは、自業自得なんだけど」
フードに付いたミミを引っ張りながら、コレ、そのヒトからのプレゼント、と照れくさそうに笑った。あの頃は、これを着てもサマになっちゃうようなキャラしてたんだよね。
「この場所のことを教えてくれたのも、そのヒトだし」
「・・・だから、ここで?」
うん、とウサギ男は頷いた。そのまま、大きく伸びをする。
「俺は、このままがいいかなって思う方だから。コイビトと過ごしていたかもしれない日々のことだけを思って過ごしたい。先のことを考えている余裕はないよ。だって、その先には、いないんだからさ」
大切なあのヒトは。
「だから、時が止まってしまえばいいって、思ったの?」
「そうだよ」
「その人を、さがそうとは思わなかったの」
「中学違ったから、共通の知り合いも少ないし。転校することを俺に言わなかったってことは、原因は完全に俺だよね。俺と親しくするのを、家族に反対されてるっぽかったし」
だから、“先”を自分で閉ざした。
どう?弱っちいヤツでしょ俺って、と言いながら、ウサギ男は傍らのコーヒーの缶を爪で弾いた。カツ、と小さな音がした。
「あなたは、間違っているわ」
「そうだね。分かってるよ」
「間違っているのは、あなたが、私達を似ていると言ったことよ」
ウサギ男は、コイビトとの思い出の世界で生きるために、一人になった。
でも、私は・・・。
「私は、親友を閉じ込めて、傷つけたのよ」
元々、人見知りな子だった。今年度から男女共学になったこの学校は、男女比の差が大きい。それを喜んだり、かえって気楽に感じたりする生徒もいたけれど、彼女にとっては、うれしいことではなかったようだ。上級生達の独特の連帯感に対抗して、なにかというと固まって行動しようとするクラスメイトにも付いていけず、彼女は中学時代からの友人である私の腕を掴んで、いつも小さくなっていた。私は毎日彼女の話、というよりも愚痴(中学時代に戻りたい。先輩たちが怖い。クラスの子に話しかけられない)を聞き、慰めた。
今思えば、私には、彼女が周りに馴染めるように努力する、という選択肢もあった。クラスメイトのノリは私も苦手だったけれど、彼らが悪い人間ではないことは、十分に分かっていた。彼女と一緒に、彼らに近づく努力をすること。おそらく、彼女も、私にそれを求めていたに違いない。でも、私は彼女の期待を裏切り、ただひたすら愚痴を聞くという形で、彼女を自分と二人だけの世界に閉じ込めてしまった。
私も、新しい生活が怖かったのだ。彼女に頼りにされることで、その恐怖心と闘っていたのかもしれない。守り、励ましているつもりで、彼女の臆病な性格をからかい、時には、偉そうに諭したりもした。そんな私に、彼女は傷つけられ、そして、失望した。
彼女が学校に来なくなってしまったのは、五月の連休の後からだった。
私が家へ迎えに行っても、姿を見せてくれない。毎日、自分の無力さ、傲慢さを悔やんで過ごした。その数週間後、ちょうど衣替えが終わった頃に、彼女が登校してきた。
クラスメイト達に囲まれて。
私に脅されていたのだ、と彼女は言った。「クラスの人間と親しくなるな」と言われて、逆らえなくて、とうとう学校を休んでしまったのだと。
本当は、早くみんなと一緒に過ごしたかったの。だから、わたし、勇気を出して、来たのよ。
あの時の彼女の言葉と表情は、今でも忘れることができない。
「初めは、裏切られたと思ったの。すぐに否定してやろうって。でも、やめた」
「どうして?」
「彼女の必死さが伝わってきたから。毎日、愚痴に付き合っていたって言ったでしょう。それは、教室の中でのおしゃべりだけじゃないの。形に残っているものもあるわ」
私は、ウサギ男の鞄を指差す。外ポケットから、スマートフォンが半分見えていた。
「そんな脆い嘘に縋ってでも私から離れたかったのかって思ったら、彼女を責めようとか、そんな気持ちがなくなっちゃったの」
だから、私は彼女の描いた通りの姿を演じることを決めた。私にできる唯一の罪滅ぼしとして。
「ね。違うでしょ。あなたとは」
嘘で居場所を作った彼女は、今でも私と目が合うと怯えた顔をする。そして、その度にたくさんの新しい嘘をばら撒いて、その中に身を隠してしまう。かつて、私達を繋いでいた糸は、絡まって、切れて、溶けてしまった。もう、二度と結ばれることはない。
どう?嫌な奴でしょ私って。
ウサギ男を真似して、缶を弾く。鈍い音がして、すぐに消えた。
「そうだね」
「でしょう?」
予想通りの返事を聞きながら、私は立ち上がった。ずっと抱えていた思いをなぜ話してしまったのか、考えようとしてやめた。あとの時間は、別のところで過ごそう。ウサギ男に背を向けて階段を下りる。
「すごく強いよ。キミは」
「え?」
振り返ると、ウサギ男がまっすぐにこちらを見ていた。どこか懐かしいものを見るような、眩しそうな顔で。
「その強さをキミのために使ったら、きっとうまくいくと思うな。キミ自身が“今”を楽しめるようになったら、望んだ“先”にいけるよ」
そう言って、私が一口も飲まないまま置き去りにしたコーヒーを拾い上げ、もう一度手渡してきた。
「アドバイスは求めてないのだけれど」
缶に残るかすかな温度をさがしていると、少し、ほんの少し、からだが軽くなったような気がした。傍らに立つ男には、絶対に言ってやらないけど。
「でも、そうね・・・」
一段上って、ウサギ男と目線を合わせる。断りもなくミミを引っ張って、フードを脱がせた。やっぱり、薄い色だ。
「あなたが、恋人になりたかったその先輩を諦めないって言うのなら」
考えても良いわ。
目を丸くしているウサギ男を置いて、私はその場を離れた。
そして、ようやく鍵のあいた図書室で時間を潰してから、いつものように朝礼開始十分前に教室に入った。
それからの毎日は、特に何も変わらなかった。彼女は、相変わらず嘘で築いた居場所を守ることに夢中だったし、私は一人だった。携帯と時計の管理には、気を遣うようになったかもしれないけれど。
私は、変わらない。
だから、今日、ふたつとなりの教室で、クラスメイトの輪の中で少し遠慮がちに笑う茶色い髪の男子生徒を見かけたとしても、声を掛けたりなんてことはしないのだ。
ただ、明日は、ちょっと早起きをしてみてもいいかな、と考える。A棟の隅にいる、背の高いウサギにコーヒーをあげに。




