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第七章

伸びない髪。生えない髭。年を取らない、顔。

そんな偽りの世界で見つけた幸せなど、長続きはしない。

いつかはひび割れ、壊れてしまう。

       7


 時を刻みつけていた線は、泉を一周囲ってしまった。それでも、祐樹の幼い面持ちは大人にならず、髪は伸びない。

 数年、いや、何十年は経った。それは気のせいか、はたまた現実か、祐樹には分からない。分かる人間などここにはいない。

 身体は成長しない。しかし心は日々、育っていた。

 祐樹のトワに対する思いは変わっていた。トワへの感情が、異性に対して燈る愛情だと、知ったのだ。

 祐樹は益々、トワとの距離を縮めていた。

 恋は、愛に変わっていた。


 一日が終っていく。

 漆黒になった、空の見えない天を見上げ、祐樹は歩く。足を進める度にさく、さくりと短い赤い草が音を立てる。ぽつ、ぽつと、花に光が付いていく。

 兄が帰る小屋まではまだ遠い。早く帰ろうと思えば思うほど、足は中々前に進まない。節々が痛み、足腰、手首までもが、休ませてくれと悲鳴をあげている。

 今日は朝から、祐樹はトワと木登りに興じていた。

 ただの木登りならば良かったのだが、登る木の大きさが問題だった。祐樹を何十人組み立てても適わないような高さのある大樹に二人は登っていたのだ。

 太い枝に足を掛け、幹の間に指を入れて上へよじ登る。そんな正統な木登りではない。

 持つものは、蔦。命綱の代わりも蔦で、太い緑が腰に絡まる。身体は地面に背を向ける形となり、足の裏は幹に密着する。重力を無視して、地とは九十度の関係にある太い幹を道のように歩くのだ。

 トワは当然のように何も持たず、蔦も巻かず、軽々と幹を歩くことが出来る。進みの遅い祐樹の周りをくるくる走り回り、時折跳躍した。人間で出来ないことを、まざまざと祐樹に見せつけていた。本人に、そんな意思は毛頭ないのだが。

 ここに来てから祐樹は体力も付き、筋肉も出来てきた。一日中走り回っていようが、睡眠を取れば次の日には全回復できてしまう。

 だが、蔦を力一杯握り締め、地面と垂直な状態を何時間も保たなければならないという特殊な状況に置かれれば話は別だった。体力は勿論のこと、登れば登るほど地と離れていく恐怖に、精神面も削られた。

 トワの気が済み、地面に降り立つことが出来た瞬間、祐樹の足腰、手、指は、痺れたように動かなくなってしまった。

「もー、祐樹は体力ないんだから!」

 疲労しきり、気力さえ底を付いた祐樹に、トワは笑いながらそう言った。そして、見かねたトワは今日の目的であった茸――木の上に生えるという珍しい青の茸だ――を全て祐樹にくれたのだ。

「見た目は、危ないけどなぁ」

 祐樹は、手の中にある三本の茸を見る。

 形は普通の茸だが、色は絵具で塗ったように真っ青だ。所々に赤と白の斑点模様があり、どんなに空腹でも手を伸ばすような代物ではなかった。

 だが、トワが言うには生で食べられ、栄養が豊富、疲れも吹き飛ぶ優れものらしい。滅多に生らないものを、特別に祐樹へ持たせてくれたのだ。

「兄さん、食べてくれるかな」

 一つをつまみ上げ、花の灯りを頼りに掲げてみる。ヒダにさえ不気味な形の斑があった。柔らかな光に照らされても、やはり口に入れたくなるような色ではない。

 兄が見たらどんな反応をするだろう。そんなことを考えながら歩いていれば、小屋はもう目の前となっていた。

「あ!」

 足音が聞こえた。ザ、ザッと、大勢の人間が列を成して歩いてくる音だ。その中に楡一の姿があった。

 祐樹は落とさないように茸を握り、体中が痛いことも忘れて走り出す。

「兄さん! おかえり!」

 声が響き、大勢の中の一人の背中が止まる。薄い赤シャツの楡一が、振り返る。

「ただいま」

 そう言った楡一の声は足音に掻き消された。帰ってきた挨拶は、聞き取れないほど弱弱しいものだった。

 楡一の顔は、遠目で見ても分かるほどに白かった。唇の色も悪く、身体は震えている。指がびく、びくりと、痙攣を起こしている。今にも、倒れそうだった。

 一瞬にして、祐樹の喉から水分が引いた。

「兄さん……どう、したの……」

「ん? 別に、何もないぞ」

 青い顔で楡一が微笑む。そこで楡一の肩に、誰かの肩がぶつかった。楡一の身体が大きく揺れる。

「あ……」

 楡一の喉から、吐息のような声が漏れた。身体のバランスを保とうと前に出た足が、ガクリと力を失う。楡一の身体が、前のめりとなった。

「兄さん!」

 祐樹がそう叫んだと同時に、楡一は草の上に倒れていた。今まで何とか立っていた身体が限界を迎えたのだ。

 人は楡一の身体を避け、小屋の中へと入っていく。相当疲れているのか、誰一人として見向きもしない。

「兄さん! しっかりして、兄さん!」

 祐樹だけが楡一に駆け寄る。楡一を踏みそうになる足を払い、蹴飛ばし、倒れた身体を守る。

「大丈夫……まだ、大丈夫だ……眠い、だけ」

 掠れた声で、楡一は譫言のように呟く。虚ろな瞳が閉じていく。

 昨日の夜、楡一は眠いからとあまり食事を取らなかった。眠気が勝り、食事が少なくなることは稀だったが、何回かはあった。十分な睡眠を取れば回復し、次の日には笑顔を見せて仕事に出掛ける。

 今朝、楡一の口数は多かった。多過ぎた。それが無理をしていたのだと、今更気が付いた。祐樹は過信していた自分に絶望する。

「兄さん……どうしよう、俺、どうすれば……」

 動揺する祐樹は瞳に涙を溜め、楡一の身体を抱き締める。何か行動を起こさなくては、どうにかしなくてはと思いつつ、上手く頭が回らない。

 楡一の身体は燃えるように熱かった。額に触れれば、顔色とは裏腹に、掌が焦げそうなほどの熱を持っている。息すら、上がり始めていた。

「悪い……ここで、寝る……」

 楡一は瞳を閉じたまま動かない。何もない地面の上で眠る気でいる。

 暖かい日ならばともかく、最近は肌寒い。夜になれば冷たさも増す。普段外で眠っている人々も、最近では小屋にみを寄せ合って眠っているのだ。こんな所で眠れば、体調は悪化の一登を辿るだろう。

「眠い……」

 だが、不調を訴えている楡一の眠りを妨げるのは憚られた。祐樹は起こすことも運ぶことも諦め、自分の汚れたシャツを脱いだ。それを、楡一の上に被せる。

 そこで、祐樹は持っていた茸の存在を思い出した。

「待って、寝ないで! これだけでも食べて!」

 眠るだけではいけない。少しでも栄養を入れなければと、祐樹は茸を千切る。嗅いだこともない強い刺激臭に、頭がくらりとした。

「ほら、口開けて、兄さん!」

「ん……」

 薄く開いている楡一の口に無理やり欠片を押し込める。意識が既に飛びかけている楡一は、噛む気力すら残っていない。

「噛んで、兄さん! トワがくれたものなんだ! 絶対、身体にいいから!」

 トワという名前に、楡一が反応する。ゆっくりと口が動き始めた。

 しかし、それも一瞬だった。楡一は目を閉じたまま顔を顰め、小さく咳き込む。そして、茸を舌で押し返し外へと出してしまった。

「兄さん! 食べないと駄目だって!」

 吐き出された茸を何度口に入れようが、結果は同じだった。

 水で流し込むにしても、葉に溜めた飲み水は小屋の中だ。取りに行ったとしても、とっくに飲み干されているだろう。川辺も近いといっても五分は掛かる。

 どちらにしろ、一瞬でも目を離せば楡一は眠ってしまう。一度完全に眠ってしまえば起こすことは難しい。

「待って、寝ないで、もう少しだけ」

 祐樹は楡一の頬を叩き、思案する。そして、案を思いついたと同時に、茸を自分の口に含んだ。

 舌に茸が触れた途端、苦味が広がった。酸味にどこか唐辛子のような辛さもある。嗚咽しながらも祐樹はそれを咀嚼する。

「兄さん、口、開けて」

 十分に柔らかくなったのを舌で確認してから、祐樹は楡一の唇に、自分の唇を押し当てた。

「ん……」

 舌を使い、楡一の口にどろりとした半固形を流し込む。祐樹から逃れようと初めは首を振っていた楡一だったが、数分もすれば諦めたように喉を鳴らし、茸の一部を飲み込んだ。

 何度も嘔吐きながら、祐樹は口移しを続けた。三回目から楡一の抵抗はなくなり、茸は順調に楡一の胃の中へ治まっていった。

 そして、祐樹の舌が痺れ、茸を口に入れられなくなった頃。見計らったかのように楡一が完全に力尽きた。

 顔色に、少しだけだが人間らしい色が戻っていた。呼吸も正常で、寝顔に苦しげな様子もない。

「兄さん……」

 額に浮かぶ汗を拭い、祐樹は安堵する。だが、栄養が豊富だとはいえ、結局茸一つしか食べられていない。普段の摂取量を知っている祐樹としては心配を拭えない。

 しかし、考えていても何も解決しない。兄を少しでも休ませられる環境を作ろうと祐樹は立ち上がり、小屋へ向かった。

 犇き合う人を踏まないようにしながら、余っている藁と葉を掻き集める。途中、苦い唾を涙目になりながら飲み込んだ。唾の音が耳を痛くするほど響いた。

 喉が焼けるように熱を持ち、身体が発汗する。その代わりに、あれだけ重かった身体は軽くなり、疲れが嘘のように消えていった。

 祐樹以上に食べた楡一は、それ以上の効果を齎している。それでも就眠している楡一は、祐樹が経験したこともないほどの疲弊を溜めていたのだ。

 これでは、いつ木になるか分からない。

 祐樹は水や、持てるだけの防寒具を持ち、素早く楡一の傍へと戻った。自分の足を枕代わりにし、楡一の髪を、顔を撫でる。

 吐き出される息が、心臓の鼓動が、いつもより少しだけ高くなった体温が、楡一が生きていると教えてくれる。逆に、その生の証を感じていなければ、安心できない。

 その日、祐樹が瞬き以外で目を閉じることは、なかった。


 夜とそう区別が付かない朝が来た。

 森は普段よりも一層、暗かった。風が肌を切るように冷たい。木々が、花々が、静かだった。朝に優しく囁く鳥の声はなく、虫や動物は祐樹を避けるように姿を見せない。

 祐樹の周りだけが冬のようだった。

「トワ……兄さんが、病気かもしれないんだ……」

 挨拶よりも早く、祐樹は後ろに現れた気配に話を切り出した。

「そっか」

 トワはすぐに返事をした。だが、声は興味がないと主張し、覇気すら感じられないものだった。

 祐樹が振り返る。芝生の上には音もなく現れた、汚れない白を纏うトワがいた。しかし、日常だと疑わないほど見る笑顔は、ない。トワは口を尖らせながら、地面に落ちている石を積み上げて遊んでいた。

「トワ」

 祐樹が名前を呼んでも、答えない。挨拶を交わそうという気もないのか、目も合わせなかった。手元は石を積み上げているが、表情に楽しさはない。

 話を聞きたくない。それを、言葉に出さずに祐樹へ伝えていた。

 トワの態度が、祐樹の意思を削いでいく。それでも、祐樹は言わなければならなかった。

 太陽が登り途中であろう、早朝。

 楡一は重い身体を引き摺り、祐樹の肩を借りながら、仕事場へと出向いた。夜よりも顔色は良くなり「茸、すげぇ味だぞ」と他愛もない会話も交わした。祐樹の目の下にある隈を心配してくれた。

 朝食に楡一は自分から茸を食べた。夜のように祐樹が食べさせずとも、不味さと格闘しながらも一人で食べきった。

 残りの茸は、一つ。祐樹は葉に包み、大事にポケットへしまっている茸に目を向ける。これがなくなれば、楡一がどうなってしまうか。祐樹は最悪の展開しか、想像出来ない。

 祐樹はギリと奥歯を鳴らし、弱い自分を噛み殺した。

「頼むよ、トワ。病気が治る間だけでもいい。兄さんの仕事を、休ませてあげて欲しいんだ。その間は、俺が兄さんの代わりをするから、お願いだよ」

「だめ」

 震えた声は、トワの冷たい声に一刀両断された。

「祐樹は、とわと一緒にいなきゃだめ。だからお仕事をさせないし、祐樹のおにいさんのかわりはだめ。だから、おにいさんを休ませるのも、できない」

 五つまで積み上がった石が、崩れる。トワは散らばる石を集め、再び積み上げ始めた。

 話を取り合うつもりはない。折れてしまいそうな指先すら、そんな空気を醸しだしていた。

「でも!」

 普段なら、祐樹はここですごすごと引き下がっていただろう。だが、今日は違う。

 譲れない。祐樹は大きく息を吸いながら、トワに近づいた。

「でもでも、だってでも、だめ」

 石が破裂した。トワの手の中で、粉々の砂に姿を変えた。

 トワが顔を上げた。ようやく祐樹とかち合った大きな瞳は、氷のようだった。祐樹の足は、蔦が絡まったかのように動けなくなる。

 ざわりと、木々がざわめき始める。開いていた花が閉じ、風が荒れた音を出す。凶暴な獣のような茶の双眸に、祐樹の肌が泡立った。

「祐樹まで、とわを裏切るの?」

 細い身体がゆらりと立ち上がる。冷たい炎が、瞳に宿っていた。長い髪が風に連れて行かれそうなほどばさばさと靡く。

「みんな、そう。みんなそう言って、とわから離れていく!」

 ヒュウと、風が吹いた。トワが息を吸った音と、重なった。静だった声がトワの手に握られる石のように爆発した。

「要だって、貴沙良だって! みんな、みーんな、とわを裏切る! はじめはトワと仲良くしてくれるのに、木になるって知ったり、木のまま戻らなくなるのを知ったり、ここの飽きたりすると、変わる! おかしくなっちゃう! とわを怪物あつかいして、怖がって、離れる! にげる! とわを怒鳴って、けなして、ひどい! とわは、なにも悪くないのに!  とわは嫌われる! 悪いのは、人間なのにっ! とわは……!」

 右足で地響きを呼ぶように草を踏み、捥げてしまいそうなほど頭を振り、酸素も吸わずにトワは叫ぶ。息切れをしているトワを、祐樹は初めて目の当たりにした。

 長いセリフを言い切ったトワは、しばらく荒い呼吸を繰り返した。小さな口から吐き出される息と、風が同調する。荒れ狂う風が祐樹の鼻から、喉から、口内から、水分を奪っていく。

 トワの肩が落ち着いても、二人は固まったままだった。

 トワの血走った眼は、綺麗な色に戻っていない。俯き気味の顔は黒く影を帯びている。風に身を任せている髪の揺れが、トワの感情を見せつけている。祐樹は、動けなかった。

 口だけが、トワから溢れ出す空気を、裂いた。

「俺は、トワが好きだよ。怖いと思わないし、離れるなんて言わない」

 祐樹が初めて出した、感情を伝える言葉。祐樹の足を刺していた草の攻撃が、止んだ。

 怒気に包まれていたトワが顔を上げた。唖然とした表情が祐樹を見る。だが、言葉の意味を理解した途端に、真っ白の頬に朱が差した。少しだけ、風が治まる。

「う、うそ! だって、いままで、そういった人間もいた! けど、うそついた!」

「約束する。俺は、トワから離れない。ずっとここにいるよ」

「うそ、うそうそ!」

 冷静な祐樹の声を振り払うように、トワは耳を塞いで地面に座り込んだ。その耳は、真っ赤だ。

 木の葉がひらひらと舞い、何枚も何枚もトワの頭を掠めて足元に落ちる。草が揺れ、トワの裸足を擽る。暖かな風が祐樹に冷たく、トワに温かく吹き付ける。

 祐樹は金縛りの解けた足でトワに近づいた。花弁が頭に乗り、草が足に絡み、鳥までがキーッと鳴いた。全ての自然が、トワに近づこうとする祐樹を拒絶している。

 それらをやんわりと押し払いながら、祐樹はしゃがみ込むトワの隣に座った。

 トワは、逃げなかった。

「要って……誰?」

「はじめて、とわと仲良くなったひと」

 何時間でも待つつもりでいた祐樹の期待を、トワは良い意味で裏切った。赤い唇が、話したかったと言わんばかりに開いていく。

 今まで、誰にも話されることのなかった物語が、流れ始める。

「要は、木だったとわを、よくしてくれた。とわに水をくれるだけじゃなくて、子どもも愛してくれてた。要は祐樹と同じくらい、とわと一緒にいたの。そのとき、とわはまだ木だったから話せなかったけど、要はいつもが「元気か?」とか「かわいいなぁ」って話しかけてくれてた。すきだった。信頼、してた……なのに、なのに……」

 スカートを握る指が、白くなる。祐樹も息を飲み、染みだらけのシャツを握りしめた。

「要は、とわを裏切った。とわの身体に斧をたてたの」

 冷気のような言葉が、場を凍りつかせた。全ての音が、活動が、刹那的に止まった。

 過去を懐かしんでいたトワの言葉に、炎が着火する。

「しかも、とわの子どもたちに、火をつけた! 要はとわの身体が目当てだったの! とわのおうちが、子どもたちの死が、目当てだったの!」

 ブルブルと震える身体が、トワの怒りを物語っていた。森も、その時のことを思い出しているのか、人間のような唸りを響かせる。

「みんな、真っ黒になっちゃった……みんな、しんじゃった。いたかった、すごく、痛かったの……」

 胸を抑えたトワの瞳から、一筋の涙が落ちた。

 綺麗な滴だった。青にも、緑にも取れない色の涙は、宝石よりも光輝いていた。

 掛ける言葉を見つけられないまま、祐樹はトワに見蕩れながら、震える手に自分の手を重ねた。トワはびくりと身を弾ませたものの、手を振り払いはしなかった。

「要以外、こんなにずっと一緒だったの、祐樹がはじめて。だから、もっといっぱい、ずっと、一緒にいたいの……」

 過去を思い出して泣いているトワは、美しくもあり、痛ましかった。

「そのほかの人は、みんなすぐとわを裏切った。だから、みんな、名前もわすれちゃった。顔もおぼえてない、しらないもん。閉じこめたから、もう、顔だってみないもん。だから、祐樹もそうなりたくないなら、もう、とわを困らせないで!」

 ダン。

 トワの拳が地面を殴った。地面が、まるで地震のように、一回だけ大きく揺れた。

 細い肩が小刻みに上下する。トワは、静かに泣いていた。

 悲しみ、泣くトワを見たくはない。そう思いつつ、トワから真実を聞けるのは今しかないと、祐樹の中で誰かが囁く。

 祐樹は躊躇いながらも、聞けなかった、しまい込んでいた疑問を外に出していく。

「閉じ込めたって、じゃあ、生きてはいるんだね」

「……しらない」

 トワは鼻を啜り、首を横に振った。

「貴沙良さんは、どんな人、だった?」

「お人よし。祐樹と同じでみんなを助けてっていって、できないなら、無理やりにでもここをでるって怒りだして、だから」

 そこでトワははっと息を飲み、黙った。首を振り、しらないと小さく呟く。

「どこにいるの?」

「おしえない。秘密だもん」

 そこからは、何を聞いてもトワは知らない、分からない、秘密と連呼した。祐樹は一頻り質問をし、口を止めた。

 会話をしないまま、数時間、二人は座っていた。些細な言葉すら交わさないのは、初めてのことだった。

 二人の背を撫でるように穏やかな空気が流れる。自然たちが、ご機嫌を斜めにしたトワを慰めている。それが見えるようだった。

 嵐の前の静けさ。本当に、静かだった。

「ねぇ、トワ。なら何で、人間をここに置くの?」

 数時間ぶりに喉を通った声は妙な力も入らず、流れるように出た。今まで避けられていたトワの視線が祐樹に向く。泣く寸前の、子どもの瞳だった。

「人間が嫌いならこの森に入らせなければいい。なのに、トワはわざと引き入れて、閉じ込めてる。それで何回も裏切られてるのに、また人間をここに招いて、自分の傍に置いてる。寝床を与えて、ご飯まであげてる」

「そ、それは……だって、子どもたちが……それに、えいようを……」

「ううん、そうじゃない。トワとずっと一緒にいた俺には分かるよ。トワの子ども達は、トワが大好きだ。だからきっと、トワが言えば何でも聞いてくれる。自分達を傷付けた天敵を敢えて自分達の住処に、トワの近くに置くなんて、しないと思う」

「うぅ……」

 自信に満ちた祐樹の言葉に、トワが押し負かされていく。祐樹は歪んでいくトワを見つめながら、続ける。

「それに皆、トワに栄養を貰わなくても十分元気だよ。トワだって本当は分かってるよね」

 何も言わず、トワは息を飲んだ。

 トワから栄養を貰った子どもは、確かに成長を早める。喜ぶように手足を伸ばし、甘えるように揺れる。だが、枯れかけている子どもなど、ほぼいない。皆が皆、自分達の力で成長している。光の少ない場所に順応して、生きている。

「本当は、トワだって人間と仲良くなりたいんだよ。裏切られても、まだ信じたいって思ってる。そうでしょ?」

 トワはやはり声を出さない。しかし、表情は変わり始めていた。

「俺は、裏切らないよ、絶対に。だから」

 祐樹はじっと、トワの瞳だけを見つめる。

 眼睛は泉よりも、もうずっと見ていない過去の空よりも麗しい。トワは誰よりも清楚可憐だと、祐樹は改めて思った。

 手を差し出す。その意味を自分でも上手く理解できないまま、祐樹はトワの手を求める。

 トワが手を取れば何かが変わる。勝手な望み。しかし、そんな希望が、そこにはあった。

「とわ……祐樹、を……」

 トワが、動いた。紅葉のような掌が開き、閉じを繰り返しながら迷い、それでも、祐樹に近づいてくる。闇のない、ただ親に縋ろうとする小鳥のようにトワの瞳が瞬く。首が縦に動こうと、揺れる。

 その時、だった。

「あ」

 トワが、びくりと身体をしならせた。

「いたい……からだ、あつい……!」

 白く滑らかな肌に、赤黒い蚯蚓脹れが浮かんでいく。長い髪が逆立つ。トワの身体が、赤くなっていく。服すら色を変え、小さな身体がミシミシと軋みだす。

「あ、あ、あ!」

 あれだけ爛々としていた眼光が、見るに絶えないほど澱んでいく。がだがだと細い身体が震え、声が嗄れていく。

「誰かが、とわの身体に、火、つけたっ!」らいた

 どうしたのかと祐樹が問う前にトワが叫喚した。頭を抱え、身体全体を戦慄させ、唾を飛ばす。

 形相は、まるで悪魔だった。

 トワが、飛ぶ。祐樹の存在など忘れたかのように、発狂したトワは一瞬で姿を消した。

 一人、祐樹は取り残された。それでも苦しがる草が、舞い散る花が、葉を散らす木が、祐樹に助けを求めていた。痛い、痛いと泣く声が、祐樹には確かに聞こえていた。

「トワ……!」

 祐樹は頷き、走り出す。

 風が、祐樹の背を痛いほど強く押す。現れた小鳥達が、先導するように祐樹の前を飛ぶ。皆が、祐樹に願いを託していた。

 祐樹はもう一度頷き、トワが向かった所、火のある場所へと、急いだ。



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