第二章
2
「ついた!」
どこまでも並ぶピンクの花道を抜ければ、トワの足がようやく止まった。
ぴょんと軽く跳躍してトワは一歩祐樹の前へ出る。ふふんと声に出して言いながら、トワは誇らしげに胸を張った。
息を整えることもせず、祐樹は景色に目を奪われる。
トワに案内された場所には空があった。相変わらず木々は多いが、天を覆う木の葉の間から見えるものは、青。そして光だった。
少しの光が、ずっと漆黒の中にいた祐樹の瞳を刺激する。祐樹の心に絡まった闇を解いていく。
久々の色は祐樹の視線を釘付けにした。細く地面に伸びる朝日。光の当たる薄い緑は、朝露をきらりと輝かせる。ピンク、赤、青の多彩な花が地面を彩り、森の雰囲気を柔らかくしていた。
素直に、祐樹はこの場所を綺麗だと思った。無意識に頷いた祐樹の行動は、トワの顔を綻ばせていた。
祐樹はトワに聞こうと考えていたことを後回しにして、美しい自然を眺めていた。トワも祐樹の隣に並び、大人しく空を見上げる。
時間が流れていくにつれ光が広がっていく。深い緑だった地面は全体的に薄い色となり、閉じていた花は開き出す。
闇色の景色が祐樹から薄れていく。雰囲気も色も、違いすぎた。
「ん……?」
「どしたの」
「いや、音が聞こえて」
草を踏む音が聞こえた。
祐樹は、凝視していた目の前から視線を後に向ける。トワもそれに合わせ、身体を後に向けた。
後には、たった今祐樹とトワが抜けてきた道があった。それを横切るように音は歩いていた。
人が、いた。
「ひ、と」
「うん。ここに住んでる人たちだよ」
驚きで言葉を忘れている祐樹に、トワがつまらなそうに言った。トワは直ぐに人から視線を外し、反対側の芝生へと走っていってしまった。
そんなトワを視線ですら追わず、祐樹は人を見つめる。今度は自然ではなく、人間から目を離すことが出来なくなっていた。
歩いていく人は一人ではない。ぞろぞろと群れを成し、背筋を丸めて前へと進んでいた。男、女、子どもから老人まで年齢層は幅広い。同じものといえば覇気のない、眠気と苦悩に戦っている表情だけだ。
その中で祐樹が目を奪われたのは、たった一人の人間だった。歩みを進めていく人間の中に、祐樹の知った顔があった。
それは。
「兄さん」
良く目立つ赤のシャツが祐樹の前を通り過ぎていく。そのシャツは汚れているものの、見覚えがあった。
楡一が森に入る前に着ていった、祐樹が誕生日にプレゼントしたシャツだ。見間違える訳がない。
少しこけた頬、半分閉じかけている生気の薄い瞳。祐樹に少し似た、容姿。ふらふらと歩くのは、祐樹の兄、楡一だった。
「兄さん!」
走りすぎて痛む喉で叫び、祐樹は走り出した。すぐに楡一に追いつき、その腕を掴む。
「兄さん! 俺だよ、祐樹だよ!」
感動で詰まりそうな声を張り上げ、祐樹は二の腕を強く握り、引っ張る。
楡一がびくりと肩を揺らす。だが、楡一は祐樹の方など見ようともしなかった。呼びかけにも、反応しない。
そこで祐樹は気づいた。
血走っている、兄の双眸に。
「あ、あ……」
楡一の瞳は前だけを見つめていた。足を止めたせいか、身体が震え始める。呼吸さえ乱れていた。
楡一の瞳は、尋常ではない恐怖で一杯だった。
「離せ!」
掴んだ腕は強く振り払われた。拒否を示す声は、祐樹の耳が聞き間違えるはずもない。確かに、楡一の声だった。
見たことのない兄の姿に、祐樹は出そうとした言葉を全て忘れた。何も言えず、祐樹は素直に腕を引き戻す。
「兄、さん……」
搾り出した最後の声も、無視された。楡一は一度も祐樹を見ず、切羽詰った表情で小さくなりはじめている人の列に駆けていった。
「あのね、みんな、いまからお仕事なんだ」
呆然と楡一の後姿を見送る祐樹に言葉をかけたのは、芝生から戻ってきたトワだった。
「仕、事」
もう蟻のように小さい楡一を見ながら祐樹が復唱すれば、トワは元気よく頷く。
「うん。朝はね、ここにいる人間は、お仕事してるんだよ」
「え、朝……今、朝?」
「朝だよぉ! みんなね、とわのために栄養のあるものを作ってくれてるの。だから、ちょっとピリピリしてるの。お仕事って、大変だから」
トワは人差し指の先に乗った蝶々を空に掲げる。真っ赤な蝶々はトワの言うことを聞くように羽を動かし、空へと舞い上がった。
見えなくなった楡一から、祐樹の視線は蝶へと移る。赤すぎる色が青の中では異質で、祐樹の心にシコリを生んだ。
「夕方になったら、それをもって帰ってくるの。だから、そのときにもう一回お話してみればいーよ」
「でも……」
「だいじょーぶ、きっとお仕事終ったあとは、いつも通りだとおもうよ」
「そう、なの?」
「うん、そうなの!」
トワの笑顔が祐樹の動揺を吸い取る。それを知ってか、トワは蝶々に向いていた無邪気さを、祐樹に向けた。
「とわ、一人じゃぜんぜん、栄養とれないの。だから、こんなに小さいの。本当はとわ、もっと大人なんだよ! でもね、年齢よりすっごく身体がちいさいの!」
両手を広げ、芝生の上をとっと跳ねるトワは幼い子どもそのものだ。だが、言葉には大人の優しさがあり、自然と祐樹を納得させていた。
「あ、そうだ!」
ポンと古典的に掌を叩くと、トワは祐樹の手を掴んだ。指をぎゅっと絡ませ、祐樹の腕を引く。
「とわが夜まで、いろんなとこ案内してあげる!」
「わわっ!」
「転ばないでついてきてね!」
無駄に地を跳ねながら、トワは祐樹の足を動かそうと力を込めて腕を握る。トワが激しく飛び動く度にスカートも髪もふわふわと浮き、光に透ける。
優しい色に、祐樹は思わず固い表情を解いた。
「……うん、ありがとう」
「いーよ!」
スカートに合わせるように、祐樹の足が軽く動き始める。トワはまるで飛ぶように前へと進み、祐樹の案内を始めた。
まず祐樹が案内されたのはトワの寝床だった。
丸く刳り貫いてできたようなぽっかりと開いた空。そこからは、太陽の姿が見えていた。ここに着てから初めて見た太陽本来の輝きに、祐樹は感動を覚えた。
日光を燦燦と浴びる場所は限られていた。その限られた範囲の中央に、光を一番多く浴びている大きな切り株があった。優に四メートルの高さがあり、祐樹が悠々と寝転べる太さもある。
その幹のちょうど真ん中に穴があった。
あの中で寝るのと、トワは穴を指差す。太陽の光が当たるのは月に一回程で、今日は珍しい日だとも教えてくれた。穴の隙間から木々の葉、干草のようなものが覗いていた。
日光のおかげか、足元に茂る草花はどこよりも元気に育っていた。色合いがよく、大きさもある。花の名前を祐樹に教えるように呼びながら、トワは日光を浴びて輝いていた。
次に祐樹が案内されたのは、幻想的で美しい泉だった。
緑、青、水色のグラデーションがあり、所々に光る石が水面を照らす。ダイアでも散りばめているようだった。
そこで二人は水を飲み、浅瀬にいた青い魚を追って遊んだ。
そこから少し歩けば、果樹園のように様々な実を茂らせる林に着いた。
トワがぽんと軽く幹に触れれば、熟した木の実が祐樹の手元にぽとりと落ちてきた。
トワが手を広げれば、トワが持てるだけの実がぽろぽろと落とされた。真っ赤に熟した木の実は芳醇な香りを放ち、祐樹の喉を鳴らせた。
ピンクの花だけが広がる花畑に、小鳥やリス、小動物達が集まる森広場。ゴミなど一つも落ちていない川辺、木々のトンネル。二人は疲れも忘れたように、森中を回った。
歩きながら祐樹とトワはたくさんの話をした。
トワは、自分はこの森で一番偉い立場に位置しているのだと言った。子どもがたくさんいて、天気がいいと空を飛べるなどと話した。
トワの話は現実離れしているものばかりだったが、どれも祐樹を笑顔にさせた。
時折、祐樹の顔を覗くトワの表情で、可愛い冗談を言って気遣ってくれているのだと分かる。
自分より年下に気を使わせていることに申し訳なく思いながらも、その優しさは胸にじんわりと染みていく。
「でね、でね!」
身振り、手振りを大げさに使うトワの姿に、祐樹は兄の邪険さを忘れることが出来たのだった。
「つーいた!」
最後に祐樹が案内されたのは、楡一達が住んでいるという場所だった。
緑の中にポツリと存在する、自然の中では不釣合いな小屋だ。人の手が加えられて造られてはいるが、丸太を重ねて屋根を枯れ葉で覆った、子どもの隠れ家のような場所だった。
殺風景な空間は人が暮らしているようには見えない。藁以外には、使い古した分厚い毛布、人を包める程大きい葉、石の机があるだけだった。
しかし、大きさは十分にあり、多くの人々がここで暮らしているというのも納得だった。
「みんな、ここで寝てるんだよ」
座り込んだトワは藁を握り、投げた。藁はひわひわと長のように舞い、藁の上に落ちた。
森からはどうあっても出られないと、歩いている最中にトワは言った。何十人、何百人との人間が勝手に森に入り、帰れなくなった。
森に閉じ込められた原因をトワは言わなかった。祐樹も、何故か聞くことを止めてしまった。
祐樹は何度も小屋の中を見回す。
よく見れば藁の下には服があり、無意識に祐樹は兄の服を探していた。赤、青、白。花のように様々な色があるにも関わらず、祐樹にはどの色も寂しげに見えた。
「ねー、もーいこうよー」
トワの声で、祐樹は弾かれたように顔を上げる。トワは、既に小屋の中には居なかった。
「あれ、トワ、どこ?」
「こっちー! うしろ向いて!」
トワはこの場所に興味がないらしく、一通りの説明をする前に外へと出ていた。長い草の中に腰を下ろし、頬を風船のように膨らませて祐樹を待っている。
「はやくー」
「え、あ、うん!」
それに気づいた祐樹は慌てて小屋を飛び出し、トワを追いかけた。楡一の服を見つけることは出来なかったが、不思議なことに、それに安心を覚えていた。
日が落ち始めた、夕方。
木に囲まれているため、もう微かな太陽は見えない。しかし、鮮やかな色だけは葉と葉の間を縫って地に落とされる。
オレンジが森を包み本来の色が消えていく。その色もまた美しく、森の景色を大人へと変えていった。
数十分でオレンジは消えた。だが、日が完全に落ちようとも、森の中は漆黒にはならなかった。
青白いような月明かりが黒さを和らげる。
光はそれだけではない。眠りにつくために閉じられた花の中が、光っていた。花弁の色に明かりが灯され、昼間と変わらない色が夜の中で輝いていた。
時折、聞いたことのない鳥の鳴き声が風に乗り、耳に入り込む。それ以外は無音だ。痛くなるような音のなさに、祐樹は聴覚を失ったように視覚に神経を向けた。
映画の中にいるような、幻想的な世界が瞳を埋める。現実離れした未知の空間。そこに居るのは祐樹、ただ一人だけだ。
黒になった芝生の上に座り、祐樹は空を見上げる。
僅かな隙間から、どこにいるか分からない月の光と何個も星が見える。祐樹は痛む首を労わることもせず、飽きることなく空を仰ぐ。他にやることがないのだ。
先程まではトワのおかげで気を紛らわせることが出来ていたが、その頼りももういない。早々と眠りに行ってしまった。
一日で色々なことがありすぎた。考えることが多すぎて、祐樹の頭は今、真っ白だ。
あの獣は一体なんなのか。
トワは何者なのか。
兄はどうしてしまったのか。
気付けば時間軸も狂っていた。夜だと思っていたというのにトワは朝だと言った。空も朝の色を示していた。
ここはいったいどこなのか。
帰ることはできるのか。
考えたいことはたくさんあるというのに、まったく纏まらない。浮かんでは消えていき白のキャンバスに戻ってしまう。そんな矛盾のせいで、その場から動く気にすらなれなかった。
だが、そんな祐樹一人の時間は唐突に終わりを告げた。
草を踏む足音が止まった。星を数えていた祐樹は、近づいていた小さすぎる足音に気づけなかった。
「祐樹……?」
祐樹の背に投げつけられた、声。その声は、祐樹の肩を大きく跳ねさせた。それだけではない。動悸、呼吸を乱し、一瞬にして祐樹の身体を熱くさせた。
それほどまでに待ち望んだ声が、祐樹の名を呼んだ。
祐樹は顔を上げ、視線を闇夜から離した。震える睫が何度も頬に影を落とす。首の痛みが、祐樹に少しだけ冷静さを思い出させた。
祐樹から少し離れた場所に立ち尽くす人影があった。ボゥと光る淡い赤の 光を浴び、本来は黒の髪色が茶に見える。
それでも、その髪型、立ち姿、容姿は、祐樹の求めていた人物。
「お前、何で、ここに」
そこには、楡一の姿があった。
瞬きの多い瞳に異様さはない。驚きながらも、祐樹の知っている優しい瞳をしていた。
「っ、兄さん!」
呆然とする楡一の言葉を遮るように、祐樹は立ち上がった。攻撃でもするように頭から楡一に突進し、攣ることも厭わずに手を伸ばす。
「帰ってくるって、言ったのに!」
腕は迷いなく、楡一を捕まえた。
右腕は背に回り、左腕は楡一の右手首を掴む。今度こそはもう逃がさないと、詰まる言葉の代わりに行動が思いを告げる。
懐かしい体温に祐樹の目頭に火が上がる。鼻にツンとしたものが込み上げ、喉の水分が瞬く間に奪われた。
涙で一杯になった瞳が楡一を睨む。一言では言い表せない感情が入り乱れた、赤茶色の瞳。睨んだ所で迫力などはないが、楡一を罪悪感で満たすには十分な威力はあった。
「ごめん。必ず帰るって言ったのに、嘘、ついたな」
「うっ、う……兄さん、兄さん……」
「……ごめん。本当に、ごめんな」
名前を呼んだ時とは違う掠れた声が、謝罪する。その声が更に祐樹の涙を誘い、涙腺を破壊させた。
数十分以上も泣き明かした二人は、手を繋いだまま地面に腰を下ろしていた。ふわふわと浮くような花の光に包まれながら、息を整えていく。
「いつ、ここに来たんだ」
泣き声ばかりだった楡一の喉からは、ようやく言葉を出るようになっていた。
「今日だよ。夜……じゃなくて、朝に兄さん見つけて声かけたのに、手、振り払われた」
泣きすぎて引きつっている頬を摩りながら、祐樹は楡一の言葉に答える。
自分で言った言葉で今朝の出来事をありありと思い出してしまい、祐樹はようやく止まり始めていた涙をまた浮かべてしまう。
尖らされている唇を見て、楡一は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「そっか。あの、ごめん、な……朝方のことは、俺、覚えが……」
「うん、知ってるよ。トワに聞いた。仕事だったんだよね。お疲れ様」
祐樹は涙を拭い、笑顔を作る。楡一の手から伝わる熱が、悲しみを思い出してもすぐに消し去っていく。
「お前、今日……何、してた」
「え、今日?」
だが、楡一は表情を驚きに戻し、僅かに指先を震わせていた。
茶の瞳が、真っ直ぐに祐樹に向く。何かを恐れるような眼差しが、祐樹を刺す。
「トワにこの辺りを案内してもらってたよ」
それがどうしたのかと、祐樹は首を傾げる。
楡一は立ち上がるほどの勢いで口を開ける。だが、そこからは息が漏れるばかりで、声が飛ばされることはなかった。結局、祐樹がどれだけ待っても声は出されないまま、口は閉じられてしまった。
「いや、それならいい。いいんだ。そうか、お前は」
大声を出そうとしていたはずの口から出たのは小さく、萎んだ声だった。
「俺は、何?」
「まだ、小さいからな。仕事はしなくていいんだろ」
「なっ! 兄さんは俺を子ども扱いしすぎだ!」
「ははっ、ごめんごめん」
先程の表情は、楡一から消えていた。何事もなかったように再会の喜びに浸る楡一が、祐樹を安堵させる。
「今から飯の時間なんだ。食いっぱぐれると大変だ。話は、それからでいいか?」
「うん。いつでも大丈夫だよ。もう、一緒にいられるんでしょ?」
「……ああ」
楡一が祐樹を引き、二人は立ち上がった。しっかりと繋がる手は、もう震えてなどいなかった。
楡一に連れて来られた場所は昼間トワに案内された小屋だった。
日の出ていた頃はひっそりとしていた空間が人で犇き合い、深閑さはない。小屋の回りには青色の花光が多く薄暗い印象もあるが、あまりの人の多さに寂しげな色などただの明かりとなっていた。
しかし、数え切れない人数が同じ場所へ集まっているにも関わらず、声がない。二人が部屋の中へ入り込もうと言葉もかけられず、視線も向けなられない。皆話し一つせずに床に座り込み、貪るように食事を取っていた。
今にも寝てしまいそうな疲れきった表情と、素早くものを口の中に食事を詰め込む腕の動き。
どこか不安定な人々の姿に祐樹は言い知れぬ何かを覚えた。
「祐樹」
だが、頭に浮かんだ言葉は、楡一の呼びかけで消えてしまった。凝視していた人の群れから目を離し、祐樹は楡一を探す。
「こっちだ」
楡一は座れる隙間を見つけ、人を掻き分けながら前へ進んでいた。手招きが早く来いと祐樹を呼んでいる。
疑問も忘れ、祐樹は急いで楡一が作った細い道を進んだ。
「今日は特別、みたいだな。肉料理が出るのは珍しいんだ」
二人分開いていた床に楡一が座る。重々しい音が響いたが、誰も視線を寄越すことはない。
楡一の言った通り、机にはほかほかと湯気を出す肉が乗っていた。ぶつ切りにされ、赤いスパイスで軽い化粧が施されている。様々な色や形の木の実、見たことのない果物、食べられるらしい葉の中では肉の存在感は大きすぎた。
「そうなんだ……でも兄さん、普段は果物だけで身体持つの? 結構大食いなのに」
「大丈夫だよ。量はあるしな」
「でも、お米もないみたいだし」
「大丈夫なんだって。果物食べ過ぎて逆に太ったくらいだよ」
早速机の上に手を伸ばした楡一は、取った果実に噛り付いた。
シャクリと新鮮な音が鳴り、林檎の欠片が楡一の口の中で粉々にされていく。それを皮切りに、楡一は無心に食事を始めた。無我夢中に掌の果実を口へ押し込め、飲み込まないうちに次の果物を詰め込む。
その必死な姿が、朝の切羽詰る兄の顔と僅かに重なった。
だが、仕事後だということを思い出せば、すぐに祐樹から不信感は消えていった。祐樹は自分の小ささに溜息を吐く。
回りの食事を邪魔しないように、祐樹も床に腰を下ろす。
座った途端、疲れがどっと祐樹の身体を襲う。腕が重くなり、意識が薄らぐ。奥に沈んでいた眠気が、浮上していく。
それでも少しだけ食事を取ろうと、祐樹は目の前に転がってきた果物を手に取った。口に含めば果汁が口を甘さで満たす。
一口齧った果実はすぐに溶けて、喉の奥へと落ちた。
祐樹が一つの桃を味わっている間に食事は終わっていた。
石の机の上に並んでいた大量の食事は、瞬く間に皆の胃の中へと吸い込まれていた。残されたのは、硬い果実の皮、種、肉の骨のみだった。
「兄さん」
床に横になりながら、祐樹は小声で楡一に声を向けた。
すでに起きている者はいない。食事を終えたものから順に床へと横になり、寝息を立て始めている。外へ出て寝る者も多く、小屋の中は楡一と祐樹が広々と寝転んでもまだ余裕があった。
沈黙を守られる限られた空間では、どれだけ小声にしようと祐樹の声は広がってしまう。煌々としていた花の光さえ控えめになった今、二人でゆっくりと話せる時間などは与えられなかった。
話は明日。そう短く交わし二人は横になっていた。それでも、祐樹は楡一の声聞きたさに、口を開いていた。
「特別って、今日は何かあったの?」
祐樹の声で、半分になっていた楡一の瞳が開く。眠そうに、それでも微笑みながら、楡一は質問に答えた。
「お前が、ここに来たから、かな」
多分なと付け加え、楡一は目を閉じてしまった。いや、限界を迎えたのだ。瞳が瞼に覆われた直後、楡一の口から漏れ始めたのは寝息だった。スイッチを切ったように、楡一は一瞬で眠りに落ちてしまった。
楡一にも、既に夢の中の人たちにも悪いと、祐樹も口を閉じる。楡一の背に藁と大きな葉を掛けてから、温もりを分けてもらうように身体を密着させた。
しばらく祐樹は花の光のせいで青く映る兄の顔を眺めながら、胸の前にある指に自らの指を絡ませて遊んだ。ぴくりとも反応しない指だが、体温だけは祐樹に答えてくれるように、温かかった。
安心感に浸っている間に、祐樹の意識もゆっくりと、闇へ飲み込まれていった。