第六話(幕間):泥の中の誇り
――あれは、冷たい雨の降る夜のことだった。
「10年前、セディを貧民街で拾ってきた時には、まさかこんな日が来るとは思わなかったわ」
マダム・リリスは、琥珀色の液体が揺れるグラスを傾けながら、懐かしむように目を細めた。
あの日、小さな商店が火事になり、家も、家族も、財産もすべてを失った少年――セドリック。 彼は泥にまみれ、貧民街の路地裏で一人、死にかけていた。 マダムが彼を拾い上げたことに、確たる理由はない。ただ、死臭漂う路地裏で、その幼い瞳だけが、まだ死を受け入れずにギラギラと燃えていたからだ。 その生命力と気高さに、何か「未来」のようなものを感じたのかもしれない。
だが、連れ帰った少年は、手負いの獣そのものだった。 絶望して心を閉ざし、食事もろくに摂らず、誰の指図も受けない「噛みつき犬」。マダムの手すら焼くほどの狂犬だった。
――けれど。そんな薄汚れた少年を見た瞬間、ルネだけは違っていた。
『お母様、この子は私のよ』
そう宣言した少女の瞳は、年相応の熱を帯びていた。 マダムは知っている。ルネという少女は、誰にでも愛想よく振る舞うけれど、その瞳は決して笑っていないことを。賢すぎる彼女は、常に孤独という名の鎧を着ていた。 けれど、あの時のルネの瞳は、興奮で輝いていたのだ。まるで、自分と同じ傷を持つ「片割れ」を見つけたかのように。
ルネは、泥だらけの床に躊躇なく膝をつき、自分の夕食である焼きたてのパンをセドリックに差し出した。
『……セドリックと言ったわね。私も今日、家を失ったわ。でも、心までは失っていない』
ルネの声は凛としていたが、そのドレスの裾は雨と泥で汚れ、指先はわずかに震えていた。 彼女もまた、崖っぷちに立っていたのだ。
『貴方もそうでしょ? 商人の子なら、感情ではなく損得で考えなさい。ここで意地を張って餓死するのと、私に仕えて美味しいものを食べるの。……どちらが得か』
セドリックの瞳が大きく見開かれる。 同情されたなら、彼は噛みついていただろう。恵まれたなら、拒絶していただろう。 だが、目の前の少女は彼に対し「対等な取引」を持ちかけたのだ。
しばらくの静寂の後、セドリックは震える手でルネからパンをひったくり、獣のように貪り始めた。
けれど、その視線だけは、片時もルネから外れなかった。 泥と雨に濡れながらも、凛と顎を上げて自分を見下ろす少女。その姿が、薄汚れた少年の目には、後光差す「女神」か、あるいは絶対的な「支配者」として焼き付いたのだろう。 空腹を満たすためだけではない。彼はその瞬間、そのパンと共に、彼女への「魂の服従」を飲み込んだのだ。
『……よし。いい子ね』
16歳の少女が13歳の少年に言うには、あまりにませた台詞だった。だが、パンを咀嚼する少年の目には、すでにルネへの絶対的な服従と、崇拝に近い光が宿っていた。
「ルネがセディにパンを分け与えた時、あの子は初めて『守られる側』ではなく『守る側』になった。そしてセディがルネに懐いた時、ルネは初めて『弱さを見せられる相手』を手に入れた。……ふふ、あんな小さい頃から、二人の世界は完結していたのね」
マダム・リリスはグラスを飲み干し、ふう、と満足げな吐息を漏らす。 泥の中で結ばれた契約は、10年の時を経て、誰にも入り込めない強固な愛へと変貌を遂げていた。




