第五話:夜の帳と、甘い支配
1.夜の帳と、甘い支配
ヴィンセントたちが連れ去られた後の『リリウム・ノワール』は、静寂そのものだった。 営業終了を告げる重厚な扉の鍵が閉められ、残ったのはルネとセドリックの二人だけ。
「……セディ。いつまでそうしているつもり?」
サロンの中央、ルネは背後から彼に抱きしめられていた。 セドリックの厚い胸板から伝わる鼓動は驚くほど速く、肩に埋められた彼の顔から、熱い吐息が首筋をかすめる。
「……十年間、ずっとこの日を待っていたと言ったでしょう。もう、仕事仲間の顔をして貴女の隣に立つのは限界なんです、ルネ」
低い、空気を震わせるような声。 いつもなら「お嬢様」と呼ぶ彼が、今はその名を呼び捨てにする。その響きだけで、耳年増な彼女の知識が「これは大変なことになるわ」と警報を鳴らしていた。
「あ、あのね、セディ。……知識として知ってはいるけれど、こういうのは、もっと段階を踏んで……っ」
言いかけた唇が、彼の指先で塞がれる。 セドリックはゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるようにルネの正面に回り込んだ。
彼は右手の黒革の手袋を、歯で噛んで引き抜く。 露わになった『黒百合』の刺青が刻まれた白い手が、ルネの頬を包み込んだ。
「……段階? そんなもの、十年の間に何度も脳内で済ませてきました。……今の私は、貴女が思っているほど、『優しいセディ』ではありませんよ?」
モノクルの奥、鬱金色の瞳が、隠しきれない情熱でぎらりと光った。 ルネの腰をぐいと引き寄せると、逃げ場を塞ぐように、カウンターの上へとその身体を抱え上げた。
「あ……っ、」
ルネの赤い髪がカウンターに広がる。マホガニーのひんやりとした感触と、セドリックの体の熱さにルネの身体は挟み込まれた。 知識では知っているはずの『愛の交わり』。けれど、セドリックに触れられた場所が火傷したように熱く、ルネの思考が真っ白に塗りつぶされていく。
「ルネ。貴女の自由を、私がすべて貰い受けてもいいですか? ……もう二度と、他の男の影すら貴女に近づかせたくないんです。……私だけのものでいてほしい」
切羽詰まったような、懇願するような瞳。 余裕のあったはずの年下男子が、ルネを前にしてこんなにも余裕を失っている。
その事実が、彼女の心の最後の閂を外してしまった。
「……ええ。いいわ。……私も、貴方以外の男は知らないし、知りたくもないもの」
ルネが精一杯の勇気を出して彼の首に手を回した瞬間、セドリックの瞳から「自制」の光が完全に消えた。
「――後悔しても、もう離しませんから」
降り注ぐのは、奪うような、けれど、とろけるほど甘い口づけ。 策士としてのルネはどこかへ消え去り、ただ自分を愛し抜いてくれるこの豹のような男の腕の中で、初めての「甘美な敗北」を知るのだった。
2.熱帯の寝所、解かれる理性
ふわり、と浮遊感が体を包んだ。 セドリックの強靭な腕がルネ私の膝裏と背中に回され、いわゆる「お姫様抱っこ」の形で軽々と持ち上げられる。
「あ……セディ、自分で歩けるわ」
「……嫌です。今夜の貴女は、一歩も歩かせたくない」
壊れ物を扱うような、けれど指先からは逃がさないという強い独占欲が伝わってくる。 寝室へと続く廊下、セドリックの胸元に顔を埋める形になったルネは、その服越しに伝わる熱に、顔が火を吹くほど赤くなるのを感じていた。
(私だけが、こんなに心臓がうるさいのかしら……?)
ルネは知識では知っていた。愛し合う男女は、期待と緊張で脈拍が上がるものだと。けれど、横顔を見る限り、セドリックはいつも通りの「完璧な若主人」の無表情を保っているように見えた。
寝室の扉が閉まり、柔らかな寝台の上にそっと降ろされる。 沈み込むシーツの感触に戸惑いながら、ルネは伺うように、上目遣いで彼を見上げた。
モノクルを外したセドリックの鬱金色の瞳が、月明かりを吸い込んでぎらりと欲情の色に染まっている。
「ルネ……」
掠れた、余裕のない声。 セドリックはルネの右手を取り、自分のシャツの左胸――心臓の真上に、それを押し当てた。
「ひゃっ……!?」
手のひらから伝わってきたのは、暴力的なまでの衝撃だった。 ドク、ドク、ドク、と、まるで早鐘を打つような激しい鼓動。いつもはヒヤリと冷たいはずの彼の肌が、今は服の上からでも分かるほど、恐ろしい熱を帯びている。
「そんな顔で私を見るなんて……。自覚がないなら、酷いですよ。煽っているんですか?」
セドリックがルネの指先に、熱い、熱い唇を落とす。
「そんなことしなくても……私が十年間、どれほど貴女を欲して、この日を待ち侘びていたか。……これで、分かったでしょう?」
逃げ場を塞ぐように、セドリックの大きな体がルネを覆い隠す。 セドリックの心臓の音が、ルネの手のひらを伝って、自分の鼓動と重なっていく。
「……セ、セディ……っ」
「もう、止められませんよ。……全部、私のものにさせてください」
耳年増な知識が、今度こそ完全に消え去った。 理論でも、策謀でもない。ただ一人の男の熱情に、彼女は生まれて初めて、快楽という名の濁流に身を任せる覚悟を決めた。
「顔真っ赤」
口付けを交わす合間に、ふっとセドリックが笑う。
「……だって、息が」
「鼻で息して」
そう言いながらも執拗な口付けは続く。顔の角度を変え、セドリックの熱い舌がルネの口腔内を蹂躙する。
「……や……む、り……」
真っ赤な顔で涙目になって訴えるルネの輪郭をセドリックの白い指がなぞる。
「可愛い……堪らないな」
セドリックは浅い息を繰り返しながら、ルネのドレスに手をかける。細い腰を覆うコルセットの紐を器用に外していった。
「ああ、――本当に綺麗だ、ルネ。この綺麗な肌に私のものだという徴をつけないとね」
クロユリの刻印が印された手が一糸纏わぬ乙女の肢体をくまなく撫であげる。首筋から肩へ。肩から胸の双丘へ。頂きを悪戯に撫で上げ摘むとルネの口から甘い声があがる。
「や……んっ。セディ、怖い……」
「ふふ、イヤじゃないでしょ? 気持ち良くない?」
さらに柔らかく揉みしだくとルネは頭を振り、体を震わせる。
「熱くなって来たのかな?」
するりと手がルネの膝を割ると敏感な場所にたどり着く。
「……お願い、ルネ。逃げないで――気持ちよくしてあげるから」
セドリックの熱い息と舌がルネの耳朶を舐めあげる。
「あ……んっ――!」
熱く揉みしだかれ、悪戯に弾かれる感覚に、ルネは弓なりに背を逸らす。初めて知る悦びに翻弄され、彼女の視界は真っ白な火花を散らした。 震える肢体を抱きとめ、セドリックは満足げに目を細める。
「――上手にできたね。……さあ、次は私の番だ」
セドリックも着ていた服を脱ぎ捨て、自らの欲望をルネの中に進めた。
3.結びつき、そして余韻
初めての衝撃と、熱い奔流に、ルネ私は声を枯らして泣いた。 知識で知っていた「痛み」なんて一瞬で、その後に襲ってきたのは、全身が溶けて混ざり合うような、抗いようのない熱。
「……っ、ふ……あ、……セディ、……セディ」
何度も彼の名前を呼ぶ。そのたびに、セドリックはルネの髪を、頬を、そして涙で濡れた目元を、壊れ物を扱うような手つきで何度も食んだ。
重なる肌から伝わる彼の熱は、先ほどよりもさらに高まっているように感じられる。 セドリックがルネの奥深くに、自分がここに存在しているという「証」を刻みつけるたび、ルネの意識は真っ白な火花を散らして弾けた。
「ルネ……可愛い、愛している……。もう、誰にも渡さない……」
耳元で囁かれる、掠れた愛の言葉。 いつも完璧だった彼の余裕が、彼の存在だけでこんなにも崩れ去っている。 それが何よりも誇らしく、そして——恐ろしいほどに甘美だった。
◇
どれほどの時間が経っただろう。 激しい嵐が去った後の寝室には、二人の不揃いな吐息だけが残っていた。
シーツの中に潜り込み、ルネはセドリックの腕の中にすっぽりと収まっている。
「……まだ、ドキドキしてるわ」
ルネの呟きに、セドリックは満足そうに目を細めた。 セドリックはルネの肩口に顔を寄せ、そこにある「自分のつけた赤い徴」を、愛おしそうに指でなぞる。
「……私の心臓も、まだ静まりそうにありません。十年間、ずっとこうして貴女を抱きしめることだけを考えてきたんですから」
彼は彼女の指先を取り、その一本一本に丁寧な口づけを落としていく。 先ほどまでの猛々しさは鳴りを潜め、今はただ、大切な宝物を慈しむような、静かで重い愛情がそこにあった。
「ねえ、セディ。……知識では知っていたけれど、あんなの……聞いてないわよ」
「ふふ、ルネ。貴女の知識は『他人の物語』でしょう? 私たちが描くのは、私たちだけの真実ですよ」
セドリックはルネの腰をさらに強く引き寄せ、自分の体温の中にルネを閉じ込める。
「……明日の朝、後悔しても遅いですからね。貴女はもう、どこへも逃げられない。私の愛で、一生縛り付けて差し上げます」
過保護で、独占欲が強くて、少しだけ不器用な彼女だけのヒーロー。 ルネはセドリックの胸に顔を埋め、初めて手に入れた「本当の安らぎ」の中で、ゆっくりと瞳を閉じた。




