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第八章

森が焼ける。

トワが焼ける。

全てが姿を現し、そして、終わりが見えた。

     8


 来るなと拒むような熱風の中を踠き、進む。汗がだらだらと流れ、息を吸う度に喉へ熱が流れ込む。呼吸が上手くできない。それでも、後ろを押してくれる力のおかげで身体は前へ進んだ。

 風が止んだ時、祐樹の足も止まった。

 この森で一番の光を集める場所。本来のトワが佇んでいる森の中心に到着した。

 そこには綺麗な緑がなくなっていた。あるのは夕日のような、それでも毒々しい、赤。燃えさかる、真紅だった。

「ははは! 燃えろ燃えろ!」

 煙火の中に一人の人間がいた。

 祐樹と同じほどの体格を持つ少年は、祐樹がこの森で兄とトワ意外に顔を覚えている、唯一の人間だった。

 父親を失った哀れな少年が、そこにはいた。

 しかし、泣き顔はあの時と重ならない。充血した瞳にこびり付いた隈。薄汚い服には血が目立っている。目は、完全に正気を失っていた。

 何より違うのは、少年の左腕がなくなっていることだった。

 健在する手には、腕と同じほどの太さを持つ火の付いた枝があった。先端には火事の元凶が、灯っていた。

 少年は涙を流し、笑っていた。狂ったように声を上げ燃えろと嘲け笑う。父親を想い、悲しんでいた少年とは別人だった。

 だらだらと腕から流れていく血が服を汚し続ける。火が、草を、木を、燃やしていく。少年の足元に転がっていた錆び付いたライターが、小さな暴発を起こした。

「いたい、いたいいたいっ!」

 蹲るトワ。火を大きくしていく自身に近づく前に、力尽きてしまっている。大樹が燃えていくに合わせて、綺麗な緑の髪が毛先から順に赤くなり、臙脂のような色となっていく。

「トワ!」

 叫ぶようにトワを呼ぶが、火炎が祐樹の声を掻き消す。走り寄ろうとする身体すら、火気に押し負ける。

「燃えてる……子どもが、死んでくっ……いたい、いたい!」

 痛みに狂いながらも、トワが心配するのは子ども達だった。小さな手が草を叩き、火を消そうと力を発動する。

 緑の光がトワを包み、火を押していく。髪が短くなる。身体が、小さくなる。顔が、幼くなっていく。

 しかし、炎は、トワの力の上をいっていた。

「あ、あ、あ」

 紅は広がっていく一方だ。トワの放った光は一瞬にして炎に掻き消され、飲み込まれた。

「ひどい、ひどい、ひどいっ!」

 トワの顔が絶望の色に染まる。

 その反面で、瞳には悪の色が満ちていく。

「お前、いらない! しんじゃえ!」

 涙を拭ったトワの瞳が怪しく光った。身体が炎の形をした緑に輝き、肩まで短くなった髪がショートになる。

「う、うわぁああ!」

 地面が揺れた。いや、割れた。

 ゴゴゴと唸りながら地が避けていく。亀裂は少年の足元に入り、細い身体を吸い込んだ。

「う、わぁ! やめろぉ! くそ! やられる、もんかっ!」

 だが、少年も抵抗する。持っていた木の枝を捨て、土を引っ掻いて、足で土壁を蹴り、身体を割れ目から引き抜こうとする。放り出された木の枝は、肌色の腕になった。

 しかし、トワの怒りが、少年の抵抗を揉み消す。

 火を付けた少年に燃焼していく蔦が絡まる。土の中から現れた根が首に巻き付く。黒くなった葉が少年の双眸、耳、口の中に入り込む。視覚、聴覚、呼吸を奪い、焼け爛れていく自然が、少年を追い込む。

「アアアアァアァッァァアアアアアアア!」

 少年の身体はみるみるうちに祐樹から見えなくなった。怨みがましく唸る地面が、亀裂が、閉じた。


 グシャリ。


 火の音に混じり、潰れた音がした。少年の叫喚が響き、やがて、聞こえなくなった。

「トワ! トワ、落ち着いて!」

 焼き焦げた木が祐樹の目の前に倒れ、高い壁を作っていた火を潰した。祐樹は既に灰に近い木に感謝しながら、それを飛び越える。

 一度だけ、視線が地面の亀裂に落ちた。だが、硬く口を閉じた地面の怒りを感じ、祐樹はそっと目を逸した。

「トワ!」

 肌が焼けるような暑さを感じながらもトワの前に立つ。トワの身体に触れれば、指がジュウと焼け赤くなった。思わず手を離してしまう。

「いたい、いたいよ……」

 祐樹を目に入れたトワは、水を掛けられたように気迫を萎めていった。

 肌は、すっかり赤一色になっていた。血管が浮き出ているように凹凸が目立つ。奇麗だった髪はチリジリとなり、項がよく見えるほどだった。赤い顔も、泣きはらした瞳も、元のトワの面影をなくしていた。

 火傷をした祐樹の指よりも、トワの方が痛いに決まっている。

「ゆーきぃ……」

 水分を一杯に溜めた瞳が、祐樹だけを映して揺らいでいる。祐樹の目の前にいるのは森を守る妖精でも、人間に化物と呼ばれるものでもない。

「たすけてっ……!」

 一人のか弱い女の子である、トワだった。

「俺が、助ける……だから、待ってて!」

 トワがどんな姿になろうと祐樹の心は変わらなかった。トワを守る。その思いが祐樹を突き動かす。

「あり、がと」

 トワは掠れた咳を出しつつも、力ない指をある方向に伸ばした。指示されたのは、赤くなった大樹。祐樹はトワに待っててとだけ告げ、服を脱ぎながら走った。

 火元に近づけば、毛穴という毛穴から発汗を始めた。喉から鼻から、穴という穴から水分が出ていく。

「こ、のっ!」

 睫毛に乗った汗を腕で拭い、祐樹は脱いだばかりの服を燃え盛る木にぶつける。火の粉が舞い、祐樹を襲う。

 ここに水はない。他に火を消す方法など、分からない。テレビで見たことのある消火作業を、祐樹は必死に繰り返した。

「くそっ! 消えない……!」

 服はすぐに使い物にならなくなってしまった。当然のように火は消えない。

 あっという間に火傷だらけになった腕に爪を立てながら、祐樹は赤の塊となってしまった服を踏み、その火だけは何とか消し止めた。

 高い、火柱を見上げる。

 切り株となり、トワがいない間は死んでいる大樹。水気のない木は轟々と燃えている。祐樹が足掻いた所でどうもならない。本当は初めから、分かっていたことだった。

 トワが燃えていく。それを、祐樹は歯を食いしばり、見ていることしか出来ない。

「うわっ!」

 祐樹の涙で滲んだ視界が、光った。驚いた祐樹が、後ろに飛び退く。光は、祐樹のすぐ足元にあった。

 木の根元が青く光っていた。一瞬にして、火までもが水色に変わる。空も、黒みがかった青になっていた。

 火は消えていない。それでも、熱さは消えていた。

 

 ――ポワン

 

 地面から円形が現れた。シャボン玉のように半透明で、それでも、大きな丸だ。

 うっすらと青みがかるその中には、人間が入っていた。肩に掛かる薄い茶の髪がふわふわと宙に浮くシャボン玉に合わせて揺れている。薄い青のシャツも、黒のパンツも、祐樹たちのようにボロボロではない。その服にはまだ、現実への色が濃く見えていた。

 名も分らないその人間は、折り曲げた足を腕で抱え、身体を丸くするようにして円の中に収まっていた。森の惨劇などまるで知らないと、心地良さそうな綺麗な寝顔だ。

 謎の球体は一つではない。一つ、二つと、地面の中から現れ、ぷかぷかと空中に浮かんでいく。少女から青年、成熟した大人まで、人は様々だ。どの人間も安らかに眠っている。

「すごい……」

 キラキラと光るような美しい光景に、祐樹は今の状況も忘れて呟いていた。

「貴沙良!」

 そんな祐樹の言葉を遮るように、大声が響いた。

 祐樹が後ろを向けば、先程まではいなかった叢に人が溢れ返っていた。騒ぎを聞きつけて、森にいる全員が集まってきたらしい。

 人混みの前列には楡一がいた。相変わらず青い顔をしていたが、瞳だけは希望を見つけたように輝いていた。

「貴沙良ッ!」

 楡一は同じ名前を叫びながら、祐樹の隣を通り過ぎた。足は一直線に、一番初めに浮かんできた青い玉、青年に向かっていく。

 その中にいるのが、楡一が消えたと言っていた貴沙良なのだと、祐樹は悟った。

「だめぇっ!」

 トワの一声で木の枝が伸びた。楡一を憚るように、火を灯す枝がシャボン玉を囲む。

 火の色が真紅に戻った。

 大樹が炎上する。木々が、草花が、燃える。熱も戻った。神秘的な色になっていた空は黒と赤のコントラストに飲み込まれ、現実を表す。

 浮いている丸だけが、静かな青を持っていた。

「みんな、とわの! とわのなの! だれにもあげない! 渡さない!」

 激高するトワは息を荒くしながらも立ち上がる。弱っている身体。だが、眼光だけは強く、我を失っている楡一さえ静止させた。


 ――パチン――


 荒く、風が吹いた時だった。

 一つの楕円に炎が付き、割れた。雫のような破片が、散る前に炎に焼き消されていく。割れたのは、一番青が薄いものだった。

「う、うう……」

 どさりと、地面に人間が落ちた。短い黒髪、見た目は三十歳前後の、ツナギを着た背の高い男だった。

 安らかだった表情を崩し、腰を打ち付けた痛みに呻きながらも、男は瞼を開く。 何度か瞬いた黒の瞳は導かれるように、一番にトワに向いた。

永久(とわ)……」

 そして男は、何の迷いもなくトワを呼んだ。永久は固まったまま、怒りを恐怖に変えて、震えていた。

 ボロボロと、シャボンを守っていた枝が死んでいく。火の粉が付き、ぱちん、ぱちんと音を立て、浮いていた青の丸が薄い色順に割れていく。

 魔法が、解けていく。

「よ、う……」

 永久が、男を呼んだ。祐樹の耳に残っている名前だった。

「本当に……永久、なんだな……」

 男、要が立ち上がる。だが、地面に付いた足はすぐに崩れてしまった。それでも次は立ち膝になってから、立つ。また倒れそうになる足を両腕でバランスを取りながら、真剣な顔で一歩、要が前に進む。

 要が永久に近づいていく。威圧が、周りの火を避けさせている。

 永久は動かない。棒立ちとなり、指の先すら固めて要を見つめている。来て欲しい、来て欲しくない。そんな感情がせめぎ合っているのが、トワの表情に垣間見える。

「永久」

 後十歩で二人の距離が消える。要の手がトワに伸される。

 だが、二人の接触を阻むように、自然が牙を剥いた。

「あっ!」

 火で覆われた束になった葉が、要に向って一直線に落ちていく。遠目で二人を眺めていた祐樹だけが、それに気付いた。

 祐樹が声を出したと同時に、二人も降ってくる火の玉の存在を知った。だが、遅かった。

 火はもう、要の目の前だった。

「だめっ!」

 たっと、永久が飛んだ。小さな手が要を押す。要の身体が、傾ぐ。

 しかし、その反動を利用して、要は永久の身体を腕の中に包み込んだ。息を飲んだトワを見つめながら、要はふっと笑みを零した。

 それは、一瞬の出来事だった。

「ぐ、あ……!」

 大した音も立てず、火の玉は要の頭に直撃した。悲鳴を上げた永久のおかげが、すぐに火は要から消えた。

 それでも手酷い攻撃を食らった要は、倒れた。立っていられないほどの手傷を負ったというのに、要は永久を大切そうに、しっかりと抱いたまま、離さなかった。

「永久……」

 熱くなっている地面に背を付けた要が、永久を呼ぶ。その表情は、どこまでも慈愛に満ちていて。永久は混乱を張り付かせたまま、身体を起こす。

「なんで、なんで……要、とわを助けるの? そんなに、とわの身体がほしいの? まだほしいの!」

 要の腹に跨り、首根っこを掴んで、永久は要の身体を揺さぶる。腕に軽々と抱き抱えられるまでに小さくなった永久の力など知れている。それでも、ぐったりとしている要には強烈だろう。

 慌てて、祐樹は止めに入ろうと二人に駆け寄った。

「お前を、守りたかっただけなんだ……今も、昔も……」

 祐樹が二人の間に入る前に、要が口を開いた。

 ぴたりと、永久の手が止まる。

「この森は平地にして、人間が住む土地にされる、計画が立てられていた。私には、止められなかった。だから、せめて永久だけは、違う場所へ、移そうと……」

 荒い咳で、言葉が止められる。永久は要から手を離し、口を開けた。声は出ず、酸素も吸えないまま喉を痙攣させる。

「要さんは、永久を助ける為に、永久を……」

「そんなっ……!」

 永久の変わりに、二人の横に立つ祐樹が言う。永久は瞬きを増やしながら、だらりと項垂れた腕を要の胸に置く。手の甲に刺さっている指先が、白かった。

「うそ! うそうそ! だって、子どもたちに火をつけたのだって、要の仲間だった! とわを切った! 火だってとわに回って、とわは……っ」

「予想外、だったんだ……仲間が、裏切った。仲間が、永久の近くに、火を放ったんだ……」

 記憶があるのか、永久が口を閉ざす。

「仲間との計画で、森を燃やしている間に、お前をこの地から引き離す予定だった。その機械も、既に準備が出来ていた。だが、仲間は裏切った。永久のことが面倒くさくなったのか、お前も一緒に燃やしてしまおうと言って、火を……」

 要が咳き込む。口から緑色の光が吐き出された。外に出た光は黒ずみ、消えていった。

「何で、永久の子どもに火をっ! 永久を切ったりしなければ、永久があなたを疑うことだって、なかったかもしれないのに!」

 今まで黙っていた祐樹が耐えきれずに口を挟む。要が初めて、祐樹を見た。

 力の強い色をした瞳だった。要は祐樹に会釈するように口元に孤を描いたが、咳き込み、視線は外れた。

「せめて、私の手で……終らせたかったんだ……この森を、永久が守っていた、優しく綺麗な、世界を。だが結局、私は永久すら助けられずに、殺しかけた……」

 要は再び永久を見た。戸惑う永久を見つめる要の視線は、祐樹と似ているものがあった。

「お前が、人間になった瞬間を、私は、覚えている……私は、計画が駄目だと悟った瞬間に、永久の元に、走った。そして、見たんだ……火に包まれそうになる、お前を、森が守っていた……私は持っていた斧で、お前をこの地から、切り離そうとした。無理だと分かっていたが……それでも、何もせずには、いられなかった……お前に、斧を立てた。その瞬間、お前は、光り……」

 永久が嫌だ、聞きたくないと首を振る。それでも要は口を開く。地面に落ちた力のない腕が何かを求めるように浮き上がる。

「人の形になった……お前は、物凄い形相をして激怒しながら、泣いていた……私が、泣かせた……」

 痙攣する掌が、永久に触れた。

「すまない、永久……助けるのが、こんなにも、遅く、なった……」

「よ、お」

 指が優しく、優しく、永久の火のように赤い頬を撫でる。焼ける音がし、要の指が赤く爛れていく。それでも要は永久に、愛惜しく触れ続ける。

「昔も、そして、今も……不甲斐ない男で、ごめんよ、永久……」

 要の身体が光始めた。永久に触れる指先から順に、半透明になっていく。

「好きだよ、永久。幸せになってくれ」

 最後の力を振り絞るように、要ははっきりとした愛を永久に告げた。永久は言葉を嗚咽に変えながら、静かに頷いて見せた。涙は、鉄板のようになっている永久の頬に触れ、蒸発していった。

 指先が消えた。足が、腹が、首が、頭が、薄れていく。見えなくなる。

「次は、君が」

 要は中心のない首で、横を向いた。細めた瞳が祐樹を見る。その瞳ですらもう、色を消していた。それでも、暖かさだけは消えていない。

「永久……を……」

 守るんだ。

 口が、確かにそう告げた、その瞬間。


 パン!


 要の身体が、爆ぜた。

 人間の形が、要の姿が、黄緑色の粉になった。キラキラと光る粉は熱風を少しでも押さえようとするように、火の中に飛んでいく。要であった光は火の中に溶け、 何も、なくなった。

 儚い、終わりだった。

「永久……」

 一本の木が、火に耐えられなくなって倒れた。足元が揺れる。俯いていた永久が、顔を上げる。

「要……寿命なんて、とっくにすぎてたの……とわが、とわが……閉じ込めて、だから」

 死んでしまった木を気にしながらも、永久は、要を想い泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさいと、小さな謝罪が涙と共に零される。綺麗な雫は頬に触れる度に蒸気になり、頬を冷まさせてはくれない。

 永久が泣いている。それでも、要と永久の愛の深さを見せつけられた祐樹は、足を進められなかった。

 だが、

『永久を、守るんだ』

 要の言葉が、祐樹を奮い立たせる。要はもういない。永久を命懸けで守った男は死んだのだ。

 永久にはもう、祐樹しかいない。

「永久」

 足が前に出る。腕が痛むほど前へ伸びる。そして、掴んだ。


 祐樹は全てを決意し、全てを捨てた。


「祐、樹」

 弱々しい声が、祐樹を呼んだ。祐樹は迷いなく、細く小さな身体を抱きしめた。

「俺が、守るよ……これからはずっと、俺が永久を守る。悪いことをする人間が入ってきたら、俺が助けてあげる」

 永久の熱い身体で、触れた部分から祐樹の肌も火傷を負った。ツンとした、肉の焼ける臭いがする。

 しかし不思議と、祐樹は痛みを感じなかった。

「俺が、ずっと永久と一緒にいる」

 永久が震えた。顔が見えなくとも、祐樹は今、永久がどんな表情をしているか、心で知ることができた。

 それほどまでに、二人は深く、繋がっていた。

「うわぁああ!」

 耳が避けるような音が鳴った。恐怖に戦く人の悲鳴。木が倒れていく。一本、また一本と生を失う。

 草は枯れ、花は散り。もう、美しい緑の気配はどこにもなかった。

「祐樹逃げるぞ! もう、ここは駄目だ! せめて安全な場所に逃げるんだ!」

 いつの間にか、永久を守るものも朽ち果てていた。黒焦げとなった根っこの間から、汗だくの楡一が顔を出す。背にはぐったりとしている貴沙良が乗っていた。

「何やってる祐樹! 振り払って、早くこっちにこい!」

 永久を抱きしめている祐樹を見て、楡一はぎょっと目を剥いていた。その表情があまりにも可笑しく、祐樹は今の状況など知らぬふりをして微笑んでしまう。

 混乱している人間たちが次々と、まだ黒さを残す森の中へと逃げていく。皆、顔に浮かべているのは畏怖だった。

 その中で唯一、祐樹だけが穏やかだった。

「兄さん、逃げて。今ならきっと、外に出られるよ」

「何言ってんだ! お前も一緒に……」

 永久の髪に指を通しながら、祐樹は真っ直ぐに楡一を見た。

「兄さん」

 煩い森の中で、祐樹の声は凛として楡一に届く。聞いたことのないような落ち着いた弟の声に、楡一の表情が変わる。

「兄さんは、皆を連れて早く出て。俺は永久と一緒にいるよ。ここに残る」

 はっきりとした、拒否。祐樹は動かないことを示すように首を振る。

 大人のような祐樹の眼差しに、楡一は声を忘れる。

「祐樹、お前……」

「楡一、逃げよう」

 ふわりと、楡一の背が軽くなる。驚いて楡一が後ろを向けば、地面に足をつけた貴沙良と目が合った。

「貴沙良!」

「行こう」

 目を覚ましたばかりの貴沙良は、ふらついていた。永久を思わせる病的な肌色に、細い呼吸。明らかに、歩けるような状態ではない。

 それでも細く、白い指で楡一の腕掴み、引く。

「逃げないと、危ない、から……早く……」

「でも、まだ祐樹が!」

 一度は離れた視線が、祐樹に戻る。祐樹はもう、楡一を見てはいなかった。視線は真っ直ぐに永久に向いている。

「行って、兄さん!」

 声だけが楡一に刺さる。その鋭さが、祐樹の覚悟を物語っていた。だが、どれだけ強い言葉を当てられようが楡一の心は変わらない。

「お前を、置いていける訳がねぇだろうが! 祐樹!」

「だめ……お願い、楡一……」

「離せ、貴沙良! 祐樹を連れてくる!」

「無理だよ……しん、じゃう」

 火の中に走り出そうとする祐樹を、貴沙良の弱い力が止める。不調である楡一は細腕の力にでさえ叶わない。

 いや、振り払おうと思えば、出来た。だが、泣きそうな貴沙良の顔が、楡一の足を重くする。

「楡一が死んだら、僕……っ」

 涙で光る瞳が、楡一に一瞬の躊躇を見せた。それを横目で見た祐樹は、小さく、安堵の息を吐いた。

「さよなら、兄さん」

 その言葉に従うように、追い打ちをかけるように。祐樹と永久の周りの火が強くなった。


 ――ボウ!


 火の柱が上がった。地と空を繋げるように真っ直ぐに伸びた火柱が、祐樹とトワ、そして楡一と貴沙良の世界を、隔てた。

「祐樹! ゆうきぃッ!」

 それを最後に、楡一の声は祐樹の耳に届かなくなった。




 祐樹の視界は、漆黒に染まっていた。いつの間にか匂いが消え、熱風も感じなくなっていた。火の気配は微塵もなかった。

 黒の中で、相変わらず二人は抱き合っていた。周りは酷く冷たかった。トワと触れる肌だけが暖かく、トワだけが、綺麗な緑の光を帯びていた。

「祐樹……お兄さんより、とわを選んでくれたの?」

「うん」

 ここはどこか。それすら考えず、祐樹は永久の背を撫でる。そこには、柔らかな体温だけが存在していた。

「とわと、一緒にいてくれるの?」

 祐樹は言葉など出さず、優しい微笑で頷く。もうどんなことがあろうと、決意は揺るがない。

「うれしい……とわ、もうさみしくない……とわ、祐樹をしんじる……」

 顔を上げた永久が、光った。緑ではなく、白の穢れない光に。

 髪が伸びる。肌に這い回っていた蚯蚓脹れや亀裂が消えていく。永久の姿が、戻っていく。

 可愛い笑顔が、祐樹に「すき」と告げた。艶やかさを取り戻した唇は、祐樹の開いた口を塞ぐようにキスをする。

 柔らかく、蕩ける様な甘美な唇の熱から伝わる。これからどうしたいのか。どうなるのか。永久の心が、祐樹に入り込んでくる。

 不思議と、祐樹に不安はなかった。声のない思いに答えるように、息を吸うために離れた唇に、今度は祐樹からキスを送る。

 その甘さに、二人は酔いしれた。

「一緒に、いこう……永久」

「うん」


 二人は手を取り、そして……


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