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第三章

兄に再会することができた祐樹。

迷い込んだ森の中で、朝は無邪気な少女トワと森を回り、夜は大好きな兄と一緒に過ごす。

その生活は幸せであるのだが、それでも……

     3


「あ、遊園地だ」

 派手な衣装を着て踊る女性と、オレンジ色のマスコットキャラクター。そんな二人がキーの高い音楽に合わせて踊り、時にはジェットコースターやら観覧車に乗り込み楽しさを顔と身体いっぱいで表現していく。そんなCMだった。

歌番組の途中に入ってきたそのCMに祐樹は目を奪われた。

化粧まで派手な女性も、ずんぐりむっくりなマスコットキャラクターも、本当に楽しそうだった。そう見せることで客を引き寄せるのだと分かっていながらも、演技に見えない笑顔に、祐樹は少しでもテレビに近づこうとソファから前のめりになっていく。

最後に、画面いっぱいに遊園地の名前とリニューアルという文字が映された。右隅は住所も記されている。

「何だ、行きたいのか」

「え?」

 かけられた声に、祐樹は慌てて隣に顔を向けた。

 ソファに深く座って雑誌を読んでいた楡一は、祐樹の声で顔を上げていた。視線はテレビに向けられたまま、声だけが祐樹へと向けられている。

「え、と……うーん、普通くらい」

「何だそれ、分かりにくい」

 曖昧な返事に楡一は笑い、ファッション雑誌を閉じた。

「お、また始まったぞ」

 楡一の言う通り、再び愉快な音楽がテレビから流れ出していた。祐樹の視線がテレビに戻る。

「ほんとだ」

「楽しげな音楽だなー」

 テレビの中では、先ほどとは少し違うCMが流れていた。今度は女性ではなく派手な衣装の男性がマスコットと手を取り合ってスキップをしている。胸より高く上げられる足と目元の化粧がよく目立つ。

 音楽に合わせて踊りながら、大袈裟すぎる身振り手振りでアトラクションに乗る二人を祐樹は食い入るように見つめる。口元は気づかぬうちに自然と弧を描いていた。

 そんな祐樹に楡一は一人頷き、

「オープンしたら行くか」

 先日、近所に散歩に行こうと誘われた声と同じトーンで、楡一はそう言った。

「……え?」

「だから、リニューアルが終わったら遊園地行こうぜ」

 テレビから視線を外して祐樹を見る楡一がはっきりと告げた。口を開けて、目をリスのようにまん丸にして固まっている祐樹を見て、何て顔してるんだよと笑っている。

 ただ楽しそうだなと見ていたCMだった。たが、楡一の誘いで、祐樹の胸がドキドキと高鳴り始めていた。

 言われて初めて、祐樹はこの高揚感が遊園地へ行きたいというものだと、自分の気持ちを理解した。

「兄さんと二人で遊園地って、ちょっと恥ずかしいよ」

 だが、感情に素直になることが出来ず、祐樹はまだ続いているCMと楡一から目を逸らす。

「何でだよ」

「だって、小さな子どもみたいじゃん」

「お前はまだ子どもだろ」

「違うよ! もう大人!」

「はは、そうかそうか」

 怒りに満ちた顔を上げたところで、祐樹の頭に手が降ってきた。小ぶりの頭は大きな両掌に掴まれ、ぐしゃぐしゃと撫でられるというよりも、ぐりぐりと回すように掻き乱される。

「やーめーろー!」

「はっはっは。オレを振り払えないような力じゃ、まだまだ大人とは言えないな」

 手や足を盛大に動かして抵抗しても、楡一の指は黒髪に絡みつき離れない。背の差は年々縮んできたものの、力の差はまだ歴然としていた。

「大人かどうかはともかくとして、お前も年頃だしな。兄弟だけじゃ恥ずかしいっていうならオレの友達も呼んでやるよ。前からお前に会いたいって言ってたし、丁度いい」

 散々頭の上で遊んでから手は離された。半渇きで梳いていない髪はただでさえ跳ね気味だったというのに、手加減なく弄られたことでアニメのキャラクターのように逆立っていた。

「まぁ、三人なら……いいけど」

 後ろ髪と馴染んでいた前髪を直しつつ、祐樹は楡一と若干の距離を取る。スキンシップが嫌な訳ではないのだが、楡一のいう通り、素直になれないお年頃というやつだった。

「よし、じゃあ決定! 話しとくな。ちょっとお節介な部分はあるけど、いい奴だから心配すんなよ。きっとお前も気に入る、いや、気に入られるぞ」

 その日だけは何買っても許してやると豪語する楡一の姿は、祐樹と同じ灰色のスウェット姿で、風呂上りで髪も祐樹以上にボサボサだ。眠いのかだらしない笑顔も、崩れた座り方も、決して立派には見えない。

 それでも祐樹には、他のどの兄よりも楡一が一番理想的な兄だった。

「遊園地、楽しみにしてろよ」

「……うん!」




 約束な。

そんな声を耳にしながら、祐樹は目を開く。そこに、兄の姿はなかった。

 勢いよく顔を起こし、祐樹はまだ目脂のある瞳で周りを見渡す。髪に付いていた藁が落ち視界に入った。次には大きな葉、石の机、周りを囲む緑が瞳に映り込む。

 葉の隙間から顔を出す朝日が、祐樹以外には誰もいない空間を照らす。強くはない日の光。慣れてしまえば、薄暗い世界であることを思い出させる。

人影一つない世界に、祐樹は一人きりだった。

 祐樹が暮らしていた空間ではありえない自然の景色。それが、昨日の出来事を呼び起こしていく。

「そうだ、俺……」

 眠気が遠のいていくに合わせ、呆けていた記憶が鮮明になっていく。記憶が水のように祐樹の頭へ流れ込んでいく。

昨日、祐樹は楡一との再開を果たした。今はいなくとも、確かに楡一は隣にいた。会話をした。温もりを手で感じた。

夢などでは、ない。

「兄さん……」

 祐樹は身体に重たさを感じながらも立ち上がる。見える景色が変わっても、楡一の姿はどこにもない。それどころか、人一人としていない。

だが、

「ゆーうーきー!」

 遠くで声が響いた。祐樹ははっとしたように小屋から飛び出す。

「トワ!」

 外に出た勢いのまま、祐樹は自分を呼んだ名を叫んだ。緑に覆われた森に祐樹の声だけが響く。

光の届かない森の隙間に声が流れ、解けていく。返事はなかった。

 目を覚まして開いた花々、さわさわと揺れる長い草、誰も居ない芝生。目やにが残る瞳が森中を見回すが祐樹の探している人物の姿はない。

 しかし、聞こえてきた声は幻聴ではない。

「トワ、どこ?」

 もう一度祐樹はトワを呼んだ。小屋を離れ、トワが寝床にしている場所へと足を進めていく。

 すると、細い道を囲うようにある草むらがガザガザと動き始めた。

「おはよー!」

「わぁ!」

 それに祐樹が気づいた瞬間に、緑の中からぴょこんと小さな少女が顔を出した。ふわんと長い緑の髪が浮き、小さな身体も飛ぶようにして草むらから脱する。

「よくねれた?」

 朝とは思えないほどの満開の笑顔が、祐樹の前に舞い降りた。唐突なトワの登場に、祐樹の心臓はドッドッと煩い音を立てていた。

「うん。疲れてたから、かな……凄く長く寝てた気がする」

驚きつつも、祐樹はほっと胸を撫で下ろし、おはようと口にした。

「そーだよ! もうお昼寝の時間にちかいよ」

「昼、え、嘘」

「うそじゃないよぉ」

 考えていた以上の時間経過に、祐樹は思わず素っ頓狂な声を上げた。トワは崩れた祐樹の顔を見てけらけらと笑う。

「ねぼすけさんだなぁ、祐樹は。あ、おなかすいたでしょ? ごはん食べにいこ!」

 小さな手が祐樹を掴み、飛び跳ねながら前へと進む。祐樹の足も、トワの速さに合わせて進み始める。

「兄さんは仕事、だよね」

「うん! お仕事はね、日の出とともに始まるんだよ!」

「わ!」

「あはは! 祐樹っていっぱいおどろいて楽しい!」

 ぴょんと、トワは再び草の中に飛び込んだ。手を繋いでいる祐樹も草の中に引きずり込まれる。迫る草に、祐樹は目を眇めた。

 だが、草の中に入ったはずの二人の目の前に広がったのは花畑だった。相変わらず緑の視界は変わらないが、草よりも薄い緑の花が地面を埋め尽くしている。

 トワは花を踏まない様に歩き、一直線に並ぶ一つの石に飛び乗った。石は森の奥へと伸びていて、トワは軽々と次の石へと飛んでいく。引かれる祐樹も、足元に気を配りながら進み、初めにトワが乗った石に足をかける。

「今日はね、りんごの木さんが実を落として、熟した実をくれるって!」

「りんごの木、さん」

「そう! だから、早くいこ!」

 ぐいぐいと手を引かれ、祐樹は次の石へと飛び乗った。身軽なトワがぴょんぴょんと前に進んでいく為、祐樹も転ばないように必死で付いていく。

「はやく!」

 振り向いたトワの微笑みに疑問や考えはぱっと掻き消された。祐樹は反射的に頷き、頬を林檎のように染めた。


 一面が林檎の木で覆われた敷地を歩き回り、二人は実を収穫した。

 見渡す限り、丈夫な幹の林檎の木と、美味しそうな林檎。緑と赤のコントラストと天から注ぐ僅かな光に、祐樹クリスマス時の街の光景を思い出していた。

 収穫は簡単なものだった。

トワが幹に触れると、木は熟しきった実を落としてくれる。林檎はトワや祐樹の腕の中を狙うように落とされ、地面に落ちることはなかった。

 祐樹はぽっかりと口を開けたまま、トワのマジックを眺めていた。間抜けすぎる祐樹の顔を見てトワは実を落とさないように、それでも腹を抱えて笑った。

「たべていーよ」

「いいの?」

「うん、祐樹はとくべつだから、いーよ」

 トワは、持っていた一番大きな林檎を祐樹に手渡した。祐樹は受け取ったぴかぴかの林檎をしばらく眺め、勿体無いと思いながらも口に含む。

 林檎は蕩けるほど甘く熟していた。ジュースのように溢れてくる果汁、さっぱりとした、それでも濃厚な蜜が口全体に広がっていく。欠片はすぐに解けてしい、もう一口、もう一口と、祐樹は芯まで綺麗に間食してしまった。

「美味しい!」

「でしょー。まだまだあるから、いっぱい食べてね!」

 トワは嬉しそうに、祐樹に次の林檎を差し出した。祐樹は結局五個もの林檎をぺろりと平らげてしまった。


 どこまでも広がる林檎の園を回るだけで一日は終わった。

 あっという間に日は落ち、夜が訪れる。黒の鳥が集団で枝に止まり、ヒョーヒョーと笛のような独特な声で鳴き始めていた。その鳴き声が止んだ時、完全に日が森から消えた。

 元々薄暗い森に、黒が落ちた。

だが、その前に閉じた花の中に光が燈り、闇を開く。祐樹は二度目の現想定な世界を目の当たりにし、感服の息を吐いた。

 トワは眠る時間だと目を擦りながら祐樹に別れを告げた。そして昨日と同じように森の中へと消えた。それが、数分前となる。

 祐樹は楡一がいるのであろう寝床を目指して歩きながらずっと、トワのことばかりを考えていた。

 トワはよく喋る。

次々に話題を繰り出すトワの話に頷き、そこから話題を広げていく。それ故に、祐樹からはまだ何も質問ができていない。一番大事なことも聞きそびれていた。

 何故、トワはこんな森の中にいるのか。

 若い人間は見た。だが、トワのように小さな子どもはいなかった。年齢的にもだが、食事や寝床など、一人だけ団体行動から外れているトワは他の人間とは違う。

トワだけは、異質だった。

 間違えて一人で森に入ってしまい、子どもゆえに特別な待遇下にあるのかもしれない。それとも、もっと重要な理由があるのだろうかと、短い草を踏みしめ祐樹は勝手な構想を広げていく。

 しかし、確かなことが一つだけあった。

今まで昼間、トワは一人きりだったということだ。トワから語られた中で、その話題が一番印象深く残っていた。

『とわ、いままでずっと一人ぼっちだったから、祐樹がいてくれて楽しい』

 どういった話の流れでそこにたどり着いたかは覚えていない。しかし、その時の顔だけははっきりと覚えていた。

 泣きそうな顔だった。

寂しげで、広い場所に取り残された子供のようでもあった。すぐに話題を変えられてしまい、詳しく聞くことはできなかったが、数々の話の中でその時だけはトワの声が沈んでいた。

「……よし」

大きな布の中に詰めた林檎を地面に置いて、一息付いた祐樹は決意を固めた。ここにいる間は、出来る限りトワと一緒にいよう、と。

息を吸えば、穢れ一つ無い綺麗な酸素が祐樹の喉へと入り込み、疲れを癒していくようだった。


 傷付けないようにと慎重に荷物を運んでいたため、小屋についた頃にはもう、食事は始まっていた。

 机や床の上に敷かれる大きな葉。その上には、大量の木の実や果実、野菜らしきものや、萎れた花のようなものもある。肉は、見当たらなかった。

「お帰り、祐樹」

 祐樹を見つけた楡一が手を上げた。祐樹も楡一を見つけ、手を振り返す。

食事に熱中していく密集地帯を掻き分け、祐樹は足元に転がる食べ物を一つとして踏まないように気を付けながら前へと進む。手元の荷物が何度か人の頭に当たったが、謝罪しても、食べ物から顔を上げる人は一人もいなかった。

「ただいま。兄さんも、お帰り」

壁に寄りかかりながら緑の果実に齧りついている楡一の隣には、少しだけスペースが残されていた。そこをぽんと楡一が叩き、促されるように祐樹は腰を下ろす。

「はい、お土産だよ」

持っていた袋を膝の上に乗せ、結び目を解く。包みの中からは、真っ赤な林檎が現れた。

「お、サンキュ」

 人に取られる前にと祐樹は三つほど林檎を取り、楡一へ渡した。残りは布ごと床へと置いた。想像していた通り、林檎は一瞬にして大小様々な手の餌食となった。

「今日は、どうだった」

 早速林檎に齧りつきつつ、楡一が祐樹の顔を見る。ものを食べることは止めないものの、表情に無理はない。

「今日は色々な場所を回ったんだ。綺麗なところばかりでね、あと凄いんだよ! トワがりんごの気に触ると林檎の実が落ちてくるんだ!」

「へぇ、凄いな」

「あとね!」

 祐樹が今日の出来事を報告し始めれば、楡一は相槌を打って話を聞いてくれた。

 顔色がいいとは言えないが、昨日ほど体調が悪いようには見えなかった。時折見せる微笑が、祐樹の心を安心させる。

 ほんの昔の、家での和やかな食卓風景が今と重なる。祐樹は林檎を食べることも忘れ、夢中で今日したことを話した。

「あ、そういえば、昨日聞き損ねたんだけど……兄さん、どんな仕事をしてるの?」

 話の流れが変わった途端、一度も止めなかった楡一の食事の手が止まった。二つ目の林檎に刺された歯が、中途半端な位置で動かなくなる。

 楡一の表情は曇り、顔色が目に見えて悪くなっていく。祐樹ははっとして、口に運ぼうとしていた果実を膝に戻した。

「あ、ごめん。話したくないなら、いいよ」

「ん……気ぃ使わせて、悪いな。ちょっと、言葉で説明するには難しい仕事でさ」

「そう、なんだ。うん、分かった」

 楡一は含んだ林檎を咀嚼しながら、本当に申し訳なさそうに目を伏せた。祐樹は髪の毛を翻しながら首を振る。祐樹の中に隠されていた不安が、顔を出し始める。

「危ない、仕事なの?」

「いや、そんなことはねぇよ。ただ、ちょっと体力を消費する、重労働って感じだ」

「重労働……森の工事とか、そんな感じ?」

「近いような、遠いような」

 ごくんと咀嚼物を飲み込みながら、楡一は苦く笑う。その笑顔で、祐樹は仕事が思っている以上に大変なものだと悟った。

 祐樹は転がってきた青い木の実を摘み、口に含む。酸味が広がり、幸せに浸っていた思考を冴えさせていく。

「俺も明日から仕事、手伝うよ」

 祐樹は残り少ない木の実を口に放った。黒い指、白い指が祐樹の前の大きな葉に伸び、色とりどりの木の実を争奪していく。

「いや、それは駄目だ。お前はお前の仕事があるだろ」

「でも、俺だけのんびりしてるなんて出来ないよ」

「駄目だって」

 楡一は最後の一欠けらになった果実をぽんと口に入れると、ニィと笑った。そして、隙だらけの祐樹の頭をじゃれ付く犬のように捕まえた。

 突然に頭を抱きかかえられた祐樹はわっと声を上げ、引いた肘を壁にぶつけた。祐樹の声を気にするものは誰もいなかった。

「明日も、色々と森を回るんだろ。約束したんじゃないのかよ」

「う、そうだけど」

「約束破るのは男としてどうだよ、ん?」

 この色男と茶化され、祐樹の頬がボッと赤く染まる。

 だが、楡一の言葉で、祐樹はトワの言葉を思い出す。

明日もよろしくねと、トワは元気に手を振って寝床へと駆けていった。勝手に楡一の仕事に付いていけばトワとの約束を破ることになる。

 トワと出来る限り一緒にいようと心に誓ったばかりの祐樹は、仕事をすると豪語することは出来なかった。

「お前は、いいんだよ」

 祐樹の心を察するように、楡一は黒色の髪をグシャグシャと撫でた。それに飽きれば、ハの字になっていた眉をぐりぐりと指で押す。

「痛! やめてよ、あ、痛いって!」

「ははっ、痛いようにやってるんだよ」

「もー! やめてよぉ!」

 容赦なく眉間に突き刺さる指の痛さに、祐樹が暴れる。握られた拳が顎を掠めた所で、漸く楡一は祐樹を解放した。

「もう、いきなり何すんのさ」

 祐樹は涙目で楡一を睨む。楡一はへらへらとしながらも、優しい兄の笑顔を浮かべていた。

「明日も、楽しい話聞かせてくれよ」

 そう言いながら、楡一は膨れた腹部を叩きながら大きく欠伸を零す。

 既に周りは食事を終え、眠る準備を始めていた。床に散乱する種や皮は葉に包まれ、部屋の隅に退けられる。外で眠る者は無言で葉や毛布を引きずりながら、部屋を出て行く。

部屋で眠る者はさっさと横になり、葉を枕代わりや布団の代わりにし、夢の世界へと向かい始めている。

 一日中歩き回っていた祐樹も瞼の重みを感じていた。しかし、祐樹は欠伸を飲み込み、瞬きの多くなっていく楡一の袖を引く。

「じゃあ、最後にもう一つだけ、いい?」

 目を瞬かせながら、楡一が頷く。掌に入れたまま食べ忘れた、黄色く、細長い木の実を握り、祐樹は小さく言葉を出した。

「ここから……森からは、出られないんだよね」

 昨日は再会の嬉しさに、聞き損ねていた質問。トワにも、聞かなければと思っていたものだった。

楡一の閉じていく瞼が半分ほど持ち上がる。それでも、直に落ちていった。言葉の代わりに、楡一の首が力なく縦に動かされた。

「何人か、ここから帰ろうとした奴がいたよ。でもな、誰もここを出られなかった。ここに戻ってきちまうか、迷って、獣に食われちまう。それのどっちかだ。ここからは、出られない」

 閉じられた瞼の間から、じわりと水が外へ押し出される。腕が顔を覆い、すぐに見えなくなったものの、その涙が頬を伝ったのは見えてしまった。

ここに来てから楡一のサークル仲間を一人も見ていない。それ以上聞かずとも、言葉の真実味は理解できた。

「ごめんな。俺のせいで、お前まで」

 弱弱しく謝罪しながら、楡一は袖を掴んでいた祐樹の手に触れた。睡魔に負けそうになりながらも楡一の指が祐樹の掌を握る。暖かさが、祐樹を包む。

「ごめん」

「謝らないでよ。俺は兄さんと一緒なら、ずっとここにいても、平気だよ」

「……強がりか?」

「違う、本心だよ」

 祐樹は握られた掌に、もう片方の手を乗せた。指先に熱が溜まりだし、疲れた心を癒していくようだった。

 祐樹が優しく微笑めば、楡一は安心したように眉間から皺を消していった。同時に、半分になっていた潤んだ瞳を閉ざしていく。

押された涙が、楡一の頬を濡らした。

「祐樹がここに来てくれて、よ、かった」

 全てを言い終える前に楡一の頭がかくりと落ちた。事切れたように弛緩した身体が傾いていく。祐樹は慌てて楡一の肩と腕を掴み、床と頭の激突を回避した。

「兄さん!」

 祐樹の問いかけに楡一は答えない。祐樹よりも体重のある身体は支えも虚しく、壁を伝ってずるずると床に吸い寄せられていった。

「兄さ、ん」

 叫ぶように上がった祐樹の声は、楡一の顔を見て小さくなり、静寂に溶けていった。

 楡一は、すうすうと心地の良い息を立てて眠っていた。一定の呼吸音が、静かな空間にゆっくりと広がっていく。話している最中に意識を飛ばしてしまうなど、よっぽどの疲労が伺えた。

 深い安堵の息を吐き、祐樹は思い出したように周りを見渡した。

 部屋の中で起きている人間はもう祐樹だけだった。部屋の中にも、恐らく外からも、人の寝息や鼾、時折、歯軋りしか聞こえてこない。小さな寝言以外に、声はない。

 雑魚寝など修学旅行以来の祐樹だが、当たり前のように楽しい気持ちなどは湧いてこない。

しかし、寂しさはなかった。

「お疲れ兄さん。無理は、しないでね」

 聞こえない言葉を掛け、祐樹はおかしな体制になっている楡一の身体を床に寝かせた。敷いていた灰色の毛布を楡一の腹に掛け、祐樹も横になる。

しばらく眠気を我慢し、祐樹は枝毛の増えた髪を撫で、楡一の寝顔を眺めていた。


 それから祐樹は、朝はトワと共に森を回り、夜は楡一と食事をして眠るという一日を過ごすようになった。

 朝。

祐樹が目覚めた時には、楡一や他の人は誰もいなくなっている。目覚ましのないこの環境では、低血圧である祐樹が楡一と同じ時間に起きるのは聊か難しいことだった。

祐樹が起床したのを見計らうようにしてトワが迎えに来る。小さな手に連れられ、祐樹の一日は始まるのだ。

まず泉に向かい、二人で顔を洗う。トワに渡される葉で歯磨きの代わりをし、それからすぐに森の探索となる。

朝食、昼食は主に移動中だった。

トワは毎回、魔法のように果物を取り出す。

真っ赤に熟れた木の実や、何と表現して良いのか分からない形の果実などを、祐樹は歩きながら食べる。トワは少食だといい、花の蜜ばかりを好んで食していた。トワの提案があれば、泉で魚を取って食べることもあった。

 森の散策は毎日行き先が違った。

川の上流。崖の上の小さな広場。名前も知らない小動物たちが住む洞窟や、赤い絨毯が敷かれたような花畑など、広い森は回りきれないほど様々な場所があった。

 目的地へ向かう途中は色々な話しで盛り上がった。

トワの好きな食べ物、好きな色、好きな遊び。意外と意地っ張りで頑固なことや、寂しがり屋なところ。自然にも祐樹にも優しいところ。トワは両親を知らず、産まれた時からここにいること。

 時間を共有していく毎にトワの新しい一面を見つけ、話す度にトワの一部を知っていく。それを祐樹は嬉しく思い、自分から問うことも多くなっていった。

 主にトワが会話の主導権を握ってはいるが、トワも祐樹のことを知りたがった。質問攻めも少なくはなく、どんな小さなことでも祐樹を知れば、トワは笑顔を咲かせた。

 目的地に着けば仕事が始まる。

 仕事といっても花に水をやったり、木々に付いている害虫を取り払ったりと、簡単な手伝いが多い。だが、時には大変な作業もあり、汗だくで服の色が変わることもあった。

 どの仕事もトワは自分たちにしか出来ない仕事と胸を張り、真剣に、それでも楽しそうに自然と戯れていた。そんなトワを見れば祐樹もどんな軽作業であっても、精を出して仕事に取り組むことができた。

 日が暮れる前に仕事は終る。

 トワは眠そうな目を擦り、名残惜しそうに寝床へ向かう。祐樹は貰ったたくさんの果物を抱え、トワが見えなくなるまで見送るのだ。

 そこから祐樹の次の仕事が始まる。

 荷物を小屋へ置くついでに、汚れている毛布や、誰のか分からない衣服を両手に抱え込む。そして、水飲み場の隣にある小さな川辺へ向かう。

 冷たさを我慢しながら身体や頭を洗い、一日の汚れを落としていく。シャンプーや石鹸などはない。タオルで念入りに身体を擦り、同時進行で脱いだ服と持ってきた布も一緒に洗う。

 日が落ちる頃には大きな木の枝に衣服を干し終わる。穏やかな風に吹かれながらはためく布は毎日目にしていようと、森の中で馴染むことはなかった。

 そこから時間が有れば部屋の掃除となる。しかし、床を埋めるほど大量の果実や木の実が置かれる部屋の掃除は中々に困難な作業だった。

 祐樹がトワと別れ、小屋に着く前には、毛布や葉が乱雑していた床やテーブルの上に食事の準備が整えられている。一体誰が準備しているのかと疑問に思った祐樹が問えば、トワは「ちーさん」と答え、それ以上のことは分からなかった。

 日が落ち、暗闇の世界に蛍のような、しかし幻想的な色が浮かび上がる頃。ようやく皆が小屋へと帰宅する。祐樹はすぐに楡一を見つけ、駆け寄るのだ。

 日ごとによって楡一の疲れ具合は違っていた。

 顔色が良くにこにこと笑って帰ってくる時もあれば、話せないほどに疲労し、食事をしながら目を閉じている日もあった。

 どんなに疲れていようと、楡一は祐樹から一日の出来事を聞きたがった。

祐樹を一人にさせていた時間を取り戻そうとしている。そうと分かっていながら、祐樹も楡一に甘えるように、花の蜜を取った話やトワとの遊びを語るのだった。

 だが、祐樹も楡一に大きな負担を掛けないようにと気を遣い、食事を終えれば皆に合わせて就寝した。一日中汗を流しながら走り回っている祐樹の身体にも疲労は大きく、目を閉じるだけで眠りへ落ちる。

 二人が会話を出来るのは、限られた短い時間だけだ。それでも、身体を寄せ合って眠るだけで、お互いに心は満たされた。

 こうして祐樹の一日は終わる。そして朝起きれば、また変わらぬ日常が始まっていく。

 祐樹が森の中へと迷い込んでから、一月以上が経つ。指折りに数えていた日数は既に分からなくなり、日を追う毎に時間の感覚が失われている。

 それでも、現実とは懸け離れた非日常を受け入れた祐樹は、それが当たり前となっていく。

 苦痛のない世界で兄と共に過ごし、心を許してくれるトワと笑いあう。心地のよい空間と幻影的な景色に、現実世界を、忘れていく。

 気づかぬままに、飲み込まれていく。


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