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第九章

森から外の未来

そこには足りないものがありすぎる

それでも、未来は進んでいく

    9


 暖かい昼下がり。

 珍しくサークルもバイトもない楡一に、遊びに来た貴沙良、テスト期間を終えて先ほど起きたばかりの祐樹の三人は、久々に静かな休日を過ごしていた。

「今週の日曜日、遊園地に行こうぜ」

 そんな穏やかな空間を覆すように、楡一はずいと二人の前へチケットを突きつけた。

 赤とオレンジを基調としたマスコットの描かれた長方形の紙。丸や三角がふんだんに使われたチケットは、見ているだけで楽しげだった。

 中央には、隣の県にある遊園地の名前が大きく記されている。ソファに並んで座る二人は首を傾げ、しばらくその紙を凝視していた。

「急にどうしたの、兄さん」

 突然の提案に、祐樹はぱちくりと瞬きをする。しげしげとチケットを眺め、あ、これ最近リニューアルしたところだよねと笑顔になった。

「前に課題手伝ってやったお礼で、サークル仲間がタダでくれたんだよ。ま、彼女と行くはずだったのに、昨日別れていらなくなったからくれたんだけどな」

「あ、それってタっくんのことだよね。凄くかわいそうだとは思うけど、こっち的にはラッキーだね」

 テレビのラッピングを止め、貴沙良が身を乗り出してチケットを見る。あまり男らしくない指が、ひらひらと揺れる紙を掴もうと真っ直ぐに伸ばされた。

「でも、二枚しかないじゃない。僕はのけものってこと?」

「お前は自腹で出すなら連れてってやる」

「何それー!」

 取られそうになるチケットを頭の上に掲げ、楡一はひっひと悪者のように笑う。

 あからさまに不機嫌を顔に貼り付けた貴沙良は、ソファに立ち膝になってチケットへと手を伸ばした。だが、立っている楡一と座っている貴沙良では距離がありすぎる。ソファから立ち上がればいいのだが、貴沙良にはその発想がないのかふんふんと鼻息を荒くして座ったまま限界まで手を伸ばして指はチケットを目指している。

 そんな必死な貴沙良の様子に、祐樹がクスクスと笑う。年齢的には貴沙良の方が大分年上だというのに、大人しく座る祐樹よりも、頬を膨らませて怒る貴沙良の方が年下に見えた。

「じゃあ、僕いかなーい」

 届かないチケットに諦め、貴沙良はべっと舌を出す。

「男三人で遊園地ってのも、目出しそうだしね」

 すっかり拗ねてしまった貴沙良は、楡一を避けるように顔を横に向けてしまった。つんと上へ向いた口が嘴のようになっている。

「うーん、確かに……」

 貴沙良の言葉に、ノリ気だった祐樹の顔が曇り始める。

 完全な大人ではないにしろ、男三人が遊園地できゃっきゃとはしゃぐ姿は、恋人のデートスポットである場所では目立つだろう。

「それに兄さんと二人きりで遊園地って、何か子どもみたいでやだ」

 貴沙良が行かないのならば行かないと祐樹は首を横に振る。友達に見つかったらからかわれるかもと言い訳も加えたその顔は、僅かににやけていた。貴沙良の見方をしていることがバレバレだ。

「あーもー、分かったよ。貴沙良はチケット代オレと折半な。だから来い」

 肩を落として溜息を一つ吐けば、下げられたチケットは瞬間に奪われた。カラフルなチケットを手にし、貴沙良は上機嫌に笑っている。

「半分、か。まぁ、それで手を打ってあげよう。よく考えたら男三人で遊園地っていうのも青春って感じでいいよね」

「現金な奴め」

「ふふっ、よかったね貴沙良さん」

「うん! 祐樹くんのおかげ!」

 機嫌を直した貴沙良はよしよしと祐樹の頭を撫でる。恥ずかしそうに俯き、頬を赤く染める祐樹だが、嫌そうにはしていない。

 見ているだけで温かな二人の様子は、楡一の口元を緩ませる。

「そういえば、遊園地なんて久しぶりだ」

 渡されたチケットを眺め、祐樹はいつぶりだろうと頭を捻る。

 親が亡くなってからは娯楽施設へ行くことも減った。元々忙しかった両親だ。少し遠くとなる遊園地には、祐樹が考えても覚えてないほど幼い時に一回行っただけ。

 なるべく祐樹に寂しい思いをさせないようにと心がけていた楡一だが、最近では人食いの森の調査やバイトに時間を費やし、構ってやれることも少なくなっていた。

 そんな楡一の思いを知っている友人は、いらなくなったチケットを真っ先に楡一にくれたのだ。

「祐樹くん喜んでくれてよかったね、楡一」

 楡一が祐樹を大事にしていることは、貴沙良も知っている。いまだ頭を捻っている祐樹に聞こえないようにそう言い、貴沙良は綺麗にウインクして見せた。

 折半と言いながらも、いつもと同じようにチケット代も結局全て自腹で払うつもりだろう。下手すればポップコーンや食事代も出してしまう可能性すらある。

「……ああ」

 貴沙良の優しさに、周りの気遣いに感謝して、楡一は祐樹へと抱きついた。

「よし! 周りに引かれるくらい楽しもうぜ!」

「わぁ! な、なに兄さん!」

 唐突に抱きついてきた楡一に、首を右へ左へと傾けていた祐樹が暴れだす。巻きつく腕を押し、意味もなく足をバタつかせ、顔を真っ赤にして楡一を引き剥がそうとする。貴沙良の時とは違い、嫌がってはいる。しかし、完全な拒否ではない。恥ずかしさゆえの抵抗だ。

「楡一、それはちょっと、どうよ……」

「俺は遠慮するからね!」

「何だよ、ノリわりぃな」

 鼻息を荒くして憤怒する祐樹に楡一は引き剥がされてしまった。

 やーい、嫌われてやんのと、貴沙良が指を指して楡一を笑う。怒っていた祐樹も、凹んでいた楡一も、豪快な貴沙良の笑いにつられていく。

 笑顔が、広がっていく。

 そこからすぐ、何に乗ろうかと話し合いが始まった。ジェットコースター、観覧車、少し抵抗があるもののティーカップ。他にも遊園地には何があるかと三人で案を出し合っていく。

 幸せな時間。

 しかしそれは、長くは続かなかった。

「……祐樹?」

 祐樹の笑いが、遠ざかっていた。

 声は聞こえる。だが、何を言っているかは聞こえない。笑顔は見える。しかし、その笑顔すら、遠い。

 貴沙良は笑顔でそこにいるというのに、祐樹だけがいつの間にか小さくなっていた。その姿が、遠ざかっていた。

「祐樹!」

 名前を呼んでも祐樹は答えない。ただ変わらぬ笑顔を浮かべているだけだ。

 電気を必要としない昼間の明るさが一転、何かを思い出させるような闇が広がり始める。

「駄目だ」

 家具が消える。壁が消える、床が消える。空間はあっという間に黒一色に染まり、陰鬱とした雰囲気に包まれた。

「いけない」

 微笑む貴沙良の存在が異質に見える。そんな風に思っている間にも、祐樹はだんだんと遠くへ逃げていく。小さくなっていく。

「そっちは!」

 祐樹が向かう先の色は、赤。その中に飲み込まれ、祐樹は見えなくなっていく。

 笑顔のまま、赤の一部となっていく。


「行くな、祐樹!」

 楡一はカッと目を見開き、飛び起きた。

 漆黒に包まれていたはずの視界が開く。潤んだ瞳に映されるのは、見慣れた天井と、伸ばした自身の手だった。

 手は、何もない空気を掴んでいた。勢いよく伸ばしすぎたのか肩が痛む。手を広げても、当然のように中には何も入っていない。

 楡一は長く息を吐いて呼吸を整え、力なく腕を降ろす。腹の上に乗っていたもう片方の手で額を拭えば、灰色のシャツが色を変えた。

 身体を起こせば不快感に気づかされる。顔だけではなく、背中の汗も凄い。ソファもびっしょりと濡れてしまっていた。

 はぁと溜息を吐き、楡一は夢のことを思う。夢だったとは思いたくない、幸せだった夢を。

 見ていたものは過去ではない。あったかも知れない、未来だった。

 楽しそうな祐樹の笑顔が頭から離れない。その笑顔に、頭痛がした。まだあどけなさの残るその笑顔をもう見ることができないと、分かっているからだ。

 口にしようとした名前を遮るように、インターホンが鳴った。ピンポン、ピンポンと煩い音が、死んでしまいたいとすら思った楡一の心を、少しだけ軽くしてくれた。


「はい、これお土産」

「サンキュ」

 目の前に差し出された顔よりも大きな紙袋を、楡一は苦笑しながら受け取った。

前々回は箱に詰まった饅頭。前回は袋いっぱいに詰められた果物だった。袋が破れんばかりにずっしりと詰まっている今回の中身は何だろうと考えながら、楡一は土産を腕に抱えた。

 そうすれば、今まで紙袋で隠れていた貴沙良の顔が視界に入る。今流行りである模様が入ったパーカーに細身のジーンズ。起きたばかりで、シャツとジャージ姿の楡一が恥ずかしくなるほどきちっとした格好だ。

 肩に掛かる薄茶の髪は光に透けて金に見えた。白い肌は相変わらず不健康そうだが、自然な笑顔は体調が優れていることを伺わせる。

 しかし、それ以上に明るすぎる太陽に楡一は目を細めた。くらりとする何かを感じ、急いで腕で顔へ日陰を作る。

「やっぱ、駄目だな……部屋、行こうぜ」

 今は昼間だ。一番太陽の光を浴びる時間帯。まだ光に慣れない二人は、長時間日の下にいることが出来ない。

「うん。お邪魔します」

 眩しさ耐えられないのは貴沙良も同じだった。背を向けた楡一を追うように、小走りで門を潜る。二人は吸い寄せられるように家の中へ逃げ込んだ。

「まだ駄目だな……太陽が明るすぎて、目が痛くなる」

 玄関で靴を脱ぎ捨てた楡一は、ガシガシと黒髪を掻く。もう大丈夫だろうとあえて日光の下での会話を試みたのだが、失敗に終わってしまった。

「すぐ慣れないのも無理ないかも。だって、十三年もずっと暗い森の中にいたんだから」

「十三年、か」

 声が萎んでいく。二人はリビングのソファへ隣同士で座り、揃いの溜息を吐いた。

 カーテンを閉めた部屋は漆黒ではないものの薄暗い。それでも目は、まだ光にくらくらとしている。

「長かったのか短かったのか、何も分かんねぇ」

「僕もだよ。ずっと眠っていたけど、微かに意識はあったから」

「でも、こうして普通に話せてるだけ、マシ、か」

 十三年。

 それが、二人が森の中に閉じ込められていた年数だ。一番の年長者は、五十年以上も森で過ごしていたという。家族との感動の再会が、テレビで何度も放送されていた。

 森で暮らしていた人間は、高い確率で精神の病気に犯されていた。口が利けない者、食事が出来ない者、意味不明なことを口走り、狂乱する者。心だけではなく身体の不調を訴える者も少なくはない。

 それに比べ、二人は少し不安定な部分はあるものの、普通に生活を送れている。

「体調はどう?」

「ああ、いいぜ。医者ももう完全復活だと。ただの風邪だったみてぇだからな。お前こそ、どうなんだよ」

「僕は全然元気。元々、調子の悪い所なんてなかったし。あ、でもね、両親がすごく心配性になっちゃってて。ここまで来るのにも、そこまで車で送ってくれたんだ。日傘でも差して歩いて来ようと思ったのに」

「心配すんのは当然だっつの。たくさん甘えてやれ」

 今度は普通に笑いながら、楡一は土産の袋に手をかけ始める。出てきたのは高級そうな丸い缶だった。蓋には綺麗なクッキーの絵が描かれている。

「楡一のことも心配してた。今夜迎えに来るからうちでご飯食べてね、って。泊まりの準備も万全にしておくって張り切ってたよ」

「ははっ、ラッキー。晩飯どうすっか悩んでたんだ。まだ今日の朝、病院から帰ってきたばっかだからな。布団もどこもかしこも埃塗れてやってられねぇ」

 クッキーの缶を机に置き、楡一はソファに背を任す。ばふりと、埃が舞った。

「これ、二人で食うには多いよな。祐樹が、いれば、な」

 その言葉一つで空気が変わる。冷たさを帯びた声に、貴沙良は何も言えずに小さく頷く。

 二人分の体重を支えるソファが、より深く沈んだ。

「一人で家にいるのがこんなにも寂しいなんて、知らなかったよ」

「楡一……」

 楡一はクッキーの缶から目を離し、ドアの横にある棚を見た。

 埃だらけのそこには、この家で唯一綺麗に拭かれたものがある。

 シンプルな枠の中で笑うのは若い両親。中央にまだ年齢が二桁に行っていない祐樹と、大人の気配などまるでない楡一がいる。数少ない家族写真だ。

 両親の笑顔に楡一はいつも励まされていた。落ち込んだ時や苛立った時、写真を眺めて愚痴を言えば落ち着けたものだ。

 だが今は、その写真の中でこの家にいるのが楡一だけという現実を突き付けられているようで。

「オレは祐樹に、こんな思いをさせてたんだって、思い知らされてる」

 森の研究を始めたきっかけは、祐樹のためだった。

 働き手がいないことで生活保護を受けることは出来ていたが、二人の生活は裕福なものではなかった。学はあった方がいいと楡一が大学に入ったことで、節約生活は加速してしまった。

 祐樹は無意識に欲しい物があっても我慢してしまう癖があった。

 両親が死んでから玩具を強請られたことは一度もない。休みの日でも、どこに遊びに行きたいかと聞けば「公園」と答える子どもだった。元々欲が薄かったのだが、両親がなくなってからは特にそうだった。

 祐樹は優しい子どもだった。しかし、その優しさが、楡一を苦しめた。

 両親の死は、どうにも出来ない。ならばせめて、我慢させたくない。経済的に安定すれば祐樹を不安にさせることもない。贅沢をさせてやれる。甘えさせてやれる。

 そんな思いから、楡一は森の研究を始めたのだ。

 森の不思議を解明することが出来れば、一生不自由しない金を得ることが出来る。国が誰でもいいから森をどうにかしてくれと、多額の報奨金を出しているのだ。

 楡一の所属していたサークルは人食いの森に興味がある者の集まりというよりも、金が目当てで結成されたものだった。

 今まで誰もなしえなかった森の解明が簡単なことではないとは分かっていた。それでも皆が研究に熱中していったのは、成果が出ないながらにも今慮のない自信があったからだ。

 その自信はどこから来るのか。誰もそんなことなど気にせず、どんどんと森の神秘にのめり込んでいった。今思えば、人食いの森に入る前から、人食いの森に食われていたのだと知れた。

 そしてその自信は、当たった。

 森の呪いは解かれた。

 しかし、その代償として、楡一は一番大切な弟を失った。

「……ごめん」

 数秒の間を置いて、楡一は首を振った。こんなことを口にするつもりはなかったと、目を腕で覆い隠す。

 楡一が思い出したように祐樹の名前を口にしてしまうのは、これが初めではない。

 家の中には至る所に祐樹の面影がある。机に置きっぱなしになっている筆箱、畳んで床に積まれている服に、買い物袋に入ったままとなっている祐樹の好物のお菓子、ジュース。

 それらを見る度に、いや、森を出てからずっと、楡一は会話に祐樹を織り交ぜる。

 そして、後悔するのだ。

「掃除手伝うよ。ていうか、僕の家に住めばいいのに」

 誤魔化すこともなく、貴沙良が話題を戻す。これもいつものことだ。

「ヤだよ。これ以上迷惑かけらんねって」

「そんなことないよ。父さんも母さんも、姉さんも、楡一の事息子みたいに思ってるんだから。僕だって楡一のこと心配だし。だから、考えておいてね」

 ずいと、貴沙良が楡一に顔を近づけた。口角を上げながらも、瞳の中には真剣さが光っている。楡一はしばらく考えたが、誤魔化すことなく、一つ頷いた。

 貴沙良は顔を離し、楡一と同じようにソファの背に体重を掛けた。やはり埃が上がり、二人して軽く咳き込んだ。

 そこから珍しく、話が途切れる。

 テレビも何もつけていない部屋は、一度黙れば何の音もなくなる。普段ならどちらかが話題を振るのだが、今日はそんな雰囲気にはならなかった。

 二人して口を開くのだが音を繰り出さない。数分間、二人は視線も合わせず、言葉のない時間を過ごした。

「祐樹くんを諦めさせたこと、まだ怒ってる?」

 声は、まっすぐに壁にぶつけられる。それでも、答えを求めているのは楡一に、だ。

 貴沙良が自分から祐樹の話を切り出したのは、初めてだ。何か言おうとしていた楡一の口が閉じていく。

 貴沙良は楡一を見ず、電気のスイッチしかない壁を見つめている。その瞳は、僅かに揺れていた。

「……何とも言えねぇ。自分でも、よく分からねぇんだ」

 キンと響いた声に、楡一は情けない声で答える。

「僕のこと、恨んでる?」

「それは絶対に、ない。お前がいなければ、俺は……死んでた」

 その返事には、楡一はしょぼくれた声を制し、はっきりした声で返した。ほーっと長い吐息が貴沙良の肩に入っていた力を抜いていく。よかったと、息のように声が吐かれた。

「お前のせいじゃない。全部、オレのせいなんだ」

 だが、一度は安堵した貴沙良の顔は、すぐに悲しげに染まってしまった。

「オレのせいだ、全部。オレが森に入らなければ、祐樹もあんな森に入ることはなかったんだ」

「楡一、それは……」

「隣の県に遊園地あるだろ。新しくなった、って言っても、もう十三年も前になっちまったけど」

 突然変わった話題に、貴沙良は困りながらも頷いた。

「僕たちが森に入ってすぐくらいにリニューアルオープンしたところだよね」

「ああ。そこにお前も連れて三人で行こうって話してたんだ。十三年前、森に入るちょっと前に」

「そう、だったんだ」

「祐樹さ、遊園地のCMがやる度に熱心に見てて、すげぇ行きたそうだった。だから、約束してたんだ。絶対行こうなって。なのに、守れなかった。帰ってくるって約束も守れなかったっていうのに」

 言葉だけでは思いを吐ききることが出来ず、拳がソファを殴る。ソファの骨組みに辺り、小指がじんと痺れた。

「約束、したのになぁ」

 瞳に水分が溜まっていく。涙になって落ちないようにと、楡一小指を押さえ、目を閉じた。

 暗い視界に、遊園地が浮かぶ。

 十三年前はあんなに煌びやかに見えていた、当時は高校生や大学生の間でも話題になっていた遊園地は、今では小学生が家族と行くような場所へと変わっていた。CMも、当然のようにテレビで流れたところを見たことがない。

 更に隣の県に三倍はあるテーマパークが出来たのだ。小学生以上ともなれば皆そちらに流れてしまう。恋人同士が今一番行きたいデートスポットも今はそちらばかりで、雑誌でも多く取り上げられている。

 ニュースの合間につけたバライティで、偶然昔の遊園地のCMに出ていた女を見つけた。

 元々は女優だったらしいのだが、十三年の間にお笑い芸人に転身したらしい。人気とはいえないものの、名前くらいは知っているという知名度のピン芸人になっていた。

 口端が切れるのではないかと心配させるほど口を大きく開く笑いは変わっていなかったが、時の流れは見て取れた。

 笑い皺が深い。つり気味だった瞳もどこか下がっていて、米の先のようだった顎は二十になっていた。顔だけではなく、スリムだった身体も鏡餅のようになっていた。相変わらず衣装は派手だが、ドレスから溢れた肉が歩く度にたぷたぷ揺れるほどだった。

「でも、幸せそうだった。最後に決断したのは、祐樹くんだよ」

「だから! オレが森なんかに入らなきゃ、祐樹がそんな選択をすることもなかったんだよ!」

 貴沙良の声で、派手な中年女が消えていく。

 思い出すのは、祐樹の顔だ。

「地道にバイトして稼いで、大学出て手堅く就職して、それで、よかったんだ。そうすればよかったんだ……一刻も早く大金が欲しいなんて、馬鹿みたいに考えた、オレのせいなんだよ!」

 ドンとソファを叩く。同じ場所を何度も、何度も。もう小指だけではなく、全ての指先に痛みが走っていた。

「そんなに自分を責めないで」

 振り上げられた手に、貴沙良の指が添えられる。包まれるように握られてしまったため、ソファに打ち付けることは出来なくなった。

「僕が大人を使ってでも止めていたら、楡一は森に入ってなかった。入りたくても、入れなかった。楡一が森に入れたのは、僕のせいだよ」

 思わぬ貴沙良の言葉に、楡一は項垂れていた顔を上げた。

「そんな! お前に責任なんてあるわけ、」

「ほら、堂々巡り」

 真っ直ぐに楡一を見つめる瞳で、楡一は我に返った。

 どれだけ自分を責めて暴れても、例え貴沙良を責めたとしても、永久を心の底から恨んだとしても。

 過去は変えられない。

 祐樹は、戻ってこない。

「ごめん、オレ……」

「いいよ、仕方ないって」

 ゆっくりと身体から力を抜いていく楡一に安堵しつつ、貴沙良は首を振る。

「僕、永久ちゃんと繋がってたから、分かるんだ。永久ちゃんも祐樹くんが好きだったし、祐樹くんも、永久ちゃんが大好きだった」

「……ああ。だろうな」

「二人の想いは、強かったよ。僕も恥ずかしくなっちゃうくらいにね」

「ああ、オレもちゃんと分かってるつもりだよ。あいつきっと、あれが初恋、なんだろうなぁ」

「ふふっ、甘酸っぱいね」

 貴沙良の顔が楡一に向いた。苦笑の中に、不安が混じる表情をしている。

「祐樹は……今、どうしてると思う?」

 話題を変えようとした楡一だったが、口は勝手にその話を続けようとする。貴沙良も止めようとはしなかった。

「永久ちゃんは最後の力を使って火を鎮静した。今は力や精神力とか体力とか、色々なものを回復させるために、祐樹くんと寄り添って眠っているよ。最後の最後に、思いが流れ込んできたから、確かだと思う」

「そっか」

「大丈夫。回復したら、きっと」

 強い想いが篭もった、貴沙良の言葉。その先の言葉を汲み取った楡一は、石のように硬くしていた表情を解いた。

 絶対に会えないと、決まったわけではない。

「またすぐ、入院か。お前もだよな」

「うん。同じ病室にして貰えてよかったね。退屈が凌げる」

「トランプ持ってくか。お前は最新のゲームな」

「病院ってゲームはいいんだっけ? 携帯が駄目なだけかな?」

「音が大きすぎなきゃいいだろ、ゲームも」

「そっか。じゃあ持ってく」

 ようやく変わった話題に、楡一と同じように貴沙良も柔らかく笑う。

 一時的に帰宅が認められたものの、二人の検査はまだ全て終わっていない。身体に不調はないのだが、医者に解明出来ない謎が二人に、いや、森の中に囚われていた人間全員に隠されているせいだ。

「身体、ゆっくり変化してるの、気づいてる?」

「ああ」

 貴沙良が、楡一の前髪に触れた。長くなった前髪は目に掛かっている。貴沙良の指が、前髪を一生懸命に横へと払っていく。それでも、やはり目に入りそうになる。

「髪、伸びてきてきた。お前も伸びたな」

「うん。そろそろ切らないと」

「髭もやばい、濃い。まだ上手く剃れないぜ」

「む、ずるい。僕髭はまだ全然薄いんだけど」

「お前は元々だろ」

 楡一の髪から貴沙良の指が離れていく。それを追うように、楡一の指が貴沙良の顎に触れた。

 何も生えていない、つるりとした顎。しかし、横に移動した指が捉えた髪は、楡一以上に伸びている。

 森の中ではなかった、生きている人間らしい現象が起きている。

 互いに視線を合わせ、変わらない相手を見る。楡一も、貴沙良も。森の中にいた時よりも小奇麗になり、体重の増加、髪や髭が伸びてきたこと以外、変わっている所はない。

「オレ達、この姿で三十二歳、だもんな。笑えるぜ」

「うん。大きな病院で血液検査されたり、何回もレントゲン取られたり、変な機械に入れられるのも当然かもね。だって、十九歳の時のまんまなんだもん」

 検査の結果は、見た目も中身も行方不明になる前と同じ、というものだった。

 まだ大人になったばかりの楡一の顔に、まだ幼さを残す貴沙良の顔。身体も、そして心も、二人は十三年前のまま止まっている。

 過去に取り残されている。

「これからどうなるのかな、僕たち」

「さぁな。明日の朝起きたら、いきなり三十二の親父になってるかもしれないし、このままゆっくり老いていくかもしんねぇし」

「前者は、できれば遠慮したいなぁ」

「だな。言っておいてなんだけど、オレもだ」

 貴沙良は前者を想像し、一人小さく笑った。「お腹がぽっこり出てて、頭がバーコードになった楡一を想像しちゃった」という貴沙良の言葉に、楡一も噴き出して笑った。だが、すぐに笑いも消えていく。

 これから、どうなるか分らない。

 言いにくそうに、それでもはっきりと伝えられた医者の言葉が、二人の脳をぐるぐると回る。

 突然変異が起きて身体が急に歳を取り、耐えきれずに死ぬかもしれない。このまま一生、その姿のまま成長しないかもしれない。特殊な体質ならば、病気になれば、治す手段がないかもしれない。二人は、様々な『過程』の話を聞かされた。

 人類の希望だ、解剖して医療に役立てよう。そんなことという医者も現れている。反対意見の者が多いのが救いであるが、いつ、強硬手段に出られるかも分らない。

「ねぇ……」

 涙ぐむ貴沙良が、楡一の腕を握る。

「怖く、ない?」

「怖いさ。解剖されないかとか、点滴に変な薬入れられてないかとか。人間が、信じられなくなってやがる。木でいた時の名残が、抜けねぇ」

 人間が木を簡単に切り倒すように、草を引き千切るように、花を捥ぎ取るように。二人は人間に恐怖を持っている。

 病院という施設を信用してもいいのか。医者を、看護師を信頼してもいいのか。家族でさえ、その笑顔の裏に何かが隠されているのではないかと疑ってしまう。

 二人の心はまだ、人間に戻りきれていない。

「そう、だよね……でも、よかった。僕だけかと思っちゃった、怖いの」

「そんな訳ねぇだろ。強がってるだけだよ、俺は」

「強がれるだけ凄いよ」

 楡一を握る手が震える。長い睫毛も細い身体も、震えていた。楡一は何も言わず、その身体を抱きしめる。

 どくん、どくん。

 心臓の音が聞こえる。温もりがある。血が通っている。心もある。

 今、生きている。

「これから、お前がどんな姿になっても、俺がどんなに変わっても、ずっと、一緒にいてやるよ。祐樹が俺達を助けてくれたように、俺が、お前を守ってやるから」

「うんっ」

「大丈夫、大丈夫だ……」

「ん……」

 貴沙良は楡一の首に手を回し、楡一は貴沙良の背に腕を回す。不安を取り除くように、恐怖を打ち消すように、強く、強く抱き合う。

 わんわんと子どものように泣き始めた貴沙良の背を擦り、楡一は再び目を閉じた。

一瞬、子どものように笑う祐樹と、無邪気にはしゃぐ永久の姿が頭を過り、瞳からは無意識に、一筋の涙が零れていた。




 人食いの森は【人食い】ではなくなった。

 森の奥へ入ろうとしても、すぐに森の外へと吐き出されてしまう。どこから入ろうとも、必ず十分も歩けば入口へと戻ってしまう。どんな手段を使っても、森の奥に足を踏み入れることはできなくなっていた。

 森が人を拒んでいる。

 研究者の一人が、小難しい説明を織り交ぜながらテレビで力説する。そんな論議番組が最近の話題となっていた。

 生きて現実へと戻ってきた人間は誰も、森での出来事を話さなかった。

 森の中の様子も生活も。どれだけの人間がいたか、死んだか。誰一人として頑なに口を閉じ、語ろうとはしなかった。大金を積むと言われても権威をチラつかせても、ついに首を縦に振るものは現れなかった。

 実際に体験した人間にしか分らない、恐怖。

 想像での口論しか出来ない事件が騒がれるのも、そう長くは続かなかった。次第にニュースから森の話は少なくなり、特別番組はなくなった。噂すら、薄れていった。

 普通の暮らしだけを知っている人間は、人食いの森の事件をすぐに過去のものとした。

 それでも、人食いの森は相変わらず人食いの森と呼ばれている。人を飲み込んでいた事実はなくなるものではない。また同じようなことが起こらないようにと、森の名前は変えられなかった。

 今でも、興味本位で森へ入ろうとする者は後を断たない。どうせ飲み込まれないのならばと、逆に進入するものが増えたほどだ。

 しかし、森に入ったものは決まって同じ目に合う。

顔を蒼白にして転げるように森から戻った人間たちは、揃えてこう言うのだ。


 森の奥から、少年と少女の楽しげな笑い声と、楽しげな歌が聞こえくる、と。





 人食いの森に遊びにおいで

 みんな、あなたを歓迎するよ

 きっと、ここを気に入るよ

 帰りたくなくなるくらい

 

 とっても、楽しいところだよ

 


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